マリア・スザンナ

 ミッシェル・ベルナールの「マリア・スザンナ」を聴き、風のようにやって来て日常をさらったロマの少女について歌われた詩に、小学校一年生だったか二年生だったか忘れたが、昔日の自分が甦ってきた。間違いなく過去にあった出来事であり、心に強く残った記憶でありながら、三歳の時に筑波の科学万博に行きたかったのに連れて行ってもらえず、泣き叫び、その夜、姉からもらったパンフレットであろうものにピンク色した宇宙人らしき姿が描かれていて、青い瞳がやけに明晰で恐ろしい印象を受けた時の記憶のほうが、時間の質量としてははるかに体積は少なく、覚えはないくせに、実際に身に起こった出来事としての確実さは強いと思われる。女の子は「マリア・スザンナ」のように風変わりな姿をしていなかった。八十年代の日本の相模大野において人種の違う同級生を持つことは一度もなく、風変わりといえば肌の浅黒い子や、やけに体の細い子とか身体の特徴が少しばかり目立つ程度であって、今まで出会ってきた女の子のなかでも格別に自分の心を惹く顔立ちであっただけのことで、それが物凄く自分を驚かせた。ある日突然やって来たのはまったく同じで、教室の中央、前から四番目の席にいた自分は、一組の男女が隣同士に席を並べる当時の席順の規則から外れていて(タマタマ自分ノ隣ノ女子生徒ガ一ヶ月前クライニ転校シテイタ)、同じ性別の女の子といえどもこうも顔が違うものかと幼稚園から一緒の左側にいる女の子の顔を見比べて(ナンテ不細工ナ顔ナンダロウ)、初めて自分に沸き起こった激しい感情の働きを掴みきれずに、先生の横で表情を変えずに立つ白いブラウスと赤いタータンチェックのスカートの睫毛の異様に長い女の子を凝視した。すぐに自分は考えた(モシカシテ、自分ノ右隣ノ席ハ空イテイルカラ、アノ女ノ子ハ……)、おそらく、物心などない赤児でもこういった自身にとって有利に働く可能性の高い材料を見つけて先を想像することはできるのであって、想像力を持たない獣もこういう危機に似た場面を直感することができるもので、この感覚を押し広げて機能をさらに発達させたものが想像という脳の働きであろうとたやすく結びつけるくらいの安易さで考えた数分先の未来は「じゃあ、高井君の横の席が空いているから、その席がいいかしら」、策略をめぐらした結果でもないのに、まるで初めて大きな嘘を突き通した喜びに自尊心は満たされ、自分が賢く、偉くなったような気がして、隣の席に花瓶でも置かれているわけでもないのに、その花瓶を優しく持ち上げるだけでなく、校庭へ走って行き、花壇に植えられているであろうチューリップを活けて、転入祝の贈りものとして差し上げたいなどと考えるような暇はなく、ただ喜悦に爛れた感情をかすかでも漏らさないように無表情に努めないと、少しの傷で破裂する風船に膨らんだ心が保てないだろうと、おならを我慢するように堪えていると、転入生の女の子が自分の方へ歩いてきて、わずかに自分の顔を見たらしいが(トテモ顔ヲ見テイラレズ、すかぁぁとカラ突キデタコノウエナイ美シサノ足ヲ眺メテイタ)、隣の席につく女の子の気配を香りを頼りにして全神経で感知していた。その香りはすでに大人の女性と同じであり、こういう美しい子はこのような芳しい香りを発散させてしまうものであって、鼻水がどうしても垂れてくる鼻炎性を備えた自分の団子っ鼻のような生まれつきの特徴であるらしく、計算することはおろか、この先どのくらい生きるのかとてもわからず、遠い先のことはとりあえず置いといて、永遠の命を今は楽しむだけという気構えをなぜか持ちながら、極度の緊張に全身は強張っていると「じゃあ高井君、女の子(名前ナド覚エテイナイ)さんのわからないことを教えてあげてくださいね」、竿を差し出されたので、先生に多大な感謝を抱くのは十分後、声にもならないどもった声で返事をした。


 その一時は全て作り話ではないだろうかと、「マリア・スザンナ」を聴き返して三度目の、いわゆるサビと呼ばれる箇所の、トラックでワルシャワからサラゴサへの歌詞を味わいながら考えた。それと同じ程度の不確かさで記憶に疑念を抱いている。あまりに大きい差異を感じた恋の癇癪によって発作的な衝動で赤い靴が踵の短剣を地面に繰り返し突き刺すステップを踏み、切れ味良く豊かなスカートの裾が土星の輪を素早くローラーコースターに回り、おでこに細く深いキズを負わせ、粘性のない血が花粉に狂わされた鼻水のように瞼にかかる。ロマとユダヤが入り混じる。カスタネットがなかなか見えてこなくて、貧乏人のピアノと誰かが言っていた楽器の音色は、冷たい中世からの石畳をスピーカーにして各各の町の調子に合わせて物悲しく鳴っている。気を緩めるとコーカサスの踊りにも見えてしまう。野獣派のフランス人による赤い人々が輪になって踊る絵は固定されたまま拡大されていくと、エルサレムのヤド・ヴァシェムの入口近くのビデオ展示で流れていた映像に変移して、色は失せて白黒となり、哀愁を帯びたクラリネットのメロディーに合わせて子供たちは手を繋いで回転する。イスファハンのアルメニア人居住区のジョルファーでのザクロを宙に浮遊させているのを目に映すと、ついでフェズのメッラーフの民家に潜むシナゴーグが丘に広げられて干されているなめし革の臭みと混在し、アランフェス宮殿を対岸に見る地区の坂道から広大な大地を埋め尽くすオリーブ畑の乾き、クラクフのカジミエシュ地区の広場で緑黄色のザピエカンカを食べる為に並ぶ人々の雑談、クリームチーズをたっぷり挟んだ少し大きめのキッパーを被るニューヨークベーグルがこしのある食感で前歯に食い込まれると、上野のインド人が長いナイフでケバブを削ぎ落としながら砂漠のラジャスタンの暑さは「まじやばいね、まじやばいね」と首を横に傾けて話すから、灼熱の太陽がむっと耳たぶから火照ってくると、その日の国語の時間に、机と机の隙間に、中世の西洋人が着るミ・パルティの身頃を分かつ挾間に置かれた二弁の教科書は、鏡の役目をはたして、互いの視線を屈折させることなく正確に反射させているのだと、字なんかとっくに消失して、鏡面にすぎない紙細工の眼鏡橋なんだと、先生の話す声なんか聞こえやせず、鼻腔でその香りを、鼓膜でその呼吸を、皮膚でその発汗を感じることだけに集中していた。


 まるで眠りこけてしまった長距離バスのように途中の景色が見えない。誰かが言っていた、小説を読むにあたっての姿勢について。話の結末ばかりを追うのではなく、その過程を味わうところに小説を読む面白さがあるという。一つの章を一つの町とみなしたり、一つのセンテンスを一本の路地、一文を一つの店でのウィンドウ・ショッピング、一字をその町に昔からある家の外壁の一部など、あてはめ方は無数にある。では、幼い自分は結末ばかりを見て、途中を何も味わっていなかったのだろうか。そんなはずはない。だが、まるで何かしらの不慮の事故に遭遇したように(マサシク事故ト同ジ衝撃ナノダガ)、事故前の景色と目を覚ました直後の記憶が糸電話のように結びつき、たしかに物語は細い糸によって連結しているにしても、その張りつめた線に老後にも楽しめるはずの淡い思い出があるはずのなに、友人が赤玉と呼んでいた何の成分によるかわからない赤い錠剤の薬物を飲み、クラシックコンサートを尋常でない感覚で観賞しようと臨んだら、前半の協奏曲第一楽章冒頭で眠りに陥り、後半のプログラムが終了したばかりの壮大な拍手の中に目を覚まして狐にだまされた気分でアンコールをぼんやり聴くような残念な時間の連続と同じ形状によって、たしかにその場に存在してはいたものの、感覚がまったく働いていなかったのだろうか。悪い夢なら脳に残るだろうに、良い夢だから残っていないのだろうか。おそらく、記憶は盗まれたか、とある動物にでも食べられてしまったのだろう。


 「マリア・スザンナ」は同胞の中にいる場面を歌っている。これは追憶の歌であり、自分自身もこれを触媒に追想に浸っている。見知らぬ同胞達にとある小説の場面があてはまる。バルベック。ロマではない歴史的な民族の友人の家族からの印象が綴られる場面だ。日本人の自分からは遠く離れた歴史は教科書で習うも、何の想像も生みださない。田島昭宇の漫画に出てくる登場人物の別名にその民族の名を初めて見て、意味も知らずに強烈な言葉の響きが残り、自分が成長して色色と歴史を知っていくと、その民族がいたるところで関わりを持ち、この世において、この民族というか、この宗教は一体何の役割をこの世界ではたしているのだろうかと、深遠かつ及びもつかない神のように決してひとひらのヒントももらえない存在の寓意として歴史を刻みつけるその民族の大虐殺の背後には、おびただしい「マリア・スザンナ」が……。


 三ヶ月間か、半年間か、白いブラウスの女の子は転校することに決まっていた。「マリア・スザンナ」のように口をきかずに手をつなぎ、女の子の家へ行き、家族に会い、手を振ってお別れする記憶が残っていたらよかったのに、場面はすぐに結末へとつながり、脈脈と、長長とした話を喜ぶ類の人間を満たすことはできず、カレンダーを手に入れたその日に一年を終えるような人間の為の思い出として構成された記憶は、やはり歴史的書物に登場する二百歳を超す寿命の登場人物のごとく誇張されているのだろうか。女の子を見送る日、たまたま別の女の子も転校することになっていた。自分の左隣にいた幼稚園からの同級生だ。近所に住んでいて、なんら緊張することなく話すことのできた女の子だ。母親の利用していた生協でその女の子の親も食料品を購入していた。家もよく知っている。寂しさはあっただろうか。ないわけはないが、どうしても記憶が抜けている。ただ、転校する女の子の為に何かを必死に作った記憶がある。おそらく、先生が女の子達の為を想って出した課題だったのだろう。色、形、匂い、一切の手がかりを持たない喪失した贈りものは見えないが、お別れ会に向けて努力をしたという、今度は都合の良い過程の記憶が残っている。彼女達のお別れ会はどんな進行だったのかわからないが、近所の女の子に何の誠意も込めていない何かを渡したあとに、消え去る好きだった女の子に贈りものを渡して「……」と、何を言ったか定かではないが、感情を微かにさらけ出した言葉を口にしたのをはっきりと覚えている。修辞技法だ。女の子はたしか、表情を変えず「ありがとう」と言った。笑顔を見せないでくれてありがとうと、今ならくさく感謝するだろう。


 記憶は偉大だ。日日改ざんされて人人を惑わす。海にでも放り投げた記憶は、微生物が付着し、暖かければ珊瑚に、寒ければ海藻に覆われてしまい、年月を経て、ふとしたことで引き上げられれば、昔とはうって変わった形で眼前に出される。「マリア・スザンナ」も牡蠣殻に包まれて、螺鈿細工の光沢に光り輝いてしまったのだろう。

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