断章

記憶


 空は真っ黒な雨雲に覆われ、月明かりもない暗い夜。

 冷たい鉄の街をさらに冷やすように、激しい雨が降り続いている。

 オイルランプの淡い光に照らされた部屋で読書をしていた中島彩なかじまあやは、激しい雨と雷の轟音に肩をびくっと震わせた。


 ――あの日もたしか、今晩のような激しい雨だった。今でも忘れない、いや忘れちゃいけないあの日。

 窓に激しく打ちつける雨粒を見つめながら、彩はあの日のことを思い出していた。


 初代Dream Doctor 大門秀樹の三人の弟子の一人であった井上風花いのうえふうか。彼女が突然姿を消してしまったあの日のことを――。




 D.Dとの出会いは悪夢がきっかけだった。ちょうど二年前。彩が十八歳の時のことだ。



 ある日突然、変な夢を見るようになった。象のように長い鼻。不気味に光る赤い目。くちゃくちゃと音を立てながら、色鮮やかな情景を食べる黒くて大きな化け物。「あぁ。これが獏なんだ」夢から覚めた時、そう確信したのを覚えている。

 本当ならすぐにでも誰かに相談するべきだった。しかし、まさか自分に限って……という思いから、唯一無二の家族である兄にすら相談できずにいた。獏に取り憑かれたかもしれない。それを認めることが怖かったのだ。

 五歳の時に両親を亡くしてから、たった一人の家族である兄が、親代わりを務めてくれた。自分は中学を中退して、私を大学に行かせるために寝る間を惜しんで働く兄に、余計な心労をかけたくなかった、というのも相談できなかった理由の一つだ。


 でもその妹としての気遣いが、最悪の結果を招いた。


 日に日に悪夢は酷くなり、眠ることが怖くなった。けれど睡魔だけは、以前と変わらず襲ってくる。眠りたくないのに眠ってしまうその恐怖に、精神的に追い詰められ、その時は遂に来てしまった。

 いったいいつから眠っていたのか、いつまで眠っていたのか分からないが、とてもとても長い夢を見ていたような気がする。

 最後に記憶として残っているのは、色白で儚げな美しい女性に縋り付くように泣いている、一人の白衣姿の男性。


 長い夢から覚めた時、私の部屋の中は大変な騒ぎだった。

 見知らぬ白衣姿の若い男の人が、地面にうずくまるように声を上げて泣いていて、そのそばには髪を後ろにまとめた十六歳くらいの少女が、とても悲しそうな顔で男の人の肩を抱いていた。何か良くないことが起きたのだろうなということしか分からなかったが、その時の私は分かろうともしていなかった。

 その様子に戸惑いながらも、目覚めた私を強い力で抱きしめてくれたのは兄だった。兄に抱きしめられながら、何の感情も湧かない自分がいることにも気付いた。

「夢とは心からできている」――大門秀樹が言っていたというこの言葉は紛れもない事実のようで、獏に夢を喰われた人間は心の一部も喰われて感情を失くしてしまうらしい、ということを後になって知ることになる。


 目が覚めてからも沢山の人にお世話になった。何を話しかけてもあまり反応を示さない私に、兄は根気よく話しかけてくれたし、色んなところに連れていってくれた。そんな風に面倒を見てくれたのは兄だけじゃない。


 大門直樹とその助手であるカレン。あの日、泣いていた男の人と彼の肩を抱いていた少女の名前だ。

 二人は毎日のように私の家に通っては、いろんなことを話してくれた。兄が忙しい時は二人が外に連れ出してくれたり、一緒にご飯を食べたりもした。そんな彼らの助けもあって、私は少しずつ心を取り戻していった。

 そんな日々の中で、直樹は兄の幼なじみであり、Dream Doctorの三人の弟子の一人であること。カレンが大門秀樹の創りだした戦闘型アンドロイドであること。私を獏から救い出してくれたことを知った。


 ――そして、弟子の一人である井上風花という女性の存在を知った。私がカレンにあの日の出来事を聞いたのだ。あの日、何が起きて、なぜ直樹はあんなにも泣いていたのか気になって仕方がなかった。自分の夢の中でいったい何が起きたのか、私には知る権利があると思った。

