第187話 迷い(2)

「傷、痛む?」


自宅療養になった母の床を整えながら萌香が言う。


「ま、痛いけどな。 しゃーないわ。 ばっくり切ったんやから。 でも、医者がな、寝てばかりやとアカンて。 家の中で少しずつ動くようにって言うねんで。 ほんまにトイレに行くだけでも大変なのに、」


母は苦笑いをした。


「少しずつね。 急に動くと疲れるし、」


萌香は洗濯物を畳んだ。



「なあ、萌香。」



「え?」



「・・あたし、こっちで仕事なんかできるやろか、」


「お母さん・・」


萌香は驚いて母を見た。


「スナックで働く前は、芸妓の置屋の下働きもしてたことあんねん。 ま、楽しい仕事ではなかったけど。 今までしてた仕事よりマシかもしれへんし。」


「・・どうして、そこをやめたの・・」


「給料安かったから。 二人じゃ生活でけへんやん、」



母は笑ったが、自分を引き取るためにそうしたことが


わかってしまった。




私の


ために・・



萌香はぐっとこみ上げるものがあった。





一緒に暮らしていた頃は


母に感謝なんか一度もしたことがなかった。



むしろ


憎んで蔑んでいた。



しかし


生きるために


母は必死だったのだ。





「それで、住むトコも探したいんやけど、」


「清四郎さんが、このマンションに空きがあるからどうかって、言うてくれてん・・」


萌香はちょっと鼻をすすりながら言った。


「ここに?」


「うん・・そのほうが安心なんやないかって、」


涙を母に見られないように背を向けた。



「それは・・でけへんな、」


母はポツリと言った。


「え?」


思わず振り返る。



「まだまだ・・あんたらに世話にならないように。 生きていかないと。 もっとばあちゃんになったら・・わからへんけど。」


母はふっと笑った。



「でも・・」



「ええねん。 部屋探すのだけ手伝って。 ここじゃあ、家賃も高いやろ。 もっと相応のトコ、住むわ。」



「お母さん・・」


萌香は胸がきゅんと痛んだ。




「え、お母さんが?」


家に戻ってきた斯波はその話を聴いた。


「うん。 遠慮してるとかやなくて・・そうしたいみたい。」


「そっか。 なら知り合いの不動産屋紹介するし。」


「とりあえず、1ヶ月くらいここにいてもええやろか、」


「いいに決まってるだろ、」


斯波は微笑んだ。


「・・ありがとう、」




こうやって彼女に礼を言われるたびに


二人の間に距離があるようで、斯波は少し切なかった。




「・・お母さんのことが落ち着いたら、少し早いけど、来月くらいに夏休みもらって。 沖縄に行こうか、」



斯波の言葉に


「・・沖縄・・?」


「オフクロが来いってうるさいからさ。 今日も昼間、携帯に電話があって。」


「・・そう、」


萌香は優しい瞳で頷いた。





萌香は少し落ち着きを取り戻したようだった。


斯波はそんな萌香にホッとしながらも、彼女に対する愛しさが胸いっぱいに広がった。



おれの子供が欲しいなんて


彼女がそう思ってくれていると思うだけで


恥ずかしいような


嬉しいような


何ともいえない気持ちになる。




男として


こんなに嬉しいことがあるだろうか。



彼女の気持ちに


応えなくては


ならないんだろうか。





同時に悩みにもなった。

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