第75話

   75


 何事もなさそうだ。波多野刑事は安心した。不安が無くなると加納先生に対する想いが蘇ってくる。素敵な女性だ。もっと長く話していたかった。

 とっさに何か他に話題を探そうとしたが見つからず、不自然な形で電話を切ることになった。なんてカッコ悪いことを……。

 どうにかして食事に誘えないかと考えてしまう。その反面、オレみたいな子持ちの刑事なんか相手にするもんかと、勝手に落ち込んだりする。その繰り返しだ。オレは非番で彼女も休み。しかし今日という日は、いくら何でもまずい。誘う勇気もないし、心の片隅には交通事故で亡くなった妻に対する罪意識もあった。

 じっとしていられなくて、息子の部屋へ行って様子を見てこようと立ち上がる。携帯電話は離さない。いつ署から呼び出しがあるか分からないからだ。

 孝行が羨ましい。あいつは毎日、加納先生に会えるんだ。もしオレが生徒だったら絶対に一日も学校を休むものか。一生懸命に英語を勉強して加納先生から褒めてもらいたい。

 女性に憧れるなんてことは、ここ数年なかった。もう二度とないと思っていた。それが今は恋する高校生の気分だ。恥かしくて、とても人には言えたもんじゃない。

 息子の部屋のドアを開けたところで自分の目を疑う。ベッドには誰も寝ていなかった。波多野正樹の浮いた思いが一瞬で消えて無くなった。

 トイレにでも行ったか。それならいいが。しかし刑事という職業で培ってきた危険に対する第六感が、激しく警告音を鳴らし始めていた。息子を探しにトイレには行かず、波多野は玄関へと急いだ。

 「おい、どうした」

 波多野は一瞬、躊躇う。玄関に立っていた息子の後ろ姿が別人に見えたからだ。いつもと違う。へんに肩がいかつい。レスラーかボクサーのような体つきになっている。ただし着ている服は、いつも身につけている白いトレーナーと黒のジーパンだった。「どこへ行くんだ? 寝てなくていいのか、お前」

「……」

 返事がない。振り返ろうともしない。「おい、孝行」  

 あまりの反応の無さに聞こえないのかと思い、近づいて息子の肩に手を掛けた。やっと振り向いてくれたその顔は、今まで見たことが無い表情をしていた。「……」波多野は言葉を失う。

 その目は赤く充血して頬と口は怒りに歪んでいた。

 どうしたんだ、と声を掛けようとしたところで、避ける間もなく拳が飛んできた。まさか息子に殴られるとは思ってもいない。不意を突かれた波多野の顔面を直撃した。「ぐうっ」

 目の前が真っ暗になり、足元はフラつく。体勢を整えようとするが、次の一撃を右の脇腹に食らう。息を吐き出し、後は呼吸が出来ない。その場に倒れこんだ。

 普段は弱々しく見えた息子に、これほどの力があるとは思わなかった。「た、たか……おいっ」

 立ち上がれそうにない。それでも相手の動きを読んだ。まだ攻撃してくる。波多野は身体を回転させて、踏みつけようとした息子の足をかわす。「やめろっ」

 空を切って床を蹴ったその大きな音から、このままでは殺されるかもしれないと悟った。応戦するしかない。でも相手は息子で、怪我はさせたくない。手加減しながらの戦いになる。簡単ではなさそうだ。

 「孝行っ」姿こそ息子だが、何かに取り憑かれたように凶暴になっていた。学校へ行こうとしているのは間違いなさそうだ。だが絶対に行かせてはならない。

 そうだっ。

 加納先生が危ない、と波多野は気づく。学校でも何かが起きているはずだ。助けに行きたいが、今は息子をなんとかしないと--。


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