第72話
72 三月十二日 金曜日の午後 1
加納久美子は、昼食を終えて少し経つと職員室から出た。今日は安藤先生が休みなので一人で食べた。なかなか風邪が治らないらしい。昨日は午前の授業が終わるとすぐに彼女は早退したのだ。
誰もいない場所へ行ってポケットから携帯電話を取り出す。何時ごろに着くか桜井弘氏に伝えようと考えた。
六時限目の授業はなかった。今日は早退しても問題はない。好都合だ。上手く行けば、帰宅のラッシュアワーを避けて君津に戻れるかもしれなかった。
「もしもし」
「加納です。先日は失礼しました」
「いいえ。とんでもありません」
「五時限目の授業が終わり次第こちらを出発します。そちらへ着くのは︱︱」
「ええっ、ちょっと待って下さい」
「はい?」もしかして都合が悪くなったのか。
「どういう事ですか?」
「……」久美子は自分の耳を疑う。
「話が分からない」
「お約束した鏡のことです」当たり前のことなのに口にするしかない。
「それなら昨日の夜に、そちらの安藤先生が取りに来られましたけど」
「ええっ」全身に衝撃が走った。何も聞いていない。
「加納先生の都合が悪くなって、こちらまで来れなくなったと聞いたんですが。そうじゃなかったんですか?」
「……」どうして?
「加納先生?」
「は、はい」
「どうなっているんですか?」
「申し訳ありません。こちらの手違いでした」そう言うしかなかった。
「もしかして安藤先生が勝手に取りに来たんですか?」
「い、いいえ。そういう事じゃなくて……」
「では、どういう事ですか?」
「これから彼女に会って受け取る約束でした。色々と忙しくて私が勘違いをしたようです」
「本当ですか?」
「はい。すいません」信じてくれないのは分かっている。嘘をついて、この場を取り繕うしか方法はない。
「……」
「申し訳ありませんでした。明日、どうなるか分かりませんが、チャンスを見つけて黒川拓磨に鏡を突きつけてみます」
「……」
「どうなるにせよ、すぐに結果は知らせます」
「わかりました。……では十分に気をつけて下さい」
「ありがとう御座います。これで失礼します」
加納久美子は廊下の隅に携帯電話を持ったまま動けない。信じられなかった。どうして? 理解できない。
一瞬で安藤紫という仲が良かった女性が、まったく知らない別の人物になった思いだった。何かの間違いであって欲しい。
勇気を出して加納久美子は安藤紫と連絡を取ろうとした。呼び出し音が続く。出てくれない。諦めて携帯電話を閉じた。もし応答してくれても、どう話を切り出していいのか分からなかった。彼女からも納得のいく説明が聞けるとも期待できない。頼りにしていた味方を失った思いだ。この状態で明日の土曜日を迎えなければならないのか。
加納久美子は不安でいっぱいだった。
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