第69話

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 高木将人は加納久美子にウソをついた。連絡を取らなければならない奴なんて一人もいなかった。もう誰もいないんだ。あの女に本当のことなんか口が裂けても言えるか。なにも知らないくせに。

 中学二年の頃、高木将人は東京の高円寺に住んでいた。初夏を感じさせる暑い日曜日だった、仲間四人と一緒に胆試しの目的で薄気味悪い空き家に入って行く。好奇心いっぱいで、何の恐れもなかった。真鍮みたいにスクラップ屋に売れる金属があれば、盗んでやろうという気だ。敷地内には、背中に黄色い線の入った見たこともない、ハエみたいな黒い虫が何匹も飛んでいた。

 「なんか気持ち悪いな」仲間の一人が言った。みんな同じ思いだったはずだ。だけど、引き返そうぜと弱気を口にする奴はいない。五人いれば怖いもの知らず。さっさと金目のモノを見つけて、ずらかろうという気だ。

 「何だろう、この虫は。誰か知ってるか?」

「そんなこと、どうでもいい」

「でも目が赤くて、黄色いラインが背中に入った虫なんて珍しくないか?」

「うるさい、もう黙ってろ。構うなって」

 家の横に小さな蔵みたいなのがあって、そこで虹色に輝く鏡を見つけた。日本語じゃない不思議な文字が所々に書かれていて、異様な感じがした。珍しくて価値がありそうだ。みんなが欲しがった。しかし高木が二日後には千葉県の君津市へ引っ越すことになっていたので、餞別という意味合いで仲間が諦めてくれたのだ。嬉しかった、その時は……。

 空き家というより廃墟に近い。人が住んでいないと思っていたのが、そうじゃなかった。仲間はパニックになって逃げ出す。それ以来、お互いに連絡がつかなくなっていく。虹色に輝く鏡だけが残った。

 嫌な思い出の品となった。君津には持って行ったが押入れの奥に仕舞ってそのままにした。いつか捨てようと思っていたが、すぐに存在を忘れてしまう。

しかし何年も経って異変が起き始める。夜中に押入れから物音がするのだ。ネズミでも潜んでいるのかと思ったが、そうじゃなかった。中に入っている物を全て取り出して調べる途中で思い出す。原因は、この鏡だと直感した。早く処分した方がいい、と考えた。不気味過ぎる。持っているべきじゃない。

 盗んだモノなので、両親には知られたくない。君津高校へ通う通学路の途中で、ゴミ置き場へ黙って捨てた。これで安心。

 ところが数日して、また押入れから物音がする。原因は鏡じゃなかったらしい。もう一度、中の物を取り出して詳しく調べるしかない。その作業をしている途中で、無いはずの鏡を目にした時は心臓が飛び出すくらいに驚く。捨てたのに押入れの中に戻っていた。理解できなかった。

 もう一度、捨てに行こうかと考えたが止めた。戻ってきているのに、その逆の行為をすることはバチが当たりそうで怖かった。逆らわない方がいい。高木将人は保管し続けることにした。夜中に押入れから物音がするのは我慢するしかなかった。

 成人して教員になり、国際中学に就職した。そこで助けられた。

授業が終わって教室から出て行こうとすると、一人の女子生徒に呼び止められた。勉強のことで何か質問するのかと思ったが違った。

 「先生、処分に困っている物を持っていませんか?」

「え、なんだって」何のことが分からなかった。

「手放したいのに手放せない物を持っているでしょう?」

「さあ、……分からないけど」

「……そうですか」

「何のことだろう。あはは」

「わかりました。でも、もし心当たりがあるのでしたら、いつでも相談に乗ります」

「……」

 冗談を言われたのだろうと思って、その場を後にした。しかし女子生徒の真剣な表情が頭に残った。

 気がついたのは数日後だ。彼女は、あの虹色に輝く鏡のことを言っていたのかもしれない。どうして分かったのだろう。不思議だ、怖いくらいに。それ以後は授業中、その女子生徒の視線が耐え難いほど気になった。とうとう高木将人は自分から声を掛けた。

 「この前のことなんだけど。どういう意味で言ったのか教えてくれるかな」

「あたし霊感が強いんです。持つべきじゃない物を所持していて、高木先生が困っているのが分かります」

「……」そのとおりだった。

「助けてあげられます」

「どうやって?」白状したも同じ。

「わたしが引き取りましょう」

「ほ、本当か?」有難い。

「感じるんです。持っていれば、いずれ高木先生に大変なことが起きるんじゃないかと」

「……まさか」

「何か悪い存在が、それを奪い取ろうと追いかけて来るみたいなんです」

「悪い存在? なんだい、それは」

「わかりません。でも強い霊気を感じます」

「……」鳥肌が立ってきた。夜中に押入れから物音がするのも頷ける。「きみが何とかしてくれるのか?」

「はい。知り合いの神主さんに相談してみようと思います。そこの神社で預かってもらえるといいのですが……。とにかく、どこか神聖な場所に保管すべきだと思います」

「わかった」渡りに船だ。この話に高木は乗るしかないと思った。「明日、学校へ持ってくるから受け取ってくれ」

「わかりました」

「ありがとう」高木は心から感謝した。

 その女子生徒の名前は今でもハッキリと覚えている。木村優子だった。忘れるものか。

 口数が少ない賢そうな生徒で、成績も優秀だった。肩まで伸びたストレートの黒髪と色白の顔が調和していた。細身でしなやか。霊感が強いと言われれば、なるほどなと無理なく頷けてしまうような雰囲気を持っていた。

 あの鏡を職員室の外で彼女に渡した時は、重い荷物を肩から下ろしたような安堵感に包まれた。これからは自由に生きていける。長い刑期を終えて釈放された感じだ。

 それが……、あれから何年も経ったというのに、再び悪夢が蒸し返されようとしていた。

 あの鏡が原因で木村優子は亡くなったらしい。本当だろうか。信じられない。だが加納久美子が嘘を言うとも思えない。

 高木将人としては二度と、あの鏡を手にしたくなかった。見たくもない。入手した経緯なんかを明かしてみろ、きっと引き取ってくれと言ってくるに決まっている。嫌だ。絶対にイヤだ。加納先生には当然だが、本当のことは言えない。知らぬ存ぜぬ、を貫き通すしかないのだ。

 こんな大変な時に何でだ、という苦々しい思いも強い。高木将人は、まだ家族に株の損失を告白していなかった。カードローンからの多額の借金はそのままで、月末には口座から利息が引き落とされ続けていた。残高が底を突くのは時間の問題だ。一刻も早く助けてもらわないとデフォルトという事態になってしまう。

 女房の機嫌がいいタイミングを見計らっていた。しかし、パチンコで損をしたとか背中が痛いとか、ジャイアンツが負けたとか愚痴ばかりが口から出てくる毎日で、なかなか告白するチャンスは巡ってこなかった。焦るばかりだ。

 もしタイミングを間違って告白すれば、家での待遇は奴隷以下に成り下がるだろう。今ですら、飼い犬のリボンに負けているのだから。それを実感したのは、たまたま冷蔵庫にあったアイスクリームのカップを食べた後だった。リビングのソファに座ってテレビのニュースを見ながら寛いでいた。そこへ凄い形相で女房がドアを開けて入ってきた。

 「あんた、何て事してくれたのよ。アイスクリーム、食べたでしょう?」

「う、うん」

「あれはリボンのデザートだったのに。二度と勝手なことはしないで」

「わかった。すまない」 

「まったく、もう」女房は吐き捨てるように言うと、リビングから出て行った。

 テレビでは、和歌山市の夏祭りで起きた食中毒事件の続報を伝えていたが、もう高木将人の目と耳に届かない。頭の中で、自分は食べさせてもらったことがないのに、犬のリボンにはデザートが与えられているという事実を噛み締めていた。

 働き手はオレなのに、この冷たい待遇はないだろう。人生をやり直したい気持ちを強くした。

 この家から出て行きたい。自由になりたかった。しかし自分は無一文だ。あるのは中学校の教頭という職業だけだ。

 人生に絶望していた。すっかり髪の毛も薄くなって、実際の年齢よりも老けて見える。鏡の前に立つのが嫌だった。影で生徒たちが自分のことをハゲと呼んでいるのも知っている。腹の回りは、たっふりと脂肪が付いて中年の体形そのものだ。運動をしなくなって何年も経つ。これでは、もし魅力的な女性に出会っても恋愛を楽しむなんて夢物語だ。悲しい。

 但し、……但しだ、もし金があれば、……話は別だろう。それなりに財力があれば、きっと女性が自分を見る目も変わってくるはずだ。アルマーニのジャケットに身を包めば、この身体だって見栄えは少し良くなる。

 なんとか再起を図りたい。とりあえずは株の損失を鬼の女房に告白して助けてもらう。早急にカードローンの借金を帳消しにしなければならなかった。たぶん通帳とキャッシュカードは取り上げられて、二度と京葉銀行から金を借りられなくなるだろう。

 だけど高木将人にはアイデアがあった。目を付けたのは、給食費とか修学旅行費として生徒たちから集めた金だ。手付かずで学校の金庫に眠っていた。旅行代理店への最初の支払いが生じるのは、まだ一ヶ月も先だった。それまでの間に、もし確実に儲かりそうな株が見つかったら……。

 リスクを冒さなければ大きな利益は手にできない。男は一生に何度が勝負しなければならない時を迎える。それが高木将人の信念だった。もし上手く行ったらと思うと、頭にはダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの美しい姿が浮かんだ。

 詳しく株式新聞を読む毎日が続く。安易に行動を起こす気持ちはない。犯罪行為なのだ。失敗したら身の破滅。絶対と確信が得られるまで金庫の金には手を出さない。儲かりそうな株が見つからなければ諦めよう、そんな気持ちだった。

 こんな事情だから、手放した鏡のことなんか考えている余裕はない。今は、それどころじゃないんだ。加納久美子には、やっぱり思い出せないと突っ撥ねてやろうと結論を出した。

 『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』、と決めつけるしかない。

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