薄れゆく境界線


 暖かな布団の中で、直樹は重い瞼をゆっくりと開いた。白い天井。白い壁。ここはどこだろうと、辺りを見回す。

 横になっているのはベッドのようだ。白いシーツに包まれた布団が、直樹の身体を暖めてくれている。

 ここはどうも病院の一室らしい。ベッドのそばには大きな窓があり、クローゼット、ソファーが置かれている。個室のようだ。


 と、そこへ入口の引き戸が開き、見知った女性が顔を覗かせた。直樹の顔を見た瞬間、彼女は大きな声で直樹の名前を呼んだ。


「直樹さん! 」


 彼女はベッドに駆け寄り、直樹の手を強く握る。大きな瞳からは涙がぽろぽろと零れていた。


「……彩ちゃん。久しぶり」


 中島彩なかじまあや。隼人の妹で、元患者でもある。二年前、彼女の夢の中で風花は削除デリートされたのだった。

 心配そうにする彩を安心させようと、腹に力を入れて起き上がろうとした瞬間、激痛がはしり思わず呻き声を上げた。


「ダメですよ! まだ塞がってないんだから! じっとしていてください」


 彩は慌てた様子で安静にするように促し、乱れた布団を整える。誰が着せてくれたのかは分からない白いTシャツをめくって、ズキズキと痛む腹に目をやると包帯が何重にも巻かれていた。赤い血がうっすらと滲んでいる。


「俺……一体なにが起きたのか……」


「やっと目が覚めたかぁ。心配させやがって。三日も眠ったまんまだったんだぞ」


 開いた引き戸のそばから男の声がして、二人は視線を向けた。

 グレーのスーツを着崩したがたいのいい男が、ネクタイを緩めながら病室に入ってきた。総管理局自然保護課室長、笹山だ。


「ご主人! 良かった! 目が覚めたんですね!」


 頭に響くような高い声で登場したのはカレンだ。笹山の大きな身体を押し退けるようにして、飛び込んでくる。そんな彼女を窘めるような、落ち着いた女性の声が続く。


「カレン。直樹様はまだ目覚めたばかりなのよ。少しは落ち着きなさい」


 懐かしい声だ。カレンをその細い腕で制したのは、大門秀樹が三人の弟子に遺した戦闘型アンドロイド三体のうちの一体、結城つかさの助手であるジルだった。彼女がいるということは……


「ジルが心配するべきだったのはカレンじゃなくて、お前だったみたいだな」


 紺色のスーツに身を包み、眼鏡をかけた細身の長身。ジルの後ろの壁にもたれかかり、腕組みをしているのは紛れもなく結城つかさ、その人だった。つかさの皮肉に思わず苦笑いしてしまう。返す言葉がない。


「心配かけて悪い。まさかこんな形で全員揃うとはな……」


 直樹はそう言いながら、あと一人居ないことに気付いた。笹山の後ろの引き戸のそばで、隠れているつもりらしい仲間の最後の一人に声をかける。


「そんな所で隠れていないで入ってこいよ」


 観念したように、隠れていた隼人が俯き肩を縮めながら病室の中へゆっくりと入ってくる。そんな様子を見ていた笹山に「なにしょぼくれてんだ」と背中を強く叩かれ、半ば強引に直樹の前に無理矢理押し出された。

 今の今まで直樹のそばで手を握っていた彩が、はっとしたように手を離し、顔を真っ赤にして隼人に場所を譲った。兄に泣いているのがバレて恥ずかしかったのだろうか。


「直樹……ごめん、俺が付いていながら……。二人が夢の中に入った途端、突然接続が出来なくなって必死で接続を試みてたんだけど……俺が不甲斐ないばっかりに獏にこんな……」


