第95話 悲哀(3)

十和田は突然家に帰ると言い出した。


主治医に了解を得て、3日だけ萌香のいるマンションに戻ってきた。


萌香は彼のためにベッドを整える。


「きちんとお休みになっていてください、」



「ああ・・いい。 気を遣うな。 おまえと一緒にいたくて・・病院から出てきたのに、」


そっと彼女を抱き寄せた。



そして彼女のシャツのボタンを外そうとする。


「ダメ、です・・」


萌香はそれを遮るように手をやった。



「・・抱かせてくれ・・もう、最期になるかもしれへん、」




その言葉に


胸がきゅんと痛くなる。



「そんなこと・・言わないで下さい。 お体に障ります・・」


「もう・・どうなってもええねん。 おまえを抱いたまま死んでもいい!」


十和田は必死にそう言った。


「そんなんしないでください! そんなんして死なれるなんて・・私はイヤです!」


萌香は涙をこぼして必死に言った。



「萌香・・」



彼女から


ハッキリと拒否をされたのは


こうして過ごすようになって初めてのような気がした。



「・・私なんかのために・・命を捨てないでください! 奥さまがいらっしゃるやないですか! 私のことを知っても文句ひとつ言わずに、耐えてきて・・私よりも大事にしないとアカンのと違いますか? 私は・・逃げませんから! あなたの前から逃げません!」


彼の腕を両手でぎゅっと掴んでそう言った。



「どこにも・・行きません・・から。 私はもう帰るところなんかないんですから・・」



萌香は大粒の涙をこぼした。



そう


もう・・


きっと帰れない


あの場所には・・





萌香のことを知らされた事業部のみんなは彼女の分も誰もグチひとつ言わずに仕事をした。


彼女は


ここで一緒にがんばっていける仲間だと


きっとここに戻ってくると信じて。





斯波も


あれから何度も萌香に電話やメールをしたが、もちろん何も繋がらなかった。


それでも


志藤の言葉を信じて



彼女を信じて


絶対に


彼女を守る、と決心したあの気持ちは


今も変わらない。




きっと


また会える・・


いや、会う!



そう決意していた。



志藤は敦子と会って事情を知り、全てのことが一瞬にして辻褄が合うような気がした。



きっと


解決できる。



そう思いつつ


十和田の命だけは


どうすることもできず。


何ともやりきれない気持ちだった。





南は志藤からそっとしておくように、と言われたのだが


やっぱり心配で、毎日1回は彼女のところに電話をしてみた。



しかし


やっぱり出てくれることはなく。




ところが、ある晩いつものように掛けてみると、なんと呼び出し音が鳴っている。



え?



だいたいいつも電源が切られているのでそうなることもない。


10回ほどコールした後、


「・・もしもし、」


萌香が出た。


「もっ・・萌ちゃん? あたし、南だけど!」


思わず声が大きくなってしまった。


「・・ほんと・・ご迷惑を掛けてしまってすみません、」


小さな声で萌香は言った。


「そんなの! いいから・・。 あ~、よかった。 元気なんや、」


心からホッとした。


「志藤ちゃんから・・聞いたから。 萌ちゃんがいまどうしているかってことや、十和田って人のことも、」


「・・そう、ですか。」


「みんな・・萌ちゃんの分まで頑張るって言うて。 あたしも。 だから・・」




『早く帰ってきて』



と言いたかったが。


一人の人間の命の時間を思うと


それも言えずに。



「待ってるから。 萌ちゃんが納得して戻ってくるの、」


南は静かにそう言った。


「・・南さん、」


こうして声を聞いたりすると


心が揺れそうになって。




いつも電話も拒否していたけれど


なんだか一人はやっぱり寂しくて。


萌香は、はらりと涙をこぼした。



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