噛み煙草

 ハリドワール駅の構内で一晩を明かした。インド人達の就寝風景に混じってバックパックを枕にし、昼の余熱の残る硬い地面に横になり、布で頭から爪先まで覆って東洋人と気づかれないように眠った。気分は良いが疲れはとれない。朝一番の列車に乗り、少年時代のガンガーに近づくべくリシュケシュへ向かう。埃の蠢く朝の車内は狂気に満ちる昼の混雑を一片も感じさせないのどかな平穏にある。窓際の席に着き大麻を三服だけ吸い、窓に煙を吹く。インド人が来ても別に注意されることはないだろう。多種多様の我執を驚くべき角度で見せてくれるインドにあっては東洋人が車内で大麻を呑んでも特段珍しいことではないと高を括る気持ちを根拠に、目を泳がせてそわそわしていると、やはりインドだ。両足のないサドゥーがやってくる。まな板を二回り程大きくした物を持参し、ホームから車両に移動する際の橋渡しに使い、自分以外誰一人いない車内を見回して、無表情で自分の存在を確認すると、やはり、わざわざ自分の方へいざり寄ってくる。筋繊維の密集した細い腕で席によじ登り、自分の正面に座ると、澄んだ大きい眼で表情を崩さずに観察して、質問の常套句として、おまえはどこから来た、仕事か、と尋ねる。少しもひねりを入れない答えを返すと、足のないサドゥーはポケットから噛み煙草を取り出しながら、わたしは昔埼玉にいたことがあると、予期せぬ言葉を返してくる。笑いもせずに見つめる顔には、日本人が驚く返答をしたことを面白がっているのか、日本に縁のあることを伝えて、わたしはあなたの国を知っているんだと誇示しているのか、それとも嘘か、表情からは何も読み取れず、サドゥーという修行者自体が旅行者の日本人にとって謎であるばかりか、足のない、埼玉にいたことがあるという謎が付け加わり、深まるのではなく、謎がそのままの形を変えずに自分を変えた。自分とはかけ離れた人生の一端に触れて、相槌を打つだけで話の展開もできずにいると、噛み煙草をくれた。普段なら警戒して断るが、見よう見真似で口に入れてみると、十分後には強烈なニコチンの作用が、まるで新しい薬物の悪さで心身に影響を与え、大麻による浮遊感はより増幅されて、魂からの気持ち悪さは生物としての自覚を失わせる程に達し、心地良いはずの列車の揺れは最悪の作用を心身にもたらして、人目も憚らずにベンチシートを横に独り占めする他なかった。一秒一秒が死闘として意識の中に留まり続け、泥酔と同じ後悔を覚えつつ、ふと目を開けば、足のないサドゥーが心配そうに見ている。心の底から作り笑いをして、あとは意識の底へ。終点のリシュケシュに着いたが、心身は酷い状態のままだ。何とか荷物を背負って車両の外へ出れば、朗らかな午前のホームは健全な陽の光に溢れているので、空気を掛け布団として倒れこんだ。気づけば全身に蠅がたかっている。百匹近くいるのでは。彼らにしてみれば本能により死の香りを嗅ぎつけたまでのことで、確かに蠅に狙われても文句の言えない状態だ。荷物は無事だ。どれくらい眠っていたのだろうか。陽射しの優しさは変わっていない気がする。少しは動けるが、十メートル歩くだけで体力の限界を感じてしまう。陽射しに導かれるように駅の外へ出て、黄と緑のオートリキシャをつかまえる。野宿する程の節約を心がけているのに、相場通りの額で宿を案内してくれるという。他に手段はない。インドはどこにいても、牙を剥ききらない太陽の午前中は優しい時間で包まれている。リキシャは自分の身分にそぐわない中級の宿に到着する。気を利かせてくれたのだろうが、自分を見抜けなかったドライバーに怒りなんていう感情をまったく覚えず、笑いしか浮かばない。他に宿を探すにも、急な坂道を下りなくては。ちょうどその時、西洋人と一緒に眼の細い日本人女性がやってきた。他に宿がないかと尋ねれば、忌み嫌うような目つきと態度だ。みすぼらしいからか、同国の人間に対して同情と慈悲がない。気力だけで坂を下り、青いガンガーが見えた。心の命じるまま川岸に下りて、顔を洗うと、血がついている。鼻にできていた腫れ物が破けて、血と膿が吹き出ている。ああぁ、流れる。すると垢と埃にまみれた髪の女の子を連れて女性が自分の所へ来る。金をせがむのかと思えば、娘の髪をきれいにしたいから、シャンプーをくれとのこと。こんな時になんておねだりだ。すべてを放棄した者の笑い声をあげて、自分も髪の毛を洗うから全部はあげられない、半分ずつだと言って、差し出してきたコップに適当な量を出す。眼の綺麗な母子は嬉しそうに感謝して去っていく。まったくなんて日だ。さあ宿をどうやって見つけようか。全身に疲労と痛みを感じつつ荷物を背負うと、どこにでもいる中年のインド人男性が、ありがとう、と自分に声をかける。はたして今日は運がよいだろうか。インドはわたしに全てをゆだねてくる。

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