12

 静かに腰を上げて、先刻からずっと本を読んでいた様に努力しなければならない。もはや楢本さんにかまってはいられない。帰りの匍匐前進のルートは迂回することなく机の棟の下をつっきることにした。楢本ルートに付き合わないことで自分の意志を示さんがためである。椅子は邪魔かもしれないが、平泳ぎの要領で静かに椅子をかき分ければ人ひとりは進めるはずだ。


 すぐさま行動に移すと、信じられないぐらいうまくいった。自分は土壇場でしくじるタイプの男だと思っていたので、このミッションの成功は大いに自信がついた。楢本さんが自分の後に黙ってついてきたのを見たときはクソを踏んづけたような気になった。実際クソを見るような目で楢本さんをみていただろう。しかし、楢本さんはこちらの気分にはいっこう気づいていない。言わなければ分からない人である。この人の子供のような笑顔はとうてい許されるものではない。楢本さんの笑顔を通して、自分はどこか子供を本能的に憎む気持ちを思い出した。それよりも、こんなに簡単に犯罪者の仲間入りをしてしまった後悔、かつて幼かった頃、迷子になってしまった時の震えが甦っていた。


 当の楢本さんは、同じ秘密を共有したことを祝うようなノリだった。これはまずい。


 安全な棟までたどり着き、膝を立てて言った。


「楢本さん、これダメだって」


「バカ! 声でけぇよ」


 自分はこの時、楢本さんと知り合ってから初めてバカと言われてショックを受けた。


「何してんの?」


 突然の女の声に振り向くと、成瀬さんと栗山さんが立っていた。今の声は、二人のどちらかが発したものなのか、それとも先の女子軍団の声なのか、自分達に向けられたものなのか、匍匐前進を見てのことなのか、股をのぞいているところをみてのものなのか、めずらしく図書館で遭遇したクラスの男あいてに気軽に声をかけたものなのか。


 自分は、無理を承知で最後の淡い期待にすがった。


「え? 何やってたの?」


 成瀬さんは再び我々に問いかけた。我々というよりは自分にである。その声音には、不審、不安、恐怖、驚愕、詰問が混ざっていたと思う。いい料理を作るならさまざまな調味料は必須だ。感情とはまさに調味料ではないか…?


 この声音が怒りのみだったら、自分もすぐに覚悟が決まったことだろう。ごまかせるかもしれないという誘惑、とても逆らえそうにない。舌が別の生き物のように口の中で餌を探し求めている。何か言わなくてはいけない。


「勉強だよ、勉強。な?」楢本さんの返事はまったく自然そのものだった。その言葉に一番驚いたのは自分だったかもしれない。


「ほんとに…?」


 成瀬さんの表情はほとんど悲しそうだった。やはり、この人に嘘はつけないと思った。


「だから勉強だって」楢本さんの笑顔はどこに出しても通用するもので、ある種、尊敬ものだ。


 意外に栗山さんは何も言わなかった。振り返ってみれば、この人の基本の構えは無関心である。自分は何かとても侮辱されたように感じた。まだ軽蔑してくれた方がマシである。


「先生呼ぼ」栗山さんの口元が冷たく笑った。

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