 申し訳なさそうにさらに小さくなる隼人。直樹は彼の肩に手を置いて、じっと目を見つめる。


「お前は悪くないよ。今までより獏の力は強まってる。想定外のことが起きても不思議じゃない。最終的には反応が遅れた俺の責任だ」


 直樹は隼人に言い聞かせ、肩にぽんと手を置いて励ます。少しだけ、隼人の顔に明るさが戻った気がした。

 隼人が少し元気になったところで、隣に立つカレンに視線を向け、目覚めてからずっと疑問に思っていたことを直樹は口にした。


「ところでさ、俺はなんで腹を怪我してる? 確かに夢の中で獏に腹を刺されたが……気を失うことはあっても傷は現実にまでは干渉出来ないはずだろ、何があった?」


 夢の中で怪我をすれば、血も出るし痛みも伴う。しかし、その傷が現実に干渉することはないはずだ。もし夢の中で致命傷を負えば気を失いそのまま目覚めず命を失う危険もあるが、現実の身体にまで傷が干渉してくるなど、獏が現れてから約十三年間一度も無かったことだった。


「はい、普通この傷なら1日気を失うことはあっても、現実にまで干渉してくるなんてことはありえないはずです。データが破損でもしない限りは現実の身体に影響が出ることはないはずなんですが……。ご主人のこの傷は破損に至るほどのものではありませんでしたし、すぐに現実に戻ったので普通ならば数時間気を失う程度のもののはずです。それと……気になることが一つ。最近接続がおかしくなること、獏の能力が飛躍的に上がってることと関係があるかは分からないんですが……ちょっと隼人さん、あれを出してもらってもいいですか?」


 そう言って、隼人が肩からかけていたショルダーバッグを指差した。隼人は頷き、バッグから巾着袋を取り出してカレンに手渡した。膨らんだ巾着袋から出てきたのは、黒光りし鋭く尖った物体だった。直樹にはそれに見覚えがあった。


「それって獏の爪……か?」


「はい、ご主人が刺されてすぐに獏の爪を切り離しました。それでデータが破損する前に現実に戻ったのですが、戻ってからも何故か獏の爪がご主人の身体に刺さったままで、夢の中と同じ傷を負っていたんです」


 確かによく見ると、黒光りした獏の爪には茶色く変色した血がこびりついている。


「今まで、獏の身体の一部や傷が現実に干渉してくるなんてことは一度もなかった。お前が刺された後すぐにカレンから連絡が入って、こっちでも色々と試してみたんだが……」


 皆の後ろで静かに話を聞いていたつかさは、カレンの説明に補足するようにそう言い、上着のポケットから手帳を取り出して直樹の元へ歩み寄る。手帳に挟まれていた1枚の紙を直樹に手渡した。

 その紙には爪の構成物質である、ケラチン、水分、脂肪の割合が細かく記載されていた。


「お前の腹に刺さってた爪を少し削って成分調査してみた。間違いなく現実に存在する爪だよこれは。タンパク質や水分の割合も一般的な生物となんら変わりがない。間違いなく生物の爪だ」


「てことは、獏は夢以外の場所にも生物として存在してる……ってことか?」


 顎に手を当て難しい顔で考え込む直樹を見て、大人しく話を聞いていた彩が「あの……」と手を上げた。全員の視線が彩に集中する。皆に注目されて少し頬を赤らめた彩が恥ずかしそうに、けれどはっきりとした口調で言った。


「あんまり私詳しく聞いた事なくて……よく分かってないんですけど、どうして獏の身体や傷は現実では消滅しちゃうんですか? 夢の中ってそもそもどうなってるんですか?」


 彩のその質問に答えたのはつかさだった。「少し長くなるけど」と前置きをしてから説明を始めた。



「夢っていうのはそもそも人の心からできてる。他人が干渉できるものじゃないし、もちろん現実に干渉するものでもない。けど、獏は人の心に干渉し夢を喰らう魔物だ。その力の原理は、恐らく科学で解明できるようなもんじゃない。それに対抗するために作られたのがマインドリカバリーだ、それは分かるかい?」


 つかさの問いかけに、彩はこくんと頷いた。さらに説明を続ける。


「干渉したい対象の心そのものをデータ化し、自身の肉体、心もデータ化して無理矢理に他人の心へ干渉する装置がマインドリカバリーなんだ。対象者の身体をPCとして例えるなら、心がデータで獏がコンピューターウィルス、俺達がセキュリティソフトってところだな。夢の中に入ることの危険性リスクは、夢の中でデータ化した肉体が完全に破損すれば現実に戻ってこれなくなること。そのまま消滅してしまうんだよ。これがカレンの言っていた現実に干渉するということ」


