牛丼

 桜の木の下で牛丼を食べる。彼は怒り食った。一人で、牛肉以外に何の色映えしないプラスチック容器の中を食べる。やたら目が痒くなる桜の木の下はアブラムシだらけだ。毎年毎年、新芽に群がる厄介な奴らだ。割り箸と一緒に入っていた爪楊枝の腹で向こうの桜の幹を掃除する。落ちない。


 彼は牛丼を食う。桜の木の下は夏の花火と一緒で、インフルエンザの大流行だ。この時の為だけに生かされている人間が地中から湧いてくる。どこに卵は隠れていた。彼は米を口に含んで、数粒だけ桜の木の下に吐き出した。彼は食いきった牛丼の空き容器を近くにいる集団の方へ投げた。気づかれない。雨でも降ればみすぼらしく濡れて良い気味だろう。コール・アングレが頭に響く。彼は血迷った気がした。やたら目が痒い。ほじくり返して紅生姜につければ、痒みなんぞ気にならないだろう。凄まじい痛みで桜は幻影としての花を咲かすだろう。


 牛丼を今までにどれだけ食べてきただろう。繊細な味わいを持たない汁にどれだけマナーの悪い男達の食事風景を見てきただろう。牛丼屋は彼にとっての桜だ。(紅生姜ガ少シ染マリスギタ河津桜デスネ……、イエイエ、八重桜デスカネ……)小さなトングで掴み損ねて散った彼らは桜の木の下で騒ぐのだ。人生を掴み損なっている奴らだ。彼にとっての尋常でない頭の働きは風のない夜桜に立ち昇る。はたして何が良いのだろうか。


 あと数十分したら月は桜から顔を出すだろう。社会のおこぼれのような牛丼を食べれば、少しは仕返しできた気がしたのだろうか。(青ねぎデモとっぴんぐスレバドウダイ)たかが知れている。桜の木の下で騒ぐように。すべては冴えないだろう。一人、牛丼を食べるように。まわりには宴会をする奴ら。雨が降れば傘をさし、空が晴れれば上着を脱ぐ奴らだ。集団になって喜び、他人を小馬鹿にするのだ。一人になれば何もできない。全部風に漂う闇からの野糞だ。彼は割り箸を二つに折って幹に突き刺した。びくともしない。割り箸は矛先を変えて、彼の手の平に少しばかり食い込んだ。素晴らしい。笑みはこういう時に浮かべる為に与えられた。


 楠の葉が一枚落ちた。桜なんかよりずっと品位の高い彼らは、春の一瞬だけもてはやされる芸能人と同格の桜なんかとは違う。いつだって堂堂と地に生えている。彼の牛丼はない。影か、目の前を走ったような気がした。真冬の外に出て凍えてしまえばいいのに。都会にそびえ立つビルの密集と同じ争いが桜の木の下で繰り広げられる。ブルーシートを開発した人はダイナマイトの平和を享受できるだろう。領土の取り合いを地球規模に展開して、桜の木の下で飲み交わそう。花と酒と、凡俗に。あとは牛丼を入れて、割り箸をこめかみに突き刺し、仕事の愚痴を餌に、同僚の粗を叩きに、人生をうわばみに飲み込んで、静かなコントラバスと共にフェードアウトしていこう。


 乱れる心は狂乱する単純な彼らと同じだ。浮かれた時候に体内が騒ぎ出すのだ。彼は月を見た。目の痒みがとまらない。明日はものもらい。夕陽色の電球色が遠くに光る。なぜあんな色に、桜が咲いているのだから、同系色のピンクにすればいいのに。ついで安っぽい人工香料の甘さを噴出すればいいのに。誰もが喜ぶだろう。美しい花だ、色だ、香りだ。誰も、何もわかっちゃいない。花を見て騒ぐのは驕り以外にはない。美ではない。醜の極みだろう。なぜわからない。彼は手をはたいた。おまえらがこうやって群がるから牛丼を食べるんだろう。金と時間の節約でしかない平板の食べ物を、こうやって食べるんだろう。桜の木の下で牛丼を食べても何の美味しさもない。徒労だろう。人生の無駄遣いだろう。生命の人工知能だろう。


 彼は下を見た。さきほどよりも楠の落葉は進んでいた。昼の暖かさがいつしか奪われ、川上からひんやりした風が吹いてくる。夜の迫りを、秋の実り、奉納の神楽観賞の経過と似た生きた空気の流れによって伝わってくる。良い季節であると彼は思った。自分だけが、この気温を、この賑わいを特別なものだと感じることができたらいいのに、どうしてこうも同じなのだろう。爪楊枝で削ぎ落とす虫の一匹として桜の木の下で空虚を吸っているのだろう。


 風は斜めにおりてくる。桜の木の下は人人で喚いている。桜の木の下のごみ箱は壊れた噴水のようだ。空き缶、ペットボトル、コンビニの袋、これの他に表現のしようのない凡庸なごみ箱の惨状に、紛争地の地雷を想起させられる。彼は牛丼のないことを悲しく思った。桜の木の下のスーツ姿には何の同情もなく、断罪するに一滴の慈悲なく裁断するだろうに、そこへたった一人の子供がいるだけで情状酌量が生まれてしまう。かわいいからかわいそうだ。こんな子供に無慈悲にやつあたりしたくなるのが、桜の木の下の立ち小便だろう。音量のぶっ壊れたラジカセのように、チューニングを間違えたラジオのように、傷だらけのコンパクトディスクのように、桜の木の下で雑音は毎春繰り返される。空がどこでも空であるように、海が海であるように、春の桜の木の下はいつだって、上野だって、奈良だって、近所の公園だって桜の下なのだ。


 マーラーの交響曲のように破裂してしまえと彼は思った。静けさを愛する者にとって桜はいつだって悩ましい存在だ。桜の開花は人生のごとく一筋縄にはいかない。嬉しくも悲しくも、楽しくも憎たらしくも、様様に心をかき乱す。大勢で騒げば、恨む風景の点景として、額縁に群がる小蝿になる。かといって桜に何の関心も寄せなければ偽りになる。静を好く者は嘘を嫌う。桜の散るのは早いなどと言う人がいるが、遅くて困る。彼は一気飲みする女の胸に視線を注いだ。半日で散ってしまうのがちょうど良いだろう。二日も咲いていたら、人人が群がって煩い。蜜を、埃を、愚かさを吸えないと悔やむくらいに華麗に散ればいいのに、どうしてああものんびりと、雨を待ち、ぶらさがっているのか。百円ショップでの買い間違いのように散ってしまえ。一年のほんのわずかな時に燃える恐ろしいまでの存在感で、季節にくさびを打ち、桜の木の下で遊ばせる余地など残さず、大人共を悔しがらせればいい。桜が開花したねぇ、そんな挨拶ではなく、桜が朽ちたねぇ、そんな挨拶で早春を迎えられればいいのに。


 彼は思った。牛丼はおいしい、時にはだ。桜は美しい。群がる人人はこの上なく醜い。桜の木の下で食べる牛丼はいかがなものか。風情がないだろう。美しくないだろう。しかしやけにしっくりするところがあるから桜の木の下は不思議だ。彼は知っていた。桜の木の下は何だって似合ってしまう。飲んだくれる人人、それを憎む独りよがり、うず高く積み重なったごみ、風に流れた楠の落ち葉、散った花びら、明け方の静寂とブルーシートの残骸、すべては桜の木の下に飲み込まれていく。美醜も、愚かで儚い人生の縮図が桜の木の下で毎春繰り広げられ、移ろいでいくのだ。

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