■4 メモリーズ

 ドロシーは黙り込んだ。仰向けに転がされたまま、低そうで手が届かない天井を見上げる。病室の白くてシミのあるそれではなく、薄汚い黒い壁がそこにあるみたいだった。

 海が好きだった。里砂と外出をするときだって、ついつい海を目指してしまいがちだった。マイハマへ行きたい、夢の国があるというから。ショウナンにも憧れる、そこはサーファーがたくさんいると聞く。遠い潮騒、耳鳴りのように繰り返す寄せては返す波の音。そのルーティーンにドロシーは郷愁にも似た寂しさを覚えていた。


「なんであんたにそんなこと言わなきゃならないの」


 答えをはぐらかそうと反抗的な牙を剥く。天井の黒は無慈悲なくらい何も変わらない。ドロシーはじっと天井を睨みつけていた。


「当ててあげましょうか。あなたはね、ドロシー。海を見て安心したいの」


 余計な詮索は、などと切り込む暇も与えられなかった。自分でもよくわかっていなかった心の深い部分を、柔らかい部分を、素手で鷲掴みにされたような心地だった。鈴の鳴る声でかわいらしく話してみせるが、有栖の言葉は土足でドロシーの領域に踏み込んで来る。嫌悪感を隠すこともしなかった。


「海はね、私たちの始まりの場所なの。海を見ると切なくなるの。悲しくなるの。でも海に抱かれることでこの辛い思いがどこかにさらわれるんじゃないかって……そう、期待している私たちもいるの」

「あんたとあたしを一緒にしないで」

「一緒よ。だって私たちは同じだもの」


 またお馴染みの姉妹妄想かと、反吐が出る思いだった。ドロシーはぎりりと歯を鳴らす。「だめよ、そんな風に身体をぞんざいにしては」とまさしく年長者ぶった言葉が返ってくるが、それすらもドロシーには煩わしい。

 苛立ちだ。この胸の内を……自分でも確かな言葉にできなかった海への廓寥かくりょうを見透かされているような心地に腹が立つ。有栖はそれでも話すのを止めなかった。


「首を絞めたときのことを覚えている?」


 ドロシーは何も答えなかった。


「ダイバで会ったとき、そう、私はあなたの首に手をかけたわ。あなたに少しでも昔のことを思い出してほしくて。静かに寄せては返す波音を聞きながら、

「……は?」

「やっぱり。覚えていないのねドロシー。あんなにも苦しかったのに」


 がたりと、隣の椅子の脚が動く音がした。有栖の影がゆっくりと蠢く。ドロシーを見下ろすように覆いかぶさったその姿を、ついにドロシーは視界に入れる。

 全然違う顔をしていた。眉は垂れて目もつぶら、自分とは似ても似つかない。これのどこが姉妹なんだと笑ってしまいたくなるほど。それなのにドロシーは笑えなかった。重なった視線の先にいた少女の目の奥に、遠い日の海を見た気がした。


「父親に殺されかけたのよ」


 まるで身体を石にしてしまう蛇に睨まれたよう。ドロシーは少女の両目から視線を逸らせずにいた。背中を駆けずり回るのは形容詞がたい悪寒だ。ぞくり、と這い上がってくる未知の感覚に、冷汗がたらりと伝うのを感じた。


「こうやって、首を一周するようにね。それはそれは苦しかったわ。だって私はまだ中学生くらいだったし、男の手だから力も強くて。砂に足をとられて身動きもとれなくて、ただ、隣で繰り返す波の音だけが聞こえてた」


 自らの首に両手をかける有栖は、それすらもひとつの儀式であるかのような美しさを孕んでいた。ドロシーにはわからない。そんな記憶は持ち合わせていない。……リコリスになる以前の記憶を、ドロシーははっきりと持っていなかった。

 それなのに、目の前で語られる女の妄想を無関係だと一蹴することすらできない。彼女が一音一音、紡ぐたびにぞわぞわとした何かが体内を支配していく。蛇の魔法は全身に回っていた。


「どうして殺されかけたのか? ……そんな理由、今となってはもうどうでもいいの。ただ、あの時の私は相手が誰であろうと殺されたいと思うじゃなかったし、どんなことをしてでも生きたいと思った。だから私、殺したの」


 嫣然と微笑む有栖は、天上から舞い降りた御使いを想起させる清らかささえまとっていた。



 頭を殴られた、なんて生易しい表現ではなかった。黒曜のリコリスと繰り広げた死闘、激痛、そのどれにも該当しない類の「痛み」だった。入ってきた言語情報を脳味噌が適正に処理できていない。一瞬世界がぐにゃりと歪んで見えたほどだ。


「……なん……て」


 その続きを聞くことは怖かったけれど、有栖はやっぱりにっこりと微笑んで応じた。


「ドロシー、私の銀の靴。あなたは私――北上きたかみ有栖ありすがリコリスとして覚醒した片割れ。


 ……たとえば。

 隔絶絶命都市トウキョウにおいて、記憶などという項目はひどく曖昧で無関係な要素だ。荒廃した土地にいるのはリコリスと、それに喰われる人間だけ。動物の血をすすることもできるけど、グルメなリコリスからはすこぶる評判が悪かった。

 こんな土地で記憶喪失になったとして、別に困ることもなかった。ドロシーが求めるのは常に刹那的快楽で、愛した女と一緒にいて今日を満たせればそれでよかった。昔を回顧するのは好きではなかった。靄がかかって思い出せないから。過去に囚われる里砂を――彼女を縛り付ける男に嫉妬心を抱いたのも、ドロシーには今しかないからだ。過去を覚えていないからだ。今日この時を楽しむために、ドロシーはその鎖をぶち壊したくてたまらなかった。


 ドロシーは、意識を得た時からドロシーだった。他の名前なんて必要ない。どうして真っ赤な髪なのかとか、そんな些事にこだわることはなかった。ドロシーが信じるのは、ただ目の前にあるものだけ。里砂と、自分が見てきたものだけ。


「人間だった時の記憶は私が持っているから、あなたは過去を覚えていなかったのね」


 だから目の前で妄言を垂れ流す女を、ドロシーは看過できない。


「ドロシー、あなたがそう名乗っていると聞いて、私納得してしまったの。私は有栖と名付けられたけど、『オズの魔法使い』が大好きだったから」


 自らの存在に余計な鎖を絡めようとして来るこの女を、許すことはできない。


「私の片割れだから実質私が姉みたいなものだと思っていたけれど、うまくいかなかったから。正直に話すべきだと考えて」

「黙れェェェェェェェッ!!」


 ――ドロシーの咆哮が部屋を貫いた。

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