第33話 竜人の右手
アデリエンヌは広い石造りの部屋の隅っこにゆっくりと追い詰められた。
じわじわと迫ってくる真紅の
固い外骨格の胸は丸みを帯びて、腰はくびれていく。
つい先ほどまで、身体の右半分は男のエルフだったとは思えないくらいに、メス蟻だった。
そして真紅の蟻人は、初体験を前に恥じらう乙女のように胸の前で両手を重ねて、その身をくねらせながら後ろの無くなったアデリエンヌを見下ろしながら近づいていく。
もう恥ずかしげもなく欲望を喚くこともやめて、初めてエルフを食べるために。
「……
(……身体への「炎」と「貫通強化」は無意味。四月の女神様の「御使い」のあれだけの攻撃を簡単に跳ね返したんだから。そうなると効果のあった「電撃」。そして痺れている間に目に「貫通強化」を付与した矢を撃ちこめば……)。
そう大まかに戦闘プランを立てていたアデリエンヌの瞳に信じられないものが映った。
つい一瞬前までは確かに無かった空中に浮かぶ五本の矢だ。
(しまった…… ! どう見ても知性を失っているから、『
部屋の角を背にして、回避行動はかなり制限されてしまう。
エルフである彼女は先ほどコウの竜人の鎧の外皮を簡単に貫いた『
確実に矢を当てるために近づかせすぎたことも、今はどちらかといえば彼女に不利となる。
矢筒から矢を抜き、魔素を込めて、弓につがえて、放つ。
一秒もかからなかった。
矢は蟻人の身体のど真ん中に命中して、刺さりはしなかったが、付与された魔素はすでに電撃へと変換されて蟻人の身体を縦横無尽に駆け巡っていた。
そして命中から一秒もたたずにアデリエンヌは次の矢を放つ。
それは真紅の蟻人の周囲に浮かんだ矢の一本が発射されるのと同時だった。
ほとんど同じ射線を通り、正面衝突する二本の矢。
矢じりがぶつかり、互いに何の影響も与えずに、すり抜ける。
まるでどちらかの矢が幻影のようだった。
アデリエンヌは撃った瞬間に追い詰められたこの部屋の隅から脱するために動いていたため、蟻人の放った矢は壁をもすり抜けて消えていく。
そして彼女が放った矢は、漆黒の大きな楕円形の蟻人の目に吸い込まれるように突き立った。
確かに彼女の矢は蟻人の目に突き刺さった。
だがそれだけだった。
真紅の蟻人は片目から矢が生えた以外、何の変化もない。
痛がる素振りすらない。
(痛覚がないの !? それに……浅い…… ! )。
脚を狙って放たれた蟻人の矢を側方宙返りでアクロバッティックに躱しつつ、弓に矢をつがえて、頭がちょうど真下に来た位置でアデリエンヌも矢を放つ。
蟻人の矢は絨毯で覆いきれない固い石の床をすり抜けていき、彼女の矢は黒い目に跳ね返された。
(「貫通強化」を付与してないと刺さりもしない…… ! でも今の「電撃」の矢でまた痺れたはず…… ! 身体は動かない ! 『
なんとか首だけを動かして彼女の位置を把握した蟻人は、空中に浮かぶ残り二本の矢を同時に撃つ。
並んで迫るそれらを、彼女は
二本の矢は突然、名投手のフォークボールの如く、落ちた。
ちょうど身を低くした彼女へ向かって。
「……ッ ! 」。
二本の矢はすり抜けることなく華奢な両肩を射抜く。
(……なんてこと…… ! 『
やがて役目を終えた矢は、ふっと消えて、その代わりに身体に空いた穴からとめどなく血が流れて、薄手の白いドレスをまだら模様の真紅に染めあげていく。
「……何してくれてんのよ……。このドレス……いくらするか知ってんの…… ? 」。
青白い顔で、アデリエンヌは抗議の声をあげた。
蟻人はそれには
その五本が一斉に撃たれようとした時、ものすごい突風が吹いた。
そしてそれに吹かれて、何かが飛んでくる。
シーツと毛布だ。
まるで意志をもっているかのように二枚は広がったまま蟻人の元へ飛び、空中の矢を巻き込みながら、まだ上手く動けない蟻人を包み込んだ。
矢は毛布とシーツをすり抜けなかった。
何か粘着性のものでもついているのか、五本の矢ごと全身を大きな布に巻かれた蟻人はなかなかそれをふりほどくことができない。
「うまいぞ ! ラナ ! 」。
目の前で簡単に
「予想通りだ。あの魔法の矢は柔らかいものに触れた時だけ実体化するんだ。だから『
コウは穴が空いて、いささか価値の下がった高級そうなソファーを見やる。
「それでこの後はどうするの !? 新しく矢を作られる前になんとかして ! 」。
風を操作しているラナが叫んだ。
「……わかってる」。
コウは右手の甲に魔素を集中する。
彼の右手だけが、竜人のものであった。
胸の魔石を破壊されて動かせなくなった「
この星に転移して間もないが、魔素をコントロールする魔力のコツはつかめてきていた。
そして右手の赤い魔石の許容量を超えた魔素が注がれる。
(一撃で外骨格に穴を空けるしかない…… ! )。
コウの身体は飛んだ。
彼が装備した
簀巻きとなった蟻人に向かって。
握りこんだ右拳から生えた四本の竜の爪の先端が真昼の太陽のように白く輝き始める。
コウは右拳を突き出し、すさまじい速度で蟻人に衝突した。
それはまるで光の矢であった。
蟻人を捕らえた毛布とシーツは一瞬で燃え上がり、深紅の外骨格は爪の先端に触れた途端にその箇所が融解して穴が空く。
そして何度も攻撃を跳ね返してきた蟻の鎧は、ついに内部へ竜の爪の侵入を許した。
布の
真紅の蟻人は立ったまま。
「うおおぉぉぉぉぉぉおおおお !!!!!!!!!」。
もはや位置はバレているのだから、黙して行動することもない。
コウはさらに右手の魔石に魔素を注ぐ。
びぎびきん、と硬質なものに
それは蟻人の真紅の外骨格ではなく、コウの右手の魔石が死んだ音だった。
「クソ ! 」。
彼は手袋を脱ぐように、刺さったままの竜の右拳を蟻人の背中に残して、離脱する。
室内は異常な熱さと異様な臭いで満たされていた。
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