第74話

   74  三月十三日 土曜日


 加納久美子が学校に着いたのは朝の九時過ぎだ。心配で昨夜は何度も目を覚まし、寝不足で身体が少しだるかった。

 日曜日なので、サックスのポロシャツに紺色のチノスカートというカジュアルな服装にした。それにヘリー・ハンセンの黄色いウインド・ブレーカーを羽織る。いつもの休日と同じで白いコンバースは靴下なしで履く。

 運転中はブルース・スプリングスティーンを聞いた。彼の音楽から勇気を貰いたかった。最も好きなのが『ジャングルランド』だ。

 ドラマチックな曲で、クライマックスにはクラレンス・クレモンズのサックスが夜空を引き裂き、続いてB・スプリングスティーンが雄叫びを上げるのだ。3rdアルバム『明日なき暴走』の最後を飾るに相応しい。

 駐車場でフォルクス・ワーゲンから降りる時に、さすがにローデンストックのサングラスは外す。

 職員室には当直の教師とクラブ活動の顧問ら数人がいたが、教頭先生の姿もあった。みんなが普段とは違う久美子の格好に一瞬だが驚いた様子を見せた。

 『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』と、あれほど言っておきながら教頭先生が学校に来ている。

 意外な感じはしなかった。これで重要な何か隠していると確信した。高校生だった木村優子に鏡を渡したのも違いないだろう。久美子の不安が増して行く。

 自宅に持ち帰って整理した書類の束を机の引き出しにしまって鍵を掛けると、すぐに二年B組の教室へと向かった。少し怖い。出来たら一人では行きたくなかった。安藤先生と一緒だったら良かったのにと思う。

 彼女とは連絡が取れないままだ。したがって加納久美子の手に鏡はない。黒川拓磨と対峙するのに唯一の武器だというのに。

 校舎は静まり返っていた。階段を上る久美子の上履きにしているパンプスの軽い足音しか聞こえない。何かが起こりそうな気配など全くなさそうだが、不気味だ。

 三階の教室すべてのドアが開いていた。ひとつ一つをチェックしていく。二年B組の教室にも誰一人いなかった。窓から入る日光が眩しくて、その明るさで少し不安が和らぐ。

 いつもと違うところは何もなさそうだ。ウソの情報を掴まされたのかもしれない。

 ホッとすると同時に精神的な疲れがドッと出てくる。心配して日曜日に学校へ足を運んだ自分がバカみたいだ。すぐにも自宅へ帰りたい。

 『ミスター・ムーンライト』

 慌てた。二階まで階段を降りているところで携帯電話の着信音が鳴る。静まり返ったところに、いきなりジョン・レノンの声だ。この着信音は良くない。早く変えよう。波多野刑事からだった。「もしもし」

 「加納先生、おはようございます。いま学校ですか」

「おはようございます。そうです」

「何か変わったことがありますか」

「いいえ、ないです。教室には誰もいませんでした」

「そうですか。それなら良かった。じゃあ、我々の思い過ごしだったのかな」

「そうかもしれません。ご心配をさせてしまって申し訳ありませんでした」

「いや、そんな事はありませんよ。用心に越したことはありませんから。加納先生、これからどうされますか」

「帰ろうと思っています。ところで孝行くんは家にいるんですか」

「ええ、居ます。風邪をひいたらしくて、ぐっすり寝てますよ」

「あら、それは--」

「大丈夫ですよ、ご心配なく。たぶん月曜日には学校へ行けるでしょう」

「そうですか」

「もし何かありましたら、連絡して下さい。いつでも結構です」

「わかりました。ありがとうございます」

「それで、あの……加納先生」

「はい」

「……あ、いえ。すいません、何でもありません。失礼します」

「はい、失礼します」

 加納久美子は携帯電話を閉じると再び階段を下り始めた。波多野刑事には勇気づけられる。安藤先生と連絡が取れない今となっては彼しか頼れる人はいない。

 さて家に帰ったら何をすべきか。掃除に洗濯、それに買い物。休日といっても普段できない日常の雑務で半日は潰れてしまう。

 なんとか時間を作って、夜は久しぶりにレンタル・ビデオを借りて気分転換を図りたいと思った。『タイタニック』が見たかった。きっと泣くだろう。だから絶対に一人で見ようと決めていた。

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