■3 潮騒とララバイ

「あなたの言うとおり、私はドロシーに会えたから生きている。それが幸運だと言うなら……あなたも幸運じゃない」


 

 そう言い放った時の、帽子屋の表情たるや。里砂を笑った時の、嘲りさえまぜこぜにした苦笑とはわけが違う。口の端に浮かべていた笑みが、一気に噴き出し笑いに変わった。


「くくっ……は、ははははは……っ!」


 腹を抱えて笑い出す始末。大きく開かれた口、見える歯の不格好さがアンバランスに見えた。もともとパツパツで窮屈そうなスーツなのに、丸まって笑い転げていると肩の生地が破れるのではと心配になるほど。大柄な男だから声量も予想通り大きくて――むしろ今まで静かに喋っていたのが不思議なほど――恐らくは扉の向こうの仮眠室にも響く大音声で、帽子屋はひとしきり笑っていた。

 呆けてしまったのは里砂の方だ。まさかここまで大笑いするとは思わず、困惑の色を隠すこともできずに茫然と成り行きを見守る。帽子屋が荒い息を整え、話し始めるまで、結構いい時間が経った気がする。


「はは……はあ、いや。失礼。こんなにも滑稽な皮肉ジョークを聞けるとは微塵も思わなかったもので」

「私もです。冗談を言ったつもりはありませんけど」

「いやはや醜態を。でもそうですね、面白かったので小話をしておきましょうか」

「小話?」

「エサの自由意志の話です」


 それが帽子屋自身の話であることは、里砂も察することができた。


「リコリスは非常食として人間を傍においておくと言ったでしょう。まあ確かにそれは幸運な話だったのですが……一番最初に私が選ばれた理由は、種馬としてなんです」


 下世話な話ですけどね、と帽子屋は付け足した。


「戦闘能力の低いリコリスである彼女が、トウキョウで生き抜くために考えた術。それはエサである人間を自らの手で繁殖させるをつくることでした。外側からは牧場と揶揄されていますし、私もそれを否定するつもりはありません。ともあれ彼女が王国をつくり多くの人間を産むため、まずは一人適当なオスが必要だったんです」


 実際は、有栖は相手がいればわけだが……手探り状態だった当初はつがいとなる男を探したという。その際に見繕ったのが帽子屋であると。


「何故私だったのか、選んだ理由を聞いたこともありましたよ。返ってきたのは安直というか、『だってあなたのように屈強で若い男なら、たくさんの種子をくれるでしょう?』と」

「……その口ぶりだとうまくいかなかったのですか?」

「その辺りは男の沽券に関わりますので差し控えさせていただきますが」


 帽子屋は嘆息してから続けた。


「……まあ、不要になったわけです。私は。本来であればそこで喰われて終わるはずだったのですが……」

「……何か?」


 ――どうして、私を庇ったの?

 ――もとよりあなたに食べられる命でしょう。今更どう使おうが関係ない。

 ――いえ。いいえ。それは困るわ。あなたは私の所有物だもの、勝手に命を使われたのではいけないわ。だからあなたは私が監視してあげなくちゃ。いいわね?


「……いえ。彼女の気まぐれですよ。気まぐれで私は生かされた」


 ***


 リコリスは魔術師ではない。この世に神秘など存在しないし、人を化かす術もない。ただ、リコリスというのは人間から派生した、突然変異した……というだけだ。

 たとえば。内密の話をしたいとき、本で読んだ魔術師なら人払いの結界とやらを張ることができる。無論リコリスにそんな能力はない。退廃の一途を辿るかつて東京と呼ばれた街に、科学を超えた魔術トリックなんてものは適用外なのである。


 だから、もし。もし外にいる人間にバレないように話をしたいのなら……外に聞こえないくらい小さな声で会話をするか、防音加工の部屋に閉じこもるか、音が届かないほど離れてしまうか。そんな現実的なアイデアしか残されていない。


「……う……?」


 ドロシーはゆっくりと瞼を開いた。覚醒していく意識。取り戻したばかりの意識に空白の期間の埋め合わせを強いるのは鬼の所業だ。ドロシーはひとつずつ思い出す。地下鉄で里砂に絡む気色悪いリコリスの首をすっ飛ばした。地下鉄に乗り込んできた黒曜のリコリスと死闘をした。それもなんとか退けて、駅に下りたら今度は瑠璃のリコリスがいたような。


妄想メルヘン女……!」

「姉の顔を見るなりその悪態はひどいわ、ドロシー」


 視線を動かせば、寝転がるドロシーを見下ろすように微笑む少女がいた。朽葉色の髪、群青色のストール、白鳥のワンピース。高級な人形みたいな可憐な出で立ちだが、その性根が歪みきっている妄想の化身でいることはドロシーが最もよく知っている。瑠璃のリコリス――有栖がそこにいた。

 身体を起こしてその首に噛みついてやろうかとも思ったが、穏やかな声の有栖に制される。腹筋に力を入れた瞬間、身体中が痛みを訴えたのを理解した。リコリスは多少の無茶がきく身体とはいえ不死身ではない、とはよく言ったものだ。


「動かないで、ドロシー。治療はしてあげたけどまだ途中だから。言うことをきいてくれないと、をかけてあげてないといけないわ」

「……とんだイカレ女ね本当」


 ドロシーの悪態を意に介する様子もない。有栖はただ天使のように穏やかに微笑み、ドロシーの治療とやらを再開した。とはいえ、実際に腹を切り開くわけでもなく、以前里砂が塗ってくれたような軟膏を塗布しているだけにも思える。マダムのところで手に入る「お墨付き」の特効薬だろうか。


「あたしに恩でも売るつもり?」


 薬を塗る手を睨みつけてドロシーは問う。敵意を剥き出しにした声に有栖は屈服する様子もなく、柔らかい微笑みを浮かべたまま答える。


「そんな風に歪曲して捉えなくてもいいのよ。私はあなたのお姉ちゃんなんだから、妹の心配をするのは当然でしょう」

「まだそんな妄言」

「海が好きなんでしょう?」


 唐突に、有栖はそんなことを口にした。


「ねえドロシー。私の銀の靴。あなたはどうして海が好きだと言ったの?」

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