第37話 特別なハンカチ

 背後にはハンカチを鼻にあて、必死に匂いを嗅ぎまくる明らかにヤバい女がいる。

 少なくとも俺からそう見える。何も知らない人なら汗を拭こうとしているように──は、やっぱり絶対見えない……。


(それと、やっぱりストーキングは始めるんですね……)


 ハンカチに意識の八割は向いていそうで、その表情はかつてないほど恍惚としている。

 ──が、視線だけはしっかりと目標ターゲットを捉えている。


「なんか普通に怖いんですが……」


 通常のストーキングなら、バレないよう(バレてる)に慎重かつ気配を消して(消しきれない)いるのに対し、今はもろバレどころか、何とも言い難い危険な雰囲気を纏っているのだ。

 経験がないので想像の中だけの例えになってしまうが、今の音無は……如何わしいお店でご休憩に入ろうとしているような? そんな雰囲気を醸し出しているような……。


(気のせい……じゃないな。俺のハンカチこれからどうなっちゃうの!?)


 イケナイ妄想が頭に浮かび、慌ててそれを振り払う。心なしか、下半身のナニが元気になったような気がしたが……。きっと気のせいに違いない。


 大体堪能した音無は、興奮冷めやまぬ状態でありながらも我に帰り、ハンカチを何処からか取り出したジップロックにしまった。

 マラソン大会で何故ジップロックを……。


 そして平常心を取り戻した音無は、今さらながらコソコソと尾行を続ける。

 その後は特にこれといった動きはなく、俺たちは完走した。


 ◆◇◆◇◆


 マラソンが始まった時は、すっかりモチベーションが下がり切っていた。いつも通り観察しようと背後でスタンバイしていた筈なのに、その観察対象を見失うなんて……。


(ふふふふふふ……。でも、まさかそれが幸運を呼ぶなんて思わなかった)


 後ろから話し掛けられた時は、飛び上がりそうなほど驚いた。実際、はしたなく叫び声を上げてしまった……。


(パニックで我を忘れちゃった……)


 思わず抱きついて、隙間なく密着する事になった。自分でもどうしてそんな行動をとったのか分からなかった。


(お陰で……。とっても濃厚な汗臭さが楽しめちゃった……)


 嗅いでいい……ではなく、深呼吸するよう促されて素直に従った。二度目で甘い美酒に酔い、何度も何度も嗅いだ。普段の三倍……四倍は熟成された甘美の香りは、落ち着いた心をざわつかせ、別の意味で我を失った。


(そして、このハンカチ)


 汗がたっぷり染み込んだハンカチ。

 本当なら、シャツかパンツが欲しいところだったが、流石に拒否されてしまった……。いっそ、大会が終わった後盗んでしまうか。


(でも……バレちゃう……)


 今さっきの言動を思えば、すぐに犯人の正体を突き止められてしまう。それ以前に体操着を死守するために警戒を強くするだろう。


(体操着一式……欲しいなぁ……)


 邪な欲望が後から後から膨れ上がる。

 今まではこっそりと匂いを嗅ぐだけで良かった。けれど、あんな濃厚な汗は来年まではお預けになるだろう。


(もっと欲しい。もっと……もっと……)


 貰ったばかりだけど、既にハンカチだけでは物足りなくなっている。もっと濃くてジューシーな部分を求め、体が勝手に火照る。

 マラソンの疲労とは関係なく、息が少し上がっていく。


(回収しなきゃ、回収しなきゃ、回収しなきゃ、回収、回収、回収回収回収回収……)


 狂ったように同じ言葉を反芻する。

 思いは誰よりも強いと自負しているけれど、実行するにはリスクが非常に高い。少なくとも今年は──だが来年までは待てない。


(うん、例え疑われても……。怒られたとしても……やるしか、ない)


 ◆◇◆◇◆


「とか思ってるんだろうなぁ……。あの雌猫のことだから」


 一連の会話……殆どお兄ちゃんの独り言のようだったけど、何があって、どうなったのかは手に取るように分かる。


(流石は高性能な望遠鏡。お兄ちゃんの様子がよく見える!)


 先にゴールした私は、高校の屋上から二人の様子を監視していた。何故、屋上にいるかと問われれば、最近購入した高性能望遠鏡の実証実験のため。

 結果は言うまでもない。


(口の動きまでハッキリ見える。本当は盗聴器を仕掛けたいところだけど……)


 激しい運動をする場合、服から転がり落ちてしまっては非常に困る。


(盗聴器って、意外と高いんだもん……)


 お兄ちゃんを発情期の雌どもから守るためには、いくらお金があっても足りない。だから、あまりその秘密道具を失くしてしまうような事があってはならない。


「さーてと。あの女……お兄ちゃんに抱きつくなんて卑劣な……」


 あそこで抱きつく必要性は全くなかった。だというのに、あの女は……。

 そして、私にとっての嗜好品も──。


「そして……。あの女、普段は臆病なビクビクうさぎの癖に……」


 たまに驚きの行動力を見せる。

 例えば始まりの体操着くんかくんか事件や、ほぼ初対面で膝上に座った時。


「その妙なスイッチが入る瞬間。それは極度の興奮状態になった時だよね。──そこに、あの女の変態的な思考回路を再現し、次に何を思うか想像すると……。

 十中八九、ハンカチ以外で濃厚な汗を吸収した衣服を手に入れようと画策するに違いない。何故なら──私が、あの女ならそうするからね……」


 思考回路が似通っているのは不服だけど、これは確信を持って言える一つの真実。


「させない……っ! あれは……私だけのものなんだから……ッ」

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