■5 銀の靴
殺してやろうと。ドロシーは本気で思った。同族殺しがどうとかそんなものは関係ない。黒曜のリコリスとの駆け引きとも違う。これはドロシーが自身の意義をかけた、自分のための殺意だった。
強めの麻酔とやらはまだかけられていない。やるなら今。中途半端な治療による腹部の痛みが己を貫くが、最早多少の無茶には構っていられなかった。ドロシーは衝動のまま、己を否定したこの女を奪うことを選んだ。
「妄言でっ、あたしを、縛るなあっ!」
チェーンソーなんて要らない。腕を伸ばし眼前にあった有栖の首に噛みつけばいい。目玉を潰せばいい。いかに強靭なリコリスの身体でも致命傷を負えば死ぬ。痛みを放置すれば死ぬ。そんなものだ。
朽葉色の髪はお団子にしてあったから、それを掴むことも叶わなかった。耳を掠めて空を掴んだドロシーの腕を、有栖に逆に捕まれる。手首をぎりりと捻られた。そこまで強くはない。振り払えないこともないはずだ。
「あたしを……!」
「こんな話をしたのはね、フェアな状態で取引をするためよ」
協力してほしいのと有栖は穏やかな声で言った。手首は返されて変なところで固定された。折れはしないがたぶん護身術めいた技できめられている。
「私がどうしてあなたと手を組もうと思ったか。私だからよ。それを理解してくれないと、ここから先の話ができないと思って」
「……それで、あたしが聞き分けのいいイヌになるとでも?」
「少なくとも話を聞く土俵には引きずり出せたのではなくて?」
結局、ここまで有栖の想定内なのだ。つまらない。他人に踊らされるのはドロシーは大嫌いだ。自分の生き方は自分で決める。他人の指図は受けない。それがドロシーの矜持なのだから。
舌打ちすることに一切の躊躇いもなかった。眼前の
「私、マダムを殺したいの。私のドロシー、あなたにはそれに協力してほしくて」
「殺す? あんたが?」
衝撃を通り越して嘲笑するしかなかった。シロガネダイで家畜を民と見紛って、豚の天辺で姫様ごっこをしていた色欲の化身が。ドロシーに力では勝てないくせに、トウキョウの女帝を仕留めようとしている。こんな荒唐無稽な話があってたまるものか。
「やっぱり気が狂ってるわ、あんた」
「私をひ弱な王女様だと考えているなら改めた方がいいわ。私が暴力的である必要はないのだから」
有栖には思うところがあるらしい。勝手に話し出したが、彼女になんて微塵も興味がなかった。ドロシーの中で燃えるのは、いつだって刹那的な衝動だけ。
「トウキョウは狂ってる。マダムはこの街を自分のもののように弄んで……そして殺し尽くすつもりなんだわ。リコリスは増えすぎた。マダムが管理するには手に負えない自由意思を持ち始めたから」
リコリスが、この街――トウキョウに巣食うようになったのは、数十年前からだという。不死ではないが不老ではないかと囁かされるマダムが国家を相手取り、日本の中枢である首都トウキョウを譲り受けた。それが始まり。ドロシーにしてみれば歴史の教科書に載っているような感覚の「事実」で、逆に実感がわかない。
マダムがかつての都庁を己の御殿に改装し、悪趣味な金ピカ高層ビルに変えてしまったと言うのも有名な話だ。リコリスの聖地と化したこの荒んだ街は、マダムが手を加えるほどに歪んでいく。
「
否、と有栖は険しい顔で告げた。リコリスとはエゴの塊だ。己に埋め込まれた本能のまま突き動かされ生きていく。快楽に、衝動に、あるいは別の何かに主導権を握られて。
自己顕示欲の塊である派手なマダムは、何を本能としているのだろう。
「――復讐よ」
あの女は復讐するために生きている、と有栖は言う。
「何もかもを手に入れた女。だからこそ、彼女は支配と破壊を繰り返す。他人を喜ばるシステムを何年もかけて組み上げて、あと一歩で届きそうなところになったら一気に崖から突き落とすの。そこに彼女は最高の快楽を見出す」
ねえドロシー、と何度目かの名前を呼ばれる。有栖が固執する名前。ドロシーのたった一つの名前。確認するように声に出されたそれは、緊張しているのか強張った色をしていた。
「原初のリコリスとも言われるあいつは……
***
帽子屋の足元の扉が開いたとき、里砂はやられた、と思った。ずっと睨みつけていた仮眠室と、その入口であるドアの前に立ち塞がる男。そして一切物音の聞こえてこない部屋。彼が本当に守っていたのは足元の隠し扉で、そんな厳密さなのだから防音でもなんでも加工されているシェルターなのだろう。盲点をつかれた、と自覚した途端里砂に疲労感がどっと押し寄せる。
有栖の後に続いて大人しく階段を上ってきたドロシーが里砂には意外だった。ドールハウスの王女相手に喚かない彼女とは思えない。だとすれば余計な薬を盛られたか、それともそんな余裕もないほどの衝撃的な何かを掴まされたか。衣服は着せ替えられ、里砂のキャリーケースの中にあった白いブラウスとチェックのスカートを身につけていた。傷口の治療はうまくいったらしい。
「お待たせしました」
「ドロシー、無事?」
一歩前へ。ドロシーをこの胸に迎え入れる。赤い髪がおろされているのなんてベッドの中くらいだから、普段よりも大人びた印象を受けた。張りつめた表情のせいもあるかもしれない。
里砂は一瞬でその変化に気付いた。密室できっと有栖になにか言われたのだ。外傷が見られない以上、天真爛漫なドロシーが険しい顔をする理由なんてそう多くない。里砂はドロシーを抱きしめる両腕の力を強くしつつ、優雅に微笑む有栖をまっすぐ見据えた。
「……何を吹き込んだの?」
「吹き込んだなんて。私は私の知っている事実をドロシーに教えてあげただけよ」
しゃあしゃあとそんなことを言ってみせるから、里砂はたまらず声を荒げた。
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