第93話 悲哀(1)

十和田は萌香の手をぎゅっと握った。


「おまえには・・何も遺してやれそうもないな、」


「そんなの・・私は何もいりません。 なに、言うてるんですか、」


「おれが死んだら病院のことや仕事のことは全て妻に任せる。 子供のいない私たちには・・何も遺すものはないし、」


この人の子供を


2度堕ろした。



産んでいい、と言われたけど


それだけは絶対にイヤだった・・


一生、この人に囲われるのはイヤだった。



逃げようと思えば逃げられる。


斯波の元に飛び込んでいこうと思えば、もう行けるのかもしれない。



だけど


やはりそれはできない気がした。





志藤はこの前のディレクターに頼んで、十和田敦子とコンタクトを取ろうとテレビ局に行った。


「十和田先生、」


志藤は料理番組の録画撮りを終えた彼女を見つけ声をかけた。


「おいそがしいところ、申し訳ありません、」


突然、知らない男に声をかけられて、彼女は少し驚いていた。


「あなたは・・」


「失礼いたしました。 私、ホクトエンターテイメントのクラシック事業本部の本部長をしております、志藤と申します。」


と笑顔で名刺を差し出した。




「ホクト・・」


敦子は少し顔をこわばらせた。


するとマネージャーの女性が、


「先生はこれから講演会の打ち合わせがありまして、」


と志藤から遮ろうとするが、



「30分でいいんです。 お話があります。 お時間をいただけませんか?」


志藤は必死に言う。


敦子はため息をついて、


「打ち合わせの時間までには行きます。 あなた、先に行っていてちょうだい、」


マネージャーにそう言った。




二人はテレビ局内にある喫茶店で向かい合った。


「・・栗栖萌香さんのお話でしょうか、」


彼女からそう切り出されたことに驚いた。


「え・・」


「ホクトの方が私に話があるなんて・・それしかないんとちがいますか?」


敦子は冷めたようにふっと笑った。


「実は・・いろいろありまして。 会長のご病気のこともききまして、」


「・・主人はもう長くありません。 もってあと3ヶ月と言われています、」


「3ヶ月・・」


具体的なそのリミットを聞かされて、志藤はドキっとした。


「どうしても彼女を手元に置いておきたかったのでしょう。 無理に彼女を東京から連れ戻したようです、」


コーヒーに口をつけた。


「・・あの子のことは。 主人とつきあうようになったころから知っています。 あの人はああ見えてそれまでは女性にはきれいな人でした。 浮気なんか一度もなく。 だけど・・彼女にどんどんのめりこんでいくのがわかって、」


敦子は視線を落とす。


「失礼ですが。 奥さまは二人を別れさせようとは思わなかったのですか?」


「もちろん・・妻としては屈辱でした。 だけど・・私には何も言えない、」


「え・・」


「主人に・・女がいるらしいと感づいて、その女性のために用意したマンションで・・張っていたことがあったんです。 そして、彼女を・・見てしまったから。」


「どういう、ことですか?」



志藤は話が意外な展開になっていくようでやや前のめりになった。

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