Ⅲ.暗闇の中のひみつのキス

(避けられた?)


 ほんの一瞬垣間見えた眼差しは、触れられるのを怖がっていたあの夏を思い出させる。


「ごめん。ひとりで大丈夫だから。ちょっとお行儀悪いけど……ふぬっ」


 上り框にお尻を乗せ、両手で片方ずつブーツをはぎ取っていく。せっかくの高そうなブーツもアリスにとっては子ども用の長靴と大差ないのだ。そういうモデルらしからぬところも好ましいと思う。


「これでよし。改めてお邪魔します」


 立ち上がったアリスと改めて目を合わせた。こうして面と向かって向き合うのは随分と久しぶりな気がした。うっすらと化粧したアリスはいつもにも増して可愛らしく見える。


「久しぶりだよな、すごく」


 リビングに案内しつつもなぜか緊張してしまい、顔をちゃんと見られない。


「そうだね。えと、桃子さんは?」


 緊張が伝わったのかアリスの返答もぎこちない。


「母さんは愛斗さんと店の方で楽しく飲んでるよ。クリスマスパーティーをやるって誘ったらしい」


「そうなんだ。柴山さんも近くのパーキングに車停めたら合流するって言ってた。大人のクリスマスだね」


「おれたちは未成年らしいクリスマスを過ごそうぜ」


「どんな?」


「ちょっと目閉じてくれ」


 リビングの前に到着したところでアリスに目隠しをさせた。先に中に入り、電気を消す。準備は万端だ。


「よし開けていいぞ」


「……うわぁ」


 アリスは歓喜の声を上げて目を輝かせた。電気を消したリビングの窓や天井にはLEDのイルミネーションが輝き、クリスマスツリーも七色の光に彩られていたのだ。


「キレイだろう、蛍光塗料やLEDライトを使って室内を飾ってみたんだ。でもまぁ所詮素人の小細工だからアリスが見てきたようなイルミネーションに比べたらショボイけど」


「……ううん、こっちの方がずっといい!」


 感極まったアリスは凪人に飛びついてきた。


「誰かのためのイルミネーションより、凪人くんが私のために準備してくれたイルミネーションのほうがいい。ずっと嬉しい!」


「良かった」


 この笑顔。この笑顔が見たかったのだ。だから頑張れた。


「……あ、ごめん」


 我に返ったアリスが体を引こうとするので押しとどめた。


「なんで離れようとするんだよ。さっきも」


 アリスは哀しげに目蓋を伏せる。


「だっていまの私、体も髪も夜風を含んですごく冷たい。自分でも分かるもん。寒い手で触られたらイヤでしょう」


「……なんだそんなことか」


 笑ってしまうくらいしょうもないことだった。むしろ呆れてしまう。


「寒くたって全然へいきだよ」


「ほんと? もしかして服の中に冷たい手入れられても平気な人?」


「それはちょっと勘弁」


「もぅ、イヤなんじゃん」


「だからさ――」


 両腕を伸ばしてアリスの華奢な体を抱きしめる。冷たい手は御免だが、こうして密着すれば自分の体温で暖まるはずだ。


「あったかい」


 一瞬体を強張らせたアリスもすぐに力を抜いて寄り添ってきた。もう寒さは感じない。会えなかった間の淋しさも一瞬で忘れてしまう。


 不思議だ。

 クリスマスには会えなかった時間を埋める不思議な魔法があるのかもしれない。


(ん?)


 ふと足元に違和感を覚えた。まさかと思って視線を下ろすとクロ子がじゃれついている。

 目が合うと『お取込み中のところ悪いわね』と言わんばかりに鳴く。


(なんでクロ子がここにいるんだ? さっきまで店に)


 はっとして振り返ると物陰から覗き見る二人と目が合った。言わずもがな、母と愛斗である。


「ぅわっ!!」


 凪人は慌てて両腕を離して後ずさった。自分はなにもしてませんポーズだが、もはや後の祭り。


「あら、続けていいのよ。こっちのことは気にせずに」


「そのとおり、まったく構わなくていいぞ。高校生カップルの抱擁がどんなものか参考に見ていただけだから」


 いけしゃあしゃあと続きを促してくる。


(そんなこと言われてできるかッ)


 言ってやりたいことは山ほどあったが恥かしさで言葉にならない。それはアリスも同じようで、顔を赤らめて沈黙している。


「ほらほら、遠慮せずに」


「これも演技の勉強だ」


 二人は息ぴったりに煽ってくる。


(こいつら)


 凪人はどんどん追いつめられていく。

 もし遅れてやってきた柴山が顔を出さなければ窮地に追いやられていたかもしれない。


「おいアリス。そろそろレイジが出そうだぞ」



 ※



『ったく、シケた事件だったにゃあ』


 テレビ画面の中でまっくろ太が退屈そうにあくびした。


(やばい、きた)


