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 下手をしたら栗山さんが近づいてきて読んでいる新聞をぶんどるかと想像していた。視界の端で栗山さんが立ち上がった時は心臓を引っぱたかれたような心持になった。栗山さんは成瀬さんのところへ寄ると顔を近づけて何か話していた。自分はガードを崩さぬまま体の向きを変えて正対するようにしていた。俗説によると、人間の体というものはわずかながらの電波にも似たようなものを発信しているらしい。視線を感じるというのもその理屈で説明が付きやすい。俗説ながらなかなか説得力のある話ではあるが、なによりも本人の心境によるところが大きいのではないかという気がする

 二人はこちらのことなんかまったく気にかけていないように笑っている。自分が不安やいらだちを抱えている時の女の笑い声、表情というものは、八つ当たりなのは十分承知の上で、自分に非があるのわは分かっていても、気分が悪いものである。

とにかく修羅場は回避できたのではないか。安心して新聞をめくっていると、


「三上く~ん」


 楢本さんの声が廊下から聞こえてきて思わず新聞で顔を覆いそうになった。楢本さんは再び教室にやってくると満面の笑みで駆け寄ってきた。


「三上く~ん、ほら松葉杖松葉杖。」


「あーこりゃ松葉杖ですね。確かに松葉杖だ。すげーいい松葉杖ですね。どうしたんですかこれ」


「だからさっき病院で貸してもらったって言っただろ。聞いてなかったんか。どーも三上くんは適当に相槌をする癖があるね。よくない、さすがによくないぞそれは」


「あーそうだそうだ。そー言ってましたね確かに。だけど楢本さん、松葉杖使わなくても普通に歩けてるじゃないですか? なんのために?」


「やっぱアイテムとしてね。人生で一度はさ、さすがにね、俺、松葉杖初めてだったんだよ、病院も余ってるっていうからさ、ちょっと借りてみたわけ」


「子供じゃないんですから…じゃいつか返しに行くんですね? それもめんどくさいでしょう」


「そしたらまた看護婦さんに会えるじゃん」


「それか! んで看護婦さん美人なんですか?」


「それがおばちゃんなんだよ」

 昼休みの終了を知らせる鐘が鳴ると生徒の動きも慌しくなる、かと思えばまったく気にしない者もいる。周りは明らかにざわつきはじめていた。


「鐘鳴っちゃったな」


 そういう楢本さんは一向に自分の教室に戻る気配がない。楢本さんはこちらがどこかしらいつもと違う、この場を打ち切りたいというこちらの電波を感じ取ってくれないものだろうかと思うと、俄然楢本さんに腹が立ってきた。自分で評価するのもなんだが、仮に立場が逆なら自分は相手の心境、その場の空気は五感どころか六感七巻すべてを駆使して読むことができる男だと自負している、はっきり言葉に言わなければ分からないというのは、人間のもともと持っている能力の放棄にほかならない。しかし世の中にはとことん鈍感な人間もいるものである。あるいはわざとかもしれない。


「楢本さん。授業」


「俺、サボろうかな。どうせ寝てるだけだし。」


「何言ってんですか。不良じゃあるまいし」


「実は不良に憧れてた」少し間を開けてから、満面の笑みで楢本さんは言った。


「もういいいから帰ってください」


 相手は怪我人だが遠慮せずにぐいぐいと背中を押して教室から押しやった。これは栗山さんと成瀬さんの二人を相手にすることになるかもしれないと一仕事終えてから考えると、自分は刑を執行された側の気分だった。もはや絶対居眠りなんぞはできない状況ではある。久しぶりに気合を入れて授業を受けようという心構えになりつつあった自分は目の前が真っ暗になった。五時間目の授業が科学だったのだ。教科書は誰かに貸したが最後、行方不明のままである。この授業は男女とももれなく寝てしまう至福の時間になっている。最初はためらっていた女子も今ではためらわず寝るようになってしまった。先生も中途で起きるよううながすものの、それでも寝ている者には強くいわず授業を進めるのだ。こういったところも実に高校らしいと感じる。中学では学校や教師というものの威光はもっと絶対的で、授業中に居眠りなんぞしていたら何をされるか分からないぐらいの雰囲気だった。それともこれは個人的な体験なのか、一度、ぜひ周りの人間に確認してみる必要がある。


 授業をさぼるというのは、さらにまた一つ上のレベルの話だろう。しかし、これも一度やってしまうと、次からは恐怖心が薄れそうでもある。恐らく、この世界のほとんどのことがこういった要素を含んでいることは間違いない。一度やってしまうのが欲求の開放ならば二度目の際は理性が試されることになる。理性というものは常に試されて乗り越えて強くしていかなければいけない。また、その状態が平時である。


 中学の頃に一度だけ5時間目の授業を途中までさぼったことがある。昼休みの読書に熱中してとても授業を受けている場合でないという気持ちになった。あの時は幼いながら腹がくくれたものである。しかられたところでなんともない、この興奮を中途で断ち切る方が正気ではないと、学校全体に響き渡る昼休み終了のチャイムが鳴っても図書室の隅のカーテンにくるまってページをめくっていた。

 しかし今の自分はそこまで切迫した理由はない。だが、思い切ってさぼるのも一つの手としてありそうな気がしてきた。科学の教師はクラスの担任で、なおかつ怒らないので有名だ。いったいここまで仕事を投げやっていいものかこちらが心配になってしまうぐらいだった。上には上がいるものである。

 どうせ眠ってしまうのは目に見えている。それならばいっそ最初から授業にいなければよい。栗山さんも怒りようがないはずだ。

 栗山さんの視線が自分を縛ったのは、いよいよ授業をサボろうと心が大きく傾いて廊下に出ようとドアに向かった時だった。この分では、当分、自分に流れはやってこない。しばらくは栗山さんの流れに身を任せるしかないというあきらめが自分の衣服にでもなったような気がした。栗山さんはまさにキレキレな状態で、こちらはずっと後手後手の苦しい受けを強いられている。周りが授業前の慌ただしさと賑やかさの中、ドア付近で一瞬立ち止まった自分はすぐに何事もなかったかのように席に戻ることにした。また、今の一連の動きで心の全てが栗山さんに見透かされた気がしていた。

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