第28話 スイッチ(1)

萌香は悪夢にうなされた。



走っても走っても


闇が追いかけてくる。



普通の女と同じ人生を送れると思うなよ・・



闇が言う。


今のきみがあるのは


何をしてきたからなんだ?



やめて!


私は『あの』世界から逃げたかっただけなのに!


ただそれだけなのに・・




目を覚ますと


涙をポロポロとこぼしていた。




翌日


萌香は疲れたような表情で会社に現れた。


「あ・・」


斯波は彼女の姿を見て、小さな声で


「昨日は・・ごめん、」


と言った。



萌香は彼に振り向きもせず


「・・いいえ。 気にしていませんから。」


と、つぶやくように言った。



少し溶け始めてきた彼女の心がまた凍ってしまたように思え、斯波はゆうべ自分が言ってしまったことを悔やんだ。