 最初そのことに関して話すことにあまり乗り気では無かったカレンも、何度も聞く私のしつこさに折れ、少しだけ教えてくれた。


 井上風花。三人の弟子の一人でD.Dであり、直樹の恋人。一緒に夢の中へ入ったものの、助手のリュウというアンドロイドと共に突然姿を消したらしい。

 彼女の突然の失踪に直樹は取り乱し、あの状況に至った……ということだった。けれど、そのことを話すカレンはどこかそわそわしていて、きっと本当のことは話していないのだろうな、とすぐに思ったがそれ以上は深く追求しなかった。

 風花という女性の存在が、私の心にちょっとだけもやをかけてしまったから、聞く気になれなかったのかもしれない。これを人は"嫉妬"と呼ぶに違いなかった。


 直樹やカレンが私に良くしてくれるのは、患者だからなのか。夢の中で失踪したということは、私の中に風花という女性がいるからかもしれない、だから優しくしてくれるのか。そんな風に思ったのはきっとおこがましくて、図々しい。

 こんな私を優しく支えてくれる直樹に少し惹かれ始めていた所に、風花という恋人の存在を知ったためにそんな風に思うようになったのかもしれない。だから、あんな質問をしたのだと思う。


「どうして、直樹さんは私にこんなに良くしてくれるんですか? 患者……だからですか。それとも私の中に風花さんがいるかもしれないからですか」


 家の庭に咲く花の水やりを直樹に手伝ってもらっている時だった。風花という名前を出した時、直樹の表情が一瞬固まったのを私は見逃さなかった。

 あぁ、私って性格悪い。可愛くない。こんなこと言う奴きっとうざいって思われる。後悔の波が押し寄せて、「やっぱりなんでもないです」と付け加えようとした時、


「どこまで知ってる?」


 静かにそう問いかけられた。真っ直ぐ私を見つめる彼の視線が痛くて、思わず下を向く。


「カレンちゃんに聞いたんです。風花さんが私の夢の中で失踪したって。だから、もしかしたら私の心の中に閉じ込められてしまってるのかもしれないなって……」


 しばらくの沈黙。直樹は難しそうな顔していて、考え事をしていた。空気が重くて、私からは何も言えなかった。そんな沈黙を破ったのは直樹だった。


「確かに、君の中に風花がいるって可能性も考えたし、だから君を守らなきゃいけないと、こうやって通ってるのかって言われたら、100%そうじゃないとは言えない」


 ――そうだよね。そんなの分かってた。と勝手に傷付いて慌てて誤魔化そうとした時、「でも」と直樹が更に言葉を続けた。


「俺がここに通ってるのは風花のためだけじゃない。純粋に彩ちゃんに元気になって欲しいっていう、俺の気持ちでもあるんだよ。彩ちゃんはいい子だからさ。誰よりも幸せになって欲しいし、日に日に笑顔が増えてく度に逆に俺とカレンが救われてるんだよ」


 真剣な口調でそう答えたあと、「そうだ、渡したい物がある」と白衣のポケットから取り出した物を私に差し出した。

 差し出された物をよく見てみると、かきつばたの花で作られた押し花だと分かった。長方形の紙で作られたそれは、どうやら本の栞のようだ。

 突然のプレゼントに目を丸くしていると、直樹は照れたように笑った。


「こういうのあんまり得意じゃないからさ。カレンにほぼ手伝ってもらったんだけど…。風花が大好きな花でさ、昔花言葉を教えてもらったんだ。かきつばたの花言葉は、"幸運は必ず来る"って言葉らしい。お守り代わり…みたいなもんかな。そのかきつばたの栞が、彩ちゃんを獏から守ってくれるよ。風花は今はどこかへ行ってしまったけど、君の幸せをきっと願ってると思う。だから、もう怖がらなくていい」


 そう言って私の頭をぽんと撫でたその手は大きくて、とても暖かった。

 あぁ、私この人のこと大好きだ。そう再認識するのと同時に、直樹の風花に対する愛情の深さも身に沁みるほど伝わってきて、涙がぼろぼろと溢れて止まらなかった――。




 あの日から二年経った今でも、彩は直樹のことを想い続けている。

 彼を知れば知るほど、風花の存在の大きさに打ちのめされて、勝ち目がないってことも痛いほど分かっていて……。けれど、直樹への気持ちが揺らぐことは今のところ一度もなかった。


「はぁ……ライバル強すぎだよ……」


 あの日のことを思い出していた彩は、深い溜息をついてベッドに倒れ込んだ。


 外では、雨がさらに激しさを増していた。

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