■6 赤よりも熱い

「ドロシーを苦しませないで! あなた、仮にも姉を名乗るのなら……」

「あたしはあたしだ!」


 手中のドロシーが吼える。鼓膜をびりびりと唸らせるほどの大声に、里砂はしかし気付いてしまった。

 ――ドロシーの身体は小刻みに震えている。

 間違いない。有栖はドロシーの過去に関する何か致命的なことを伝えた。だからドロシーは困惑し恐怖し虚勢をはっている。自分の愛する恋人を、治療だなんだと言いくるめて深く傷つけた。その罪は重い。


「そんなに怖い顔をしないで」


 有栖はいっそ憎らしいほど可憐に微笑んだ。口角の上がり具合、目元の緩み、どれもが理想的な完成度だった。作り物めいたその微笑みが今は何より憎らしい。


「帽子屋」

「はい」


 帽子屋が隠し扉を閉じ、詰所の片隅に置かれていたジュラルミンケースに手を伸ばす。ロックを外し姿を現したそれは――有栖が使っていたチェーンソーだった。


「これ、ドロシーにあげるわ」


 ドロシーが黒曜のリコリスにぶっ刺したチェーンソーは最早使い物にならなくなっていた。それを見越しての武器提供というのも、傷口につけこむような手段で里砂はいい気分がしない。ましてや有栖からの贈り物となれば、使うたびに脳裏に彼女が過ってしまいそうだ。少なくとも、今のドロシーは手にしないだろう。


「いらないわ」

「そう言わずに」


 里砂の申し出をドロシーはやんわりと制する。


「ここに置いていくから、好きにして。私たちは三日後の夜トチョウに乗り込む」


 つまりそこに便乗して加勢しろといいたいのだろう。支配者気質の王女様は他者を駒として扱うことに長けている。


「ドロシーには言ったのだけれど、マダムは近いうちにリコリスを駆逐するわ。が動いているの、知っているでしょう? あれもどうやらマダムについたみたいだし」

「黒曜の……」

「ちょっと私情が入っていたけれど、本来は若草のリコリスを殺す手はずだったらしいわ」


 里砂は唾を呑み込む。若草えみり――地下鉄で里砂に迫ってきた、あのリコリスだ。


「自分の思うままに世界を作って、動かして、最終的には破壊する。性格まですっかり破綻しているから、もうどうしようもないのよね。でも私は大人しく殺されるつもりはない。そんな女に支配されるくらいなら、私が支配してやるわ」

「……勝機はあるの?」

「ゼロなら止めるの?」


 帽子屋が有栖の衣服を整える。身支度をしていく様は手慣れたものだった。


「貴島里砂。人間のあなたに理解できるかわからないけれど、これは私の本能なの。支配されるのは、だから殺すの。私は私の王国くにを邪魔する不届き者を処断するだけよ」


 帽子屋が詰所の扉を開く。退出の準備ができたようだ。有栖は小さく腰を折って、品のある所作のままに一礼した。彼女自身が精巧に造られた西洋人形のようだった。


「では、ご機嫌よう私のドロシー。三日後、トチョウで会いましょう?」


 ……ぱたんと扉が閉まる音がして、二人の影が遠ざかる。その姿を完全に見送るまでは、里砂は動かないと決めていた。強がっているドロシーの糸をほぐすのは、敵前であってはならない。まだ精神の幼い彼女の精いっぱいの仮面を剥ぎとることはしない。強くて、可憐で、明るくて。怖いものなしのドロシーに里砂は救われた。そして、ドロシーのすべてを里砂は愛している。


「……隣に行きましょうか」


 帽子屋の大きな背中が完全に見えなくなってから、里砂はドロシーを仮眠室へ連れて行った。下へ潜る気にはなれなかった。安全性の観点から見ればシェルターの方が都合がいいだろうが、有栖の残り香のある場所ではいけない。

 殺風景が過ぎる仮眠室は、それでも理想郷のように見えた。薄っぺらいマットレスのベッドは二人が並ぶにはあまりに窮屈だった。でもそれくらいがちょうどいい。里砂はドロシーを抱きしめて、そのままマットレスの上に倒れる。そうやってから強く抱きしめ直した。


「泣きなさい」


 里砂はドロシーの耳元でそっと囁く。びくり、とドロシーの肩が跳ねた。


「私しかいないわ。怖かったでしょう」

「――――」


 ドロシーは声をださなかった。幼児退行したようにわんわんと泣き喚くことはしなかった。それでもいいと里砂は思っていたけれど、ドロシーは静かに嗚咽を繰り返した。

 鼻をすする音を聞きながら、里砂は指で熱い雫を拭う。こぼれるものはそれだけでは到底おさえきれないので、ハンカチや自身の洋服も使ってその海を受け止めた。


 有栖に何を言われたのか、ドロシーの過去に何があったのか。里砂は聞くつもりはなかった。過去の鎖に縛り付けられることの苦しさを里砂は知っている。未だに男性を見ると身がすくんでしまうし、あの男の声がフラッシュバックするのも発作みたいになっていた。その異変を、多分ドロシーは知っている。知っていて、で塗り潰そうとする。

 だから里砂も、今のドロシーを愛そう。


「私がいるわ。大丈夫」


 濡れた唇を啄めば塩気の多い味がした。しゃくりあげる肩を撫でれば震えを指先で感じられた。不安定に揺れる瞳は焦点が定まっていないようにも見えた。里砂は小柄な背中をトントンと叩く。幼子を眠らせるようなリズムだった。


「ゆっくり眠りましょう。明日になればもう大丈夫よ」


 子守唄を歌った。小さい頃母親に聞いた歌を。眠れ、眠れと繰り返していたら、ドロシーがか細い声で聞いてきた。


「……あたし、よいこじゃないから、眠れないかもしれない」


 本人は真剣なのかもしれないが、不安げにそんなことをいうものだから、むしろ里砂は笑ってしまった。まるで子供みたいだ。


「そうね。ドロシーはドロシーだったわね」

「……うん」


 燃え盛る赤の髪を撫でる。ゆっくりと、眠るように。ドロシーも大分落ち着いてきたようで、ハンカチは途中から不要になった。

 明日になれば何か変わるだろうか。同じように朝日が昇り、明日を迎えられる保障なんてどこにもない。ジュラルミンケースのチェーンソーも隣に置かれたままだ。目が覚めたらきっと、向き合うべきものは無機質にそこに鎮座しているだろう。

 それでもいいと思った。今は静かに眠ればいい。マダムの欲望も、有栖の思惑も、この瞬間は忘れて眠ればいい。ドロシーに束の間の安寧を与えることが里砂にできる最善だった。

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