 つかさの説明に驚いたように目を丸くする彩。そして心配そうな顔で直樹を見つめる。


「もし怪我をしても、少しの破損なら戻ってこられるんですか?」


「その怪我くらいなら一時間程度気を失うことになるが、戻ってはこれる。まぁ出来るならこんな怪我するべきじゃないけどな」


 直樹の腹の辺りを指さして、「やれやれ」と首を横に振った。つかさの皮肉に、直樹は頭を掻きながら苦笑いした。


「あとは獏の存在。これは未だにどういうものなのか俺達も分かっていない。なにせ、どれだけ傷を受けても獏の身体の一部を持ち帰ろうとしても、身体に傷が残ることはなかったし、現実に戻った時点で獏の身体は跡形もなく消えていたからな。だから、こいつらが現実に存在する生物なのか、それとも心を喰らうだけの概念のようなものかそれすらも分からなかったが……今回のことで獏は現実に存在するってことが証明された。獏の能力が上がっているところを見ると、もしかしたら心から獏の力が溢れ出して、現実と夢の境界線が曖昧になってきてるのかもしれないな」


 つかさが説明を一通り終えると、話を聞いていた彩が不安そうな顔で俯き、


「……現実に獏が存在しているとして、この先この街は……この街の人達はどうなっちゃうのかな」


 そう、消え入りそうな声で呟いた。

 少しの沈黙。重い沈黙を破ったのは、この場に不釣り合いなほど明るい声を上げた笹山だった。


「まぁ! とりあえず暗い話は置いといてだ! せっかく直樹の目が覚めたんだ。なんか美味いもんでも食いに行こう! たまには奢ってやる!」


 笹山の太っ腹発言に一番に食いついたのはカレンだった。目をきらきらと輝かせて、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。


「わーい! お肉ですか!? お寿司ですか!?」


「ところでさ、カレンちゃんって食べた物どうなってんの?」


 しおらしくしていた隼人が、少し明るさを取り戻した口調でカレンに尋ねた。その問いに当たり前だというような顔でどんと胸を叩いた。


「食べた物は私の心臓部でエネルギーに変換されるのです! ちゃんと味も分かるんですよ。高いお肉は美味しいです! これも秀樹様のおかげです!」


「秀樹様への感謝なら、もっと別のところでしてもらいたいものだわね」


 はぁ、と溜息をつきながら、こめかみに手を当て呆れ顔なのはジルだ。大きな声で騒ぐ大男とアンドロイドに牽制をかけようとした時、病室の引き戸が勢いよく開いた。


「お静かに! 何時だと思っているんですか! それに今から外出など言語道断! 絶対安静です!」


 白衣の天使……とは程遠いほどお怒りの様子なのは、眼鏡をかけた40代前半の看護婦だった。名札には"諏訪野すわの"と書かれている。諏訪野のよく通る高らかな声が、無慈悲にも外出禁止を告げたのだった。

 その揺るぎない決定事項にブーイングを起こす二人。そんな彼らを無視し、直樹へと真っ直ぐ歩み寄ると、てきぱきと傷の様子を確認してくれた。


「包帯も一応替えておきましたから、傷が塞がるまで安静にしているように。何かあればいつでも呼んでくださいね」


 さっきとはうって変わって優しい口調でそう告げた彼女は、とても優しい顔をしていた。しかし、笹山とカレンに向き直った途端鬼の形相に変わり、


「次騒いだら、出ていってもらいますからね!」


 と言い放った。どうやら、笹山とカレンはこの人には頭が上がらないようで、しょんぼりと小さくなっている。その様子が何だかおかしくて、思わず直樹は吹き出した。それに釣られて、隼人、彩も笑い出す。普段はクールなジルやつかさも頬を緩めて、笑顔になっていた。

 病室には穏やかな時間が流れ、このまま悪夢など消えてなくなってしまえばいいのにと、直樹はそんなことを考えていた。今はただ、この時間を噛み締めていたい。


 しかし、そんな時間を嘲笑うかのように、ゆっくりと現実を蝕み始めた悪夢がすぐそばまで迫ってきていることに、悪意が動き始めていることに、この時の直樹はまだ知る由もなかった――。

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