 消灯して真っ暗になった店内に浮かび上がる映像。各々好きなところに腰を下ろしているが、凪人以外全員の視線がテレビに集まっている。

 凪人はもっとも離れたソファーに座っていた。当然のようにアリスも隣にいる。


 とくん、とくん。

 次第に心音が高鳴っていく。


『はん、あの程度で音を上げるようじゃまだまだレイジの足元にも及ばないな』


『またレイジかよ。なにかって言うといつもそれだ』


『まァ……でもアイツもオレさまには頭があがらねぇから案外似た者同士かもな。イワシとシシャモの干物くらいの違いでしかにゃい』


『なんだその例え……』


 イチハ(愛斗)とCGのまっくろ太が他愛ないやりとりをしている。

 しかし凪人の指先からは血の気が引いていた。


(あぁまずい、もうすぐだ)


 心臓がどくどくと脈打つ。

 恐怖と恥ずかしさが相まっておかしくなってしまいそうだ。



 逃げられるのならどれほど楽か。

 けれど逃げてはいけない。

 アリスにちゃんと見てもらうのだ。そして分かってもらうのだ。



 隣に座るアリスをちらっと見ると、胸の前で両手を組み、まるで天の御遣いでも見るように画面に釘付けになっている。

 だが次の瞬間「あっ」と小さく声を漏らした。イチハたちの横をレイジが横切ったのだ。


『オイ戻れ』


 まっくろ太が叫ぶ。


(戻らないでくれ)


 結末など分かりきっているはずなのに心の中で叫んでしまった。


『どうした? 忘れ物か?』


『レイジだ!』


『えっ』


 画面に映し出されたのは国際線のターミナルに向かっていく凪人の後ろ姿だ。


 着ている服はふだんの凪人が絶対にチョイスしないようなオシャレで洗練されたものだが、髪色や背格好を見れば分かってしまうかも知れない



『レイジ、レイジなのか!?』



 チケットに目線を落としていた青年がゆっくりと振り返る。





 どくん。

 緊張がピークに達した。





 一瞬、目元部分がはっきりと映し出され、凪人はたまらず顔を覆った。

 画面はすぐにイチハの顔のアップに切り替わり、戸惑っている様子が映し出される。


『アンタ、レイジなのか? 本当に』


 沈黙を保つ凪人の姿はピントが合わずにぼかされている。




『可愛い猫だね』




 映し出されたのは鼻下から鎖骨にかけての部分。顔全体は見えない。声も加工されている。

 それでも分かる、これが自分であると。きっとアリスだって。


『猫は何にも属さない。雲のように気まぐれに生きるだけ。その愛すべき存在に飼い主なんて概念は必要ない。敢えて言うなら友人だ』


『オマエ、本当は分かっているんだろう!』


『ぼくはただの野良猫。何にも縛られず、真実を求めていまを生きるだけ。だからもうしばらく友人のことを頼みますね、イチハさん』


 きびすを返して歩き出した青年。イチハは慌てて追いかけたが人ごみに紛れて見失った。


『くそ、どこだ』


 きょろきょろと視線を巡らせるイチハ。



(――――………)



 出番が終わった凪人は極度の疲労でうなだれていた。

 胃が激しく震え、しばらく忘れていた吐き気がこみあげてくる。


(情けないな。これが自分だと自信満々に告げるつもりだったのに、全然ダメだ)



 アリスは驚いているだろうか。

 それとも困惑しているだろうか。

 それとも怒っているだろうか。



 意気地なしの自分はアリスの顔を確認する余裕すらない。


 ふと、暖かいものが手の甲に触れてきた。


(アリス?)


 暗闇の中で目が合った。

 微笑んでいる。


 人差し指を立てて静かにするようにと伝え、凪人が頷いたのを確認してから手を伸ばしてきた。

 触れられる、と身構えたのを見透かしたようにスッと眼鏡を引き抜く。


 ガラスごしではなくなったアリスは甘えるように肩を寄せてくると、空いた方の手で凪人の頬を捕らえ、そのまま唇を重ねた。強引で、それでいて逆らえないキスだ。


 消灯しているとは言えすぐ近くに母や愛斗、柴山がいる。

 そんな状況下で熱いキスを交わす自分たちは異常だと思っていたが、なぜか自然と受け入れられていた。それどころか自らも手を伸ばしてアリスの肩を抱いている。


 本当はずっとこうしたかった。

 こうして互いの温もりだけを感じていたかった。


 エンディングロールが流れる中、二人はついばむようなキスを交わし、熱い吐息を何度も重ねていた。




「はぁー面白かったわね」


 電気をつけた母が満足げなため息をつく。


「ストーリーもアクションも、愛斗さんもまっくろ太もレイジもすごく格好良かったわ。ね、アリスちゃん?」


 視線を向けられアリスはぎこちなく頷く。


「はい……そうですね。レイジ良かったよね。ね? 凪人くん」


 アリスから顔を背けていた凪人は「あぁ」と素っ気なく応えた。


「どうした凪人、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」


 カウンター席にいた愛斗が首を傾げる。ほぼ同時に柴山も声を上げた。


「アリスもだぞ。具合悪いのか?」


 凪人とアリスが気まずそうに顔をそらしているのを見て、母だけがおかしそうに笑い声を上げた。


「二人とも暗闇の中で一体なにをしていたのかしらねぇ?」

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