放尿

 実家に帰るのは三年ぶりだった。その間に兄夫婦に三人目の男の子が生まれて、二世帯で住んでいる家はより賑やかになったと両親は嬉しそうにぼやいていた。三十代になっても二十代後半とあまり変わらない月日の早さに歩調を合わせず、兄夫婦のつくし達はにょきにょきとアスパラガスのように太く伸びていく気がする。水に浸しておいたひよこ豆が一晩で大きくなる様変わりだ。幼子と大人では時間の流れる感覚が当然違うと知っているとはいえ、甥っ子達の成長の早さは、親戚のおじさんおばさんに「もうこんなに大きくなって」と言われていたのを、自分も繰り返さなければならない無常を抱かせる。どうしてこうも、家庭にまつわる暖かさは儚さを強く感じさせて、生きている幸せをたやすく悲しみへと持っていってしまうのか。家庭が不幸であったなら、生きているのが苦痛でしかたないだろうが、幸福であれば後の代償の大きさに恐れおののいてしまう。


 三年ぶりの実家はさほど変わっていない。家そのものが大きく変化していないからこそ、どこか心の奥に様変わりしていないことを望みつつも、変わっているのではないかという疑念は拭えない。会うたびに小さくなっていく両親の姿を見るのは物悲しく、加齢による水分保有率の低下を、扉のたてつけの悪さや、網戸の痛みに肌の皺を見るようで、細かい変化こそ時間の無慈悲な経過を感じてしまう。甥っ子の成長した姿などは不躾だろう。肥大する蕾でしかない。言葉をろくに話すこともできなかった次男坊ははっきりした音節で自分の名を呼び、前もって兄夫婦に聞かされていた話によって自分を新しい宝物として待っていた期待を素直な態度に表してくる。それに反して、いくぶん神経質で内向的な難しさを持っていた長男は、予期した通りそのままの内気な人見知りになり、あどけない明るさと無邪気さを失い、自身の性質と折り合いをつけて生きるという死ぬまで終わらない課題を見つけてしまったようで、機関車に顔のついたイギリスのアニメーションを一緒に観ようとわがままを言って泣いた押しの強さで自分にたてついてくることはもう二度となさそうだ。


 両親とのんびり夕食をいただいてから、すでになくなった自分の部屋の代わりに、亡くなったじいさんの部屋で持ってきた荷物をあけていると、次男坊がやって来て一緒に風呂に入ろうと言う。昔の自分ならば、親しい友達や付き合いたての彼女等、どんな人から誘われても困っていたが、今の自分は初めて会った中年男性や見ず知らずの女でも困惑せずに裸をさらすことはできるのに、両親と兄、姉、そして甥っ子達とは一緒に風呂へ入れないと気づいた。小さい頃は何の気兼ねもせずに風呂に入れた肉親に、今では他人よりも素の自分を見せることに躊躇するようになっているのだと驚いた。子供の自分は他人が遠く、大人の自分は血の繋がりが遠いなんて、寂しいものだと思うも、それこそ独り立ちできている表れではないかと思い直すこともできる。正直子供とどう接していいかわからず、長男同様に内向的な自分は、一方通行に自己主張してくる物心のついていない幼子の相手ならまだしも、自我の芽生えだした不手際なずる賢さを持った子供は苦手だった。親しい中学の同級生グループと遊んでばかりいたせいで、高校の時に隣の中学校のグループに一人参加した時に、やりとりの違いに戸惑ってどう振る舞っていいのかわからなくなる心細さと居心地の悪さを感じてしまう。しかし、小学生になってもいない人間に遠慮するというより、引け目を感じるのは、三十数年生きて少しは人生というものを知った人間にとってひどく自尊心を損ねるばかりか、決して怖じ気ついてはならない恥だろうと思い、一昔の社会人の慣例として、嫌な上司から飲みに誘われるような避けることのできない社会の規則というより、叔父という立場の掟だと諦め、以前よりも新しいことに挑戦できる成熟した大人として、潔く風呂に入ることを承諾した。


 脱衣所で服を脱ぐ間に、実家の風呂での思い出が甦ってきた。自分が中学生になるぐらいから兄との関係が冷めてしまい、母親を介さなければ連絡をしなかった。月曜日に発売される週刊の漫画雑誌は兄が、水曜日発売の漫画雑誌は自分が買うという決まりが小学校の低学年から続いており、気になる漫画の続きをどうしても読みたくて、兄がすでに漫画を読み終えただろうと見計らい、母親に伝達して漫画を取りにいってもらうことが通例になっていた。今でさえぎごちないそんな兄とも一緒に風呂に入っていたのだと、兄の子供が服を脱ぐのを見ながら感慨深くなっていると、ふと、兄の性器がいつの間に変化していて、便所で隣合わせで用を済ませていた時に見た父親の巨大な、自分のものと似てもつかないそれに様変わりしていて、父親同様の鬱蒼としたものが加わっていたことに羨望を憶えたのを思い出して、次男坊に今の自分の性器を見られたら、昔日の自分ではないが、芋虫と蝶ぐらいの差異にびっくりして、人懐っこい性格だから自分に何かしらの言葉を、遠慮のない質問と感想をあててくるのではないかと危惧してしまった。さらに、見慣れているであろう兄の性器と比較されて、その違いを指摘されるのではないかと一瞬疑ってしまったが、そんな想念は実に馬鹿馬鹿しいものだと思う前に、次男坊は風呂場へ入ってしまった。


 誰かと一緒に風呂へ入るのはいつ以来だろうと、考えるつもりもないのに思いを馳せながら風呂場へ入ると、何年も自分の体を流してきた風呂場は、室内乾燥の設備が新しく据え付けられていて、まるで腫れ物ができたような違和感を抱いた。いくつか目にした記憶との差異はここでも自分に乖離と惜別を送ってくれる。思い出される決まった習慣は変わらない。浴槽を塞ぐ蓋を丸めると、シャワーで体の汚れを落とさずに、すぐに湯に浸かる。一人で風呂に入るようになってから「体の汚れを落としてから浴槽へ浸かりなさい」という母親の教えは守らず、放任主義で、且つ、とても子供に甘いので、毎日風呂掃除をする職人じみた観察力によって、母は水面に浮かぶ垢の量ですぐに見抜いていただろうに、何も言わずにいたのは何かしら思うところがあったのだろう。昔のように風呂蓋を丸めようと思うも、すでに形状と材質が違う。そんな習慣など次男坊の存在によってすでに消されており、別の形になった風呂蓋は折り重ねられて端に置かれ、浴槽で次男坊は相変わらずの無邪気な笑顔をこちらに向けている。自分も同じように浴槽に浸かろうなどとは思わず、銭湯での所作を自分は始めた。シャワーで体の汚れを落とそうと、変わらないタブを回して湯を出し、太腿に力を入れて爪先立ちして頭から汚れを排水口へおとした。銭湯での所作はあくまで銭湯という環境で自分がこうすべきだと考えて決めたもので、以前の風呂場と違う実家のここで、着慣れた服を着こなすような真似をしても、場にそぐわず、シャワーヘッドを取り替えてあるからか、昔とは違って勢いのよい水圧はさらに昔の実感への期待を裏切るばかりだ。頭を洗っている最中に幽霊のことを頭によぎらせると、途端、百鬼夜行が数億万の水のつぶてを媒体にして背後へ出現したようで、突然先の尖った鉾で心細い背中を突き刺す予感から離れられないのを思い出された。頭を濡らさずに体にシャワーを浴びているだけなのに、甥っ子がまるで幾度も現れた妖怪共の一匹として今さら出現したようで、目を開いたままなのに、閉じているのと同じ程度に、いや、実体を持った確かな不安要素としてより強い圧迫を背後に押してくるのは、目を開けていようがなかろうが、背後を振り返ることはできないという条件が生み出しているのだろう。


 さっと体を洗い流しておもむろに振り向くと、原色がやけに目立つアニメーションのキャラクターの姿を借りた水遊びの道具をいじっている次男坊がいた。何の根拠もなく、コミュニケーションをとろうとする者なら当然の行為として、玩具をいじりながら独り言を元気に叫ぶ次男坊のいる浴槽へ一緒に入ろうと湯に片足を突っ込ませると、次男坊は浴槽から飛び出してしまう。何の他意も持たない突発とした動きだとわかっていても、どこかで「このおじさんは僕の期待していたものと全然違う、つまんないの」と思われたのではないかと疑ってしまい、仮に次男坊が大人で(コノ仮定ヲスル時点デ酷ク馬鹿ゲダ考エダトハ知ッテイテモ)、このような行為をしたならば、繰り返し食事に誘っても適当な理由をつけて相手が諦めるまでかわし続けるような大人だと自分は決めつけただろう。疑念をさらに展開する暇を与えることなく、次男坊は頭を洗ってと注文をつけてきた。幼い子と一緒に風呂に入るのだから、子供のわがままを聞いて何かしらの形で世話をしなければならない。そのやり方がわからないことに大きな不安を覚えていて、気乗りせずに誘われるまま風呂へ入ってしまったのだと、瞬時に理解できた。自主性のない受動的な人間の宿命をこんな小さな、力比べすればまず負けることのない可愛い甥っ子からも引き出されるなんて、性行為に誘われて失敗した記憶が、明るい風呂場の照明から思い出されて、同じ失敗による気恥ずかしさを再び味わわせられるだろう。自尊心を手痛く傷つけられることにどちらも変わりない。


 観念して風呂から出て、母親に頭を洗ってもらった経験を参考にすることなく、思いきりタブをまわして、ものすごい勢いのシャワーを次男坊の頭に向けた。これは間違いだとすぐに気づいた。この子は腕白だが、今は我慢している。声をあげてはいるが、それは新しい、予期していない体験による困惑だとわかる。心にもない同調を誤魔化せていると信じきった大人の相槌の声で、「わかるわかる」と間延びした音で言葉とは違う感情を含ませる、効果のある上手な仕事だと勘違いしている下手な頷きの萌芽を次男坊は発している。ふと、自分が優位に立った気がして、弱い者や立場の低い者を茶化す余裕を与えられ、水圧の強い噴射口の角度を変えて、頭部ではなく、小さな手で覆いきれている顔面へ向けると、次男坊は素直な、子供だけにしか得られない感興を遠慮ないうるさい声で反応した。少しわかった気がした。子供は遠慮なく攻撃されるとうれしく思うのかもしれない。子供はわからない。自分が子供の時は、大人になってもこの理解してくれない気持ちを決して忘れない。子供の感覚を持った大人になって、子供の気持ちのわかる一味ある特別な大人になれるだろうと思っていた。すべて幻想だった。あんなにたやすいと思ったことは、金持ちになる夢を叶えるよりも難しいことだったなんて……、次男坊の小さな頭を、まったく経験のないものを扱うというより、初めての女性との肉体のやりとりのように戸惑いながら洗った。


 これはすぐに上手にできる仕事ではないとあきらめ、途中から嫌がりだしている次男坊を無視してしっかりと髪を洗っていると、小便がしたいと言い出す。大人のモラルで、風呂から出るまで我慢してと言うと、言いたいことを口にするがまるで人の意見を得ようとしない人として、排水口へちっぽけな男性器から放尿しはじめる。ああ、こういう躾なのだと、まず兄夫婦の教育方針を考え、次に次男坊の生まれ持った人間性を、それから風呂場で小便をする下品な行いや、子供の時の自分だけが知っていたと思い込んでいた風呂場での幾つもの秘密や、知り合いの娘が浴槽でぶるぶる震えるのは小便をしているからだと気づいて毎日小便の混ざった風呂に浸かってさっぱりした気分でいたのだと驚いた知り合いと、その知り合いは排水口に小便をするたちであると発言し、今の自分はどうであるかと自問して、説得力のある放尿だと感心しながら排水口からはみ出た尿をシャワーで操作しつつ、もう実家には新しい家族の習慣があり、昔の自分も思い切り享受していた平凡な家庭の日常があり、もう自分の残りは甥っ子の小便にとっくに流されていて、うらやましく、さびしく、いつまでもこの家が大切でありますようにと思うも、すべては流れてしまい、ただ、悲しさだけは絡みつく毛と垢のように溜まっていく気がした。

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