■2 ヴァージン

『若草はもう消えたから、あとは純潔、群青、紫煙。まずはこんなところかしら』


 かつてあなたに、一度指示を出したのだけれど覚えてない? と問われた。マダムは珍しく真っ赤なライダースジャケットを羽織っていた。中身はいつもの銀色スパンコールだったのに。金と銀しか色を知らないわけではなかろうが、愛用しているのは自明だ。

 クロユリは淡々と首を横に振った。


『マダムにされた前後の記憶が混濁している模様。その指示は脳からサルベージできない』

『……本当に機械人形デーヴィスじみた応答になったわね』


 マダムが大きな溜め息をつく。それが侮蔑や失望から来ていることにクロユリは気付けない。実験体のデーヴィスではない汎用型であるから、そこに心情を推し量る機能は十全に整っていないのだ。


『場所はこちらで目星がついているから、渡す地図データを参考にして頂戴』

『期限は』

『それもぶちこんでおくわ』


 クロユリの脳内に電子の渦が雪崩れ込む。視覚的、聴覚的、触覚的情報。そのすべてが直接叩き込まれる。情報の奔流。脳に刻み付けられた地図を照合し、クロユリは光の消えた黒檀の瞳を伏せる。


『純潔のリコリス、カブキチョウ、三日以内、把握。群青のリコリス、トヨス、五日以内、把握。紫煙のリコリス、アリアケ、五日以内、把握』


 脳内でルートを探索する。もっとも効率よく回るものは。もっとも早く達成できるものは。もっとも交通費の安いものは。もっとも……よく斬れるのは。


『算出完了。最短で一日、最長でも三日で遂行可能』

『余裕をもった納期リミットだったけれど、そんなにうまくいくかしら』


 試すような口調で問いを投げるマダム。その意図を推察する必要性をクロユリは感じない。任務は与えられるもの、そして遂行するだけのもの。そこにどんな善良な、あるいは邪悪な意図が隠されていようとも、機械仕掛けのリコリスには最早関係のないことだ。


『遂行可能。出発する』

『まずはどこから?』

『純潔のリコリスから』

『そう。何もないといいわね』


 含みを持たせたマダムの笑みを、クロユリは黙殺した。


 ***


 結論から言えば何もない。相手がいて殺すだけ。そこに他意はない。不完全な自分であれば躊躇いもあったかもしれないが、あれは無駄なことだったのだ。標的を定め、殺す。そこにどんなバグがあるというのか。


 純潔、とあだ名された女を揶揄する意図はないが、矛盾する女であるとは分析できる。純潔――それはけがれなきこと。貞操を守り続けること。男女の営みに絡めとられというのなら、彼女のソレはもう他者に渡っていることになる。かといって渡された男を純潔と呼ぶかは疑問である。

 女は薄着だった。紫の悪趣味な、目蓋の裏まで刺してくる輝度の強いネオンライト。そんなものが部屋中に満ちていて、サテンのネグリジェ姿を照らし出す。元の色はわからない、そんなものはどうでもいい。細い肩紐がずり落ちて乱れた姿だって、相手の男が後だって、同族殺しには埒外である。


「セーラー服に日本刀……あんたが同族殺し?」

「その呼称は否定しない」

「そう。私を殺しに来たのね」


 緊張した声だ。声帯を震わせて出てきた純潔のリコリスのそれは張りつめて上擦っている。喋り方こそ努めて平静を装っているが、ただ事ではないと察したのだろう。黒曜のリコリスがリコリスを啜る「同族殺し」であるという噂はそこそこ有名になっているし、否定したところで事態は好転しない。

 丸腰の下着姿のリコリスは、しかし勝ち目がないと諦観しているわけでもなさそうだ。グレーがかった黒の瞳が探るように鋭くクロユリを射抜いている。


「下った命令はジェノサイド。生体反応を残すようには言われていない」

虐殺ジェノサイド?」

「問答に意味を感じない。任務を遂行する」


 そこに一切の慈悲はない。憐憫もなければ憎悪もない。かつてのクロユリが嫌悪した男女の淀んだ煙が、渦を巻いて漂っている。下卑たネオンの照明は叩き割ってやりたかっただろうし、半裸の女は早急に臓物ごと破壊してしまいたかっただろう。今のクロユリにそういった邪念は存在しない。機械人形同然のプログラムをされたのだから。


「ちょ……ッ」


 純潔のリコリスは予備動作なく迫ってきたクロユリに対し、間一髪のところで難を逃れた。具体的には身体を転がすようにベッドから剥ぎとって、赤ワイン色をしたカーペットに倒れ込む形で。ダブルベッドがみしりと軋む。異形と堕ちた黒百合が腐りだした肉片を二つに両断していた。

 不発。生命反応のない肉片を切り刻む指令は受けていない。クロユリはすぐさま九十度回転し、床で上半身を起こしつつあったリコリスに再度照準を定めた。次は外さない。崩れた身体をもう一度立て直される前に、動きを封じる算段だ。


「い、ッ!」


 まずは脚を。重たい尻を浮かせる前にその腱を斬る。ぶしゃっと飛び出した濃い赤はいささかの粘性を持っている。セーラー服につくのもお構いなしでクロユリは第二撃を放った。


「ア、ギィ、痛、痛ァッ!」


 一振り、一振り。右脚を、左脚を、右腕を、左腕を。そのたびにまるで楽器のようにリコリスの口から汚い悲鳴が零れ落ちる。濁音まみれの途切れ途切れの音は雑音でしかなかった。不快感を優先させるつもりはないしそんな感覚も抱くはずがないが、いちいち叫ばれては厄介である。

 だから喉を潰した。


「――――!!」


 もう耳障りなリコリスのノイズは聞こえない。周到に着実に殺すだけ。リコリスの生命力は厄介だ。多少の致命傷では致命傷にならない。心臓を握りつぶしたって死なないことがあるのだ。……彼女のように。

 じゃあどうすれば死ぬかというと、殺し尽くすだけだ。致命傷を何回も与えればいい。難しい話ではないはずだ。一回で死なないなら二回、それでもだめなら三回殺せばいい。百回求められるなら百回でもクロユリは成し遂げるだろう。挑戦……挑み続けることが彼女に課せられた業なのだから。

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