■4 牧場
シロガネダイの牧場を指定されたとき、クロユリはその理由を聞かなかった。斬り甲斐のあるものを斬れればいいのであって、そこに大義名分は求めない。これから向かう牧場がどんなに統治された帝国でも、管理された社会でも、調和のとれた楽園でも構わない。黒百合が血を啜れればよかった。満たすための子羊を求めた。それに――これは邪推かもしれないが――スパンコールが乱反射する服を普段着にするマダムだ。地下鉄をギンギラに魔改造するマダムだ。シロガネダイという土地が自分のものではないなんて我慢ならないのではなかろうか。
マダムの厚意でシロガネダイまでの交通費はチャラにしてもらった。デーヴィスの前を素通りし、悪趣味な乗り物に揺られ、かつて高級住宅街として名を馳せた街に到着する。クロユリは能面の表情を崩さなかった。
外はすっかり太陽が落ち、街灯のない世界は真っ暗闇に包まれた。
牧場を経営するリコリスは別に珍しいわけではない。烈火のリコリスやクロユリのように相手を殺すことで血を得ることはむしろ使い捨て社会に繋がり、補充もされない限り餌がなくなってしまうだろう。人間の男は目に見えて減少している。リコリスが喰らう数が多く、子供が産まれる数に追い付かないためだ。やれ少子化だとかつてこの国は嘆いていたらしいが、今はそもそも人間という種を維持するために多くの子供が必要だ。海の向こうが果たしてどんな惨状かなんて知るすべはトウキョウに存在しないが、少なくともこの国はかなりの窮地にいる。
なかなか人間の男がいないし子供も少ないから、自分達で生産しようというリコリスが出てきた。その結果が牧場である。人間の男をひとつの箱庭で飼い慣らし、餌を与え健康に育て上げ、毎日流れる生き血を少しずつ啜る。男は死なないしリコリスも毎日食事にありつける。なるほど平和的で循環する、リスクの少ない手法である。もちろん難点はある。今回のクロユリのように、他者に家畜を横取りされる恐れがあるということだ。
『シロガネダイの丘一面を使った牧場なの。見晴らしが良くて素敵な土地。雰囲気はそうね……まるで幼稚園みたいな場所よ』
シロガネダイの牧場について話すマダムには明らかな棘があった。大人相手に「幼稚園」という言葉を使うのはバカにしているから出てくるのだろうし、見晴らしが良いならマダムがほしがるに決まっている。上から見下ろすのが大好きな
荒廃したトウキョウでセキュリティと呼べる仕組みが作用するのは、マダムの統括する地下くらいなものだ。牧場の主は入口で四六時中何かを監視しているわけにもいくまい。つまるところクロユリは真正面から牧場に入っても誰にも咎められなかった。女主人に見つかるまでは堂々と偵察をすればいい。
住宅街の名残だろう、メルヘンな柵をくぐってクロユリは先を進んだ。剥げた石畳を辿り、元は白かったのだろう民家を通過する。人気は感じない……無人の建物だ。この辺りの家が使われていることはなさそうだ、玄関回りもすっかり埃や砂を被っている。
(……夜になれば寝床に潜って眠るはず。この夥しい家々の何軒が実際に使われているのか……)
牧場と言えど、飼育方法は豚や牛と同じではない。人間だから衣服も欲しがるし糞尿を垂れ流すことさえ抵抗する。リコリスにはない理性というものが異様に発達しているらしく、家畜にするには知恵を得すぎた。扱いにくくてたまらないとクロユリは思うが、同時に牧場経営者に感謝もする。楽に多くの血を搾取できるから。
クロユリは警戒を解くことなく家の立ち並ぶ石畳を行く。五感を研ぎ澄ませ、風が運んでくる音のひとつも聞き逃さないようにした。カーテンの揺らぎ、落ち葉を踏む足音、脂の焼ける匂い――そんなものを求めながら。
「……ぁ」
漏れる嬌声を聴いたとき、クロユリは自らの能面にヒビが入るのを自覚した。ぴしりと、自ら抑圧していたものが溢れ出ようとしている。クロユリは左手できつく胸元を掴んだ。セーラー服にシワが刻まれる。
(いや、だ)
思い出したくない。
灯りのない家のひとつ、透けるカーテンの向こう側に女の脚がぴんと伸びるのを見た。何故夜更けに遮光カーテンを下ろさなかったのだろう。何故艶かしい脚が絡む様を叩きつけられているのだろう。暗がりのなかでも夜目がきく己にはあんまりな拷問だ。目を閉じたって
足が凍りついて動かない。身体中から血の気が引いていく。脳に酸素が行き届かない、心臓がどくどくと早鐘を打つのが聴こえた。ギシリと軋むのは何か? おねだりをする声はどちらか? はしたなく男を求め、溺れ、果ての果てまで腕を伸ばす――クロユリの顔から能面が剥がれていく。
(こわれたく、ない)
挑め。挑め。挑み殺せ。
声が大きくなっていく。脳内の命令と、絡み合った劣情と。ようやく十四歳になった身体にはあまりに刺激が強すぎるとか、そういう問題ではなかった。倫理観がどうという話でもなかった。
みっつの心。心を鎮め、心を束ね、研いだ心で一閃する。クロユリが極め、行こうとした道だ。祖父に教えを乞い、狂ったようにのめりこんだ道だ。クロユリにとって刀は己の身一つで遥かな高みへと至れる奥深い業であり、一切の邪念を打ち払ってくれると信じていたものだった。
その前に立ちはだかる本能という壁が、今もまた彼女を望まぬ狂気に染めようとしている。
「ィやだ……いや、いやいやいやいやいやいや……あ」
「ァ……あ、あ」
弾けるのには十分な音だった。自分の悲鳴と嫌悪した女の嬌声。それが重なってしまったことが、彼女の本能を容易に呼び覚ました。何度も何度も頭に叩きつけてきた命令系統。必死で取り繕った能面の姿。その内側に宿すのはおどろおどろしい激情である。静謐な己を貫きたいクロユリには、それが何よりも耐え難いことだった。
「いやだアアアアアアアアアアァッ!!」
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