第46話 ノクターン(3)

「斯波はおまえと違って人格者やから。 安心せえ、」


志藤は真尋の後頭部を叩いた。


「いってえなあ・・」


「ほら、タクシーが来たで。 エリちゃんもごくろうさん、」


志藤はニッコリと笑った。



斯波と萌香は同じタクシーに乗った。


何を話すわけでもない。


彼はいつも無口だ。


萌香もあまり人と話すことが得意ではないので、それはそれで助かる。



何もしゃべらなくても


ホッとする


そしてマンションについてエレベーターに乗った時、斯波はいきなり



「・・どう、だった?」


と話しかけてきた。


タクシーに乗ってから、初めて目を合わせた。


「とても・・惹かれるものでした。」


萌香は静かに言う。


「音楽はいいよ、」


エレベーターが12階についた。


二人は降りていきながら、


「何度救われたか。 つらい時も音楽を聴くと癒される。 オヤジがしていた仕事なんかするもんかって思っても。 子供のころからもうクラシックが体にしみついてて。 生活の一部になってて。 ピアノを弾くのも大好きだった。 オヤジはどうでもいいけど、ピアノは続けたかったし。 そして・・あの『音』にたどり着いて・・」


「音・・」



二人はエレベーターの手前の斯波の部屋のドアの前で話をした。


「自由で枠にはまらなくて。 あんなピアニスト、世界中探してもどこにもいない。 普段の真尋はあんなだけど、ピアノの前に座ると変わる。 ああ、これが『天才』なんだって。 思い知らされて、」


ふっと微笑んだ。


その笑顔が本当に優しかった。


「もし、きみがあいつのピアノの素晴らしさをわかってやってくれたなら・・嬉しい。 本当に嬉しい・・」


斯波は萌香を見た。



今までの自分の過去もなにもかも


一瞬、真っ白になった。


身体にあのピアノが残ってる。


美しい音楽を聴くことさえも


気づかなかった自分。


初めて、人間らしい感情が湧き出てきたような不思議な気持ちだった。


「きっと今日はよく眠れるよ。 おやすみ、」


斯波は優しい声でそう言って、自分の部屋の鍵を開けて入っていく。



ここに来てから悪い夢をあまり見なくなった。


胃が痛くて起きてしまうことも。


こんな平穏な暮らしがいつまで続くかわからないけれど。


どうして


あの人といるとこんなに安心できるんだろう



萌香はぎゅっと自宅の鍵を手の中で握り締める。




一方


斯波は部屋に戻って、ソファに身を投げ出した。


あー


何話していいか、わかんなかった・・



両手で顔を覆った。


タクシーの中でも何か話をしなくちゃって思えば思うほど、言葉が出てこなかった。


ヘンな男だと思ってるんだろうな・・


エレベーター降りる頃になって話だしたりして。


でも


もう彼女のことは心配しなくていいんだ。


志藤さんが


何とかしてくれる。


もう


おれは何もしなくてもいい・・



そのまま


眠くなって眠りに落ちてしまった。




真尋はウイーンや日本での活躍が認められ始め


たくさんの仕事の依頼が舞い込んだ。


大きな仕事も


だんだんと入るようになり、事業部は多忙になった。


「じゃあ・・MTVのディレクターとの打ち合わせ、2時にこっちに来てくれることになってるから斯波が話を進めておいて。 あと、栗栖も一緒に。 おれ、これから会議やから。 頼む。」


志藤はそう二人に言った。


「あ、はい、」


斯波は立ち上がり、もうすぐ時間なのに気づき慌てて資料を探す。


「これです、」


萌香がファイルを取り出した。


「あ、ありがと。」


「真尋さんの今後のスケジュールも出しておきました。」


「うん、」


仕事をする上で、彼女はこれ以上ないパートナーだった。


本当に頭が良くて、気が利く。


だけど


最近は


彼女と二人になると何を話していいのかわからない。


斯波はその気持ちに少し戸惑っていた。


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