第76話

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 「加納先生」

 ドキッ。

 一階まで降りて職員室へ戻ろうとした加納久美子は後ろから声を掛けられた。びっくりして思わず身を竦めてしまう。振り向くと男子トイレの前に教頭先生が立っていた。恥かしい。「あ、は、はい」

「あ、ごめん。驚かせてしまった」

「いえ、大丈夫です」

「上で何か変わったことがあったかな?」

「いいえ」相手の言葉には、どうだ、オレの言ったとおりだろう、という勝ち誇ったニュアンスが窺えた。「帰ります」教頭先生が正しかったと認めるように久美子は言葉を続けた。

「もう?」

「はい。何事もなさそうなので」

「そうか。うん、それがいい。土曜日なんだから、ゆっくり休みなさい。あはは」

「失礼します」加納久美子は努めて相手の顔を見ないようにして言った。

 でも教頭先生の言った通りで良かったと思う。何も起こらなければ、それに越したことは無いのだ。

 職員室に入り、自分の机の引き出しからフォルクス・ワーゲンのキイを取る。ほかに持ち帰るモノはなかった。

 採点が途中の小テストの束が目に入った。そうだ、これだけでもむ終わらせてしまおう。月曜日には生徒に返せる。何分も掛からないだろう。

 久美子は椅子に座って作業を始めた。テストの採点では、何か気がつくとコメントを残すことにしている。『すごい』とか『よく頑張った』、または『もう少し』だ。褒め言葉しか書かない。これで生徒がやる気を起こしてくれたら嬉しい。

 手っ取り早く終わらせて席を立つ。帰ってから家事を片付けていく段取りを考えながら足早に職員室から出いく。上履き用のパンプスから白いコンバースに履き替えて校庭に出た。

 素足にスニーカーを履くのって気持ちがいい。天気がいい日は特にだ。自由を感じる。カジュアルでラフな格好が久美子は好きだった。

 右腕のベビー・Gに目をやると、そろそろ午前十時になる。途中で127号線にあるタワー・ビデオに寄って行ける、と思った。

 駐車場へ向かいながらも無意識に顔を上げて二年B組の教室を見上げた。

 えっ。足が止まる。ど、どうして。

 不安が加納久美子を襲う。教室の窓が全て黒い遮光性のカーテンで閉じられていた。それも二年B組の教室だけが。誰かが教室にいるらしい。

 ……どうしよう。

 このまま帰るわけにはいかなくなった。久美子が戻ろうとした時だ、カーテンが動いて隙間から人の顔が見えた。誰だかは分からない。でも久美子の方を見たのは確かだ。

 足早に戻る。校舎に入ったところで、トイレから出てきた教頭先生と鉢合わせした。

 「あれ、帰るんじゃなかったか?」

「……」教頭先生の言葉を無視した。久美子が階段を上がって教室へ向かおうとしているのに気づくと、彼は嫌悪感を露わにした顔を見せた。

 三階まで一気に駆け上がり、教室の前で足を止めた。さっきとは違い、ドアが閉じられている。中から鍵を掛けられているかもしれないと思いながらも、ドアに手を掛ける。恐怖心はなかった。動いた。

 中は薄暗かった。明かりは数本のローソクが火を揺らしているだけだ。かなりの数の生徒がいるみたいで、そのうちの何人かは顔が認識できた。二年B組の生徒だ。

 教室は様変わりしていた。全ての椅子と机は中心に作られたサークルを囲むように四隅へ動かされ、その上に生徒たちが腰掛けている。教室の真ん中に出来たスペースで行われている何かを見ている観客のように。

 「あ、あなた達……、何をしているの?」

「……」

 答えが返ってこない。身動きすらしない。みんなが座ったまま居眠りしているみたいだ。状況を把握しようとして久美子は教室の中へと入った。「はっ」目に映ったモノが信じられず、無意識に口を手で押さえた。うっ、嘘でしょう? 心の中で叫んだ。

 教室の中心では下半身を露わにした黒川拓磨が、全裸で横たわる女性の上に身体を重ねていた。性行為の最中だ。それを二年B組の生徒たちが放心状態で見つめている。「えっ、安藤先生?」

 黒川拓磨が上体を起こして久美子の方を向いたところで、その女性が呻くように顔を横に動かしたのだ。

 「加納先生、待ってたぜ。次は、あんたの番だ」

「……」えっ、どういう意味? あたしを待っていたって。わけが分からない。

 安藤先生の下腹部から勃起したペニスを引き抜きながら、黒川拓磨は笑顔を見せていた。みんなに見られて恥かしがる様子なんて全くなさそうだ。立ち上がろうとしている。

 逃げないと。他の職員たちに知らせないと。でも身体が硬直して動かなかった。このままだと危ない。そう分かっていても,脚に感覚がなかった。「あっ」横から誰かに右腕を掴まれた。力が強い。「いやっ」

 板垣順平だった。反対の手にはロウソクを持っていた。「痛い。やめて」ところが手を離そうとしない。いつもの彼じゃなかった。夢遊病者みたいな目をしている。

 「先生、何を言っても無駄さ。もう奴はオレの言うことしか聞かないんだ」

「……」そうらしい。黒川拓磨に操られているんだ。何を言っても無駄みたいだった。

 しかし掴まれている手が痛い。片手なのに凄い力だ。どうにかして彼の手を振り解けないかと思っていると、それを悟られたのか、左側の手も他の男子生徒に掴まれてしまう。両手の自由を奪われて絶望感が久美子を襲う。「やめてっ。いや、離して」

「先生、大人しくしなよ。どうせ、オレに抱かれるんだぜ」

「いやよっ」怒りを込めて言った。

 黒川拓磨は話しながらペニスをティッシュで拭いていた。まるで次の獲物をさばく包丁を研ぐように。逃げ出したい。

「言うことを聞かないと、痛い目に遭うぜ」

「それは、あんたにしても同じことよ」両方の腕を掴む、男子生徒二人の力が強くて痛かった。振り解くどころじゃなくて、耐えるだけで精一杯だ。こっちへ黒川拓磨がやってこようとしていた。

「はっはっ。そんな強気なところが好きだな。加納先生なら、しっかりした子供を産んでくれそうだ」

「ふざけないで。誰が、あんたみたいな悪魔の子を産むかしら」口だけは強がりを言い続けた。怒りが恐怖心を薄れさせ、少しづつ脚の感覚を取り戻そうとしていた。

「安藤先生もそう言っていたけど、今はこの通りさ。すっかり観念して、オレに股を開いてくれたんだぜ」

「嘘よ」

「仕方ないな。時間もないし、オレたち三人で先生のセンスのいい服を脱がしてやるか」

「……」裸にされる。再び恐怖が加納久美子を包み込もうとしていた。逃げたくて身体を揺すった。「い、痛い」掴んでいる生徒の力が増して、立っているのも辛くなる。ああ、もうダメだ、と思った瞬間だ。

 『ミスター・ムーンライト』携帯電話が鳴った。

 ジョン・レノンの叫び声に驚いたのか、二人の男子生徒の力が緩んだ。この瞬間を逃さない。掴んでいた手を振り解き、加納久美子は向きを変えて一目散に教室から出て行く。

 「おい、逃がすなっ」

 後ろで黒川拓磨の声がした。「どけっ、オレが捕まえる」振り向かない。階段へと急ぐ。「あっ」廊下を歩く教頭先生の姿があった。久美子の様子を見に来たに違いなかった。「先生、逃げて」

 「加納先生、どうした?」

「せ、生徒たちが--」説明なんかしていられない。「いいから、早く逃げて」とても教頭先生一人で立ち向かえる状況ではなかった。 

 「あっ、お前。こらっ。何、やってんだっ」

 教頭先生のその声に久美子は思わず教室の方へ振り返った。「あっ」下半身を露出した黒川拓磨が追って来ていた。

 教頭先生が久美子を通り過ぎて彼に立ち向かおうとする。

 一人じゃ、とても無理。他の生徒たちも操られているんだし。そう思ったが、加納久美子は立ち止まって成り行きを見るしかなかった。

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