ノズル

 今日もクロールで三十分間泳いでから、短い休憩時間を挟み、平泳ぎで四十五分間泳いだ。水中にいると脳に直接音が響くようで、自分の息遣いをより親しく感じられて、機能的な働きを持つ一つの生物だと確認できる。


 魚はなんて羨ましい生物だろう。自由に大海を泳ぎ回れる、重力を感じずにいられる、滋味の含んだプランクトンを食べられるなど……、魚だからこそと思える点はいくつかあるものの、常に自分の呼吸の音を聴いていられる状態、それに勝るものはとても考えられない。


 魚には聴覚があるのだろうか? 肺呼吸ではないから、もしかしたら鰓の動きがむず痒く、卵から孵化したその時から水の通りに苛まれるかもしれない。


 泳いでいる間は一人でいられるので、貴重な瞑想時間を取り留めることのない疑問に費やすことが出来る。陸に戻ればその疑問を思い出すことはなく、そのようにわたしが意識しているのもあるが、パソコンで調べようとも思わない。魚をイメージして泳ぐことはせず、わたしをイメージして魚が泳ぎ、その感触を隅々まで味わって分析しつつ、人体における魚化現象はいかなるものであるかを頭に頼って細かに組み立てていく。


 まず思うことは、髪の毛が邪魔、次に爪が鬱陶しい、そして視界が悪い。


 プールから上がり、男子更衣室に入ると、けたたましい笑い声が響いていた。陸上に戻ったわたしは水中での妄想と推測から切り離され、一切の空想世界に怯えて目を逸らし、全くの現実に逃げてしまう。笑い声は男の声、パートは低音、ビブラートのない一本調子だから、相当に不吉な印象を受ける。


 声のする場所を突き止めて、さっそくわたしは確かめに向かった。薄緑色のカーテンの開かれたシャワールームには、日本人の平均身長をそのまま現にした男がシャワーノズルを見上げ、両手を上げ、笑い声に合わせて頭を小さく振っていた。後ろ姿からの印象では、顎の外れた黄ばんだ骸骨が思うままに動かない下顎を楽しむように、かっちかっち揺すり鳴らしているようで、とても理知を感じられない。もしくは、二十年間刑務所で過ごしていた陽気な男が出所して、晴れでも雨でもない曇天を見上げて、中途半端なこの瞬間こそ自分の人生にふさわしいと、高らかに笑いあげているようでもあった。


 男の肌は濃厚、身は引き締まって筋は太いが、体の部位が均一に揃わず、背中はぶ厚く肩の盛りあがりに欠けているくせに、二の腕は逞しい。肘から先はアイスピックのようで、とにかく尻が豪勢に大きく、弛みかたも凡俗ではない。熱心に水泳をする者にはとても作りあげることの出来ない体であり、正常に近い審美眼を持っている者に必ず不愉快を加えるものだ。


 わたしはこの男の尻の割れ目を見て、もしシャワールームの脇に鉞が据えられていたなら、顔を顰めるよりも早く、その太くて圧倒的な物を下から振りかぶり、誰もが感嘆する正確さでさらに割り深めただろう。 


 長さの揃わない緑色の長髪がその不細工な腰に垂れて、ノズルから飛び出す水を同じ色に染めている。洗っても洗っても水を汚す洗濯物なのか、その毒々しい緑は眼に優しさを与えず、大地を埋める豊かな色と同じ性質を持っていても悪いはずはないのに、まるで腐った紫のようだ。


 さらに頭部の中央にぽっかりした禿げがあり、その頭皮には蛍光ピンクのマジックで女の顔の絵が描かれ、やけに線は細かく、垂れる髪の毛は女の鬚を成している。鬚があるのに女の顔と思うのは不思議だが、わたしはかすかに勃起したのだから、信頼する体に正直応えてあれは女の顔だと断言しよう。さらに言い訳させてもらえれば、水中では男の顔に反応する自分も、地上に出ればまっとうな女好きに戻る。


 連続するシャワーの音の上にこもる男の笑い声は踊り、慎み深さではなく、大胆に隙間を覗くむっつりした印象を与える。なんて普通じゃない奴なんだ。


 男はわたしの気配に気づいたらしく、わずかに肩を震わせてから、ゆっくりわたしに体を向けた。右目は一重、左目は二重、そのくせ右の眼球が大きく、瞼のうえから容量を超えた体積の厚みを感じさせ、不器用な飴玉が今にもこぼれ落ちるのでないかと心配させる。鼻骨は以前に折れたことがあるのか、心持曲がって見える。体毛は薄く、肌はがさがさしていて、中央アジアの地表のように荒涼としている。そして性器はシャープペンシルの芯ってところだ。癪な男め。


「何を笑ってやがる!」 


 口での言い争いはわたしの得意とするところだが、生身の殴り合いとなるとてんで弱くなり、今までも一度だって人と殴り合いはしたことがないのに、なぜかこの男の前部を見た瞬間に腕を振り回したい欲求に駆られた。まず顔面、次に鳩尾へ、そして腐った陰部を思い切り殴りつけてやりたい。これほど暴力欲を喚起させる人間は珍しく、この男を徹底的に打ちのめして、中学生の使う言葉通り半殺しにさせてやりたい。理由はわかりやすく、ただむかつくからだ。


「ははは、ははは、ねえ、これ見てよ! これ、猿に見えない? ほら、猿の顔そっくり! ここがおでこでしょ、ここが顎でしょ、この点々が目と口でさぁ、老け込んだ雄のニホンザルに餌のバナナを差し出して、いきなりやせ細った狡猾な雄猿に奪われたんだよ。かわいそうに、こんなきょとんとしちゃってさぁ、怒って喉元に噛みつきたいけど、なんせ歯がすでにぼろぼろでしょ、それに顎の力も弱まっているでしょ、噛みつくだけの瞬発力も失われているでしょ、だから老いた雄猿はこう考えたんだよ、『うきぃ、うきぃ、うきぃ』あっ、今のなし、ちょっと発音を間違えちゃった、めんご! 『うきぃうきぃ、うう、うきぃ、うう、うう、ううう』だね、もうシンメトリーってな具合でさぁ、行動意欲は底に潜んでいるんだけど、いざとなると行動できない。それは重ねた年のおかげで、また経験のたまもので、金玉がしわくちゃに地面に垂れ下がっているんだよ。わかる? 大きい偶々さようなら、未練は垂々ごちそうさま、バナナはとられてうっきっきぃ! ははは、悲惨な猿だよ、だからこんな顔して、目鼻口をはじめに、顔中に突き刺されたあらゆる毛穴から、憤りと嘆きの水を噴き出し、こうしてシャワールームの壁にもたれて、プールからあがった塩素まみれの人間の体を、悲哀の涙で洗い流しているんだよ。わかる? 豪勢なシャワールームだよ? プールからあがった人間はまずうつむいて、萎れた男性器に目をやり、笠に手をかけて先へ引っ張る。性器はとてもひんやりして、血の気を求めて摩擦を繰り返す、っていうのは自分のことでね、哀切のシャワーを浴びながら、バタフライに疲れた筋肉の火照りとは裏腹な冷たく縮んだその生命力を、卑俗な股間をしごいて蘇らせるんだ。老けた猿はそれを見て、シャワーの勢いを増して温度を下げるんだ。そう! 水の勢いが弱いんだよねここぉ、だから若さを見せびらかして、老けた奴に無情を思い知らせて、枯れた心身に経過の速度を加えるんだ。老けたら逆らわずに嘆いて、しぶとく生にしがみつくべきだ。そうすればこの猿のように、人々の役に立って、こうしてプールからあがった先行きの輝かしい張りのある若い人々に、さらなる潤いを与えることになる、ははは、ふぉらぁ、お猿さん今の話を聞いて、水の出を良くしちゃったよ、ふぉらぁ、水をなめると……、うん、甘いね、胸奥かろうじて残っていた甘さも、みんな進んで出て行ってしまうんだよ。だってさぁ、ありようもない過去の遺物を期待して身の内に蓄えていても、なんにも意味がないからね! いや意味ないは言いすぎだね、悪い意味しかないね、甘さに悔恨の蟻が群がり、気持ちは酷く沈むだけだからさぁ、この猿それに耐え切れず、甘い汁をぺっぺぺっぺと吐き捨てる。苦味だけを胸底に残して、辛い残りの人生を悲観と一緒に呪っていくんだね、ああ残酷! バナナ一本取られただけで、この駄猿は女々しく泣くこともできずに、腑抜けた老人気質に慰められ、欺かれ、おいおいと佇むだけなんだ。もう血のシャワーも出てこないよ、意志を含んだ熱い血潮はとうに動きを終えて、湖水の冷たさに変わったくすんだ藻色に染まっているか──」


 気づけば、渾身の力をこめて男の顔面に拳を叩きつけていた。ノズルが猿だかどうかわたしは知らないが、老いたものを悪く言うのは許せない。この野郎、錆色の鼻血を流して、静かなシャワーに温かく洗われているじゃないか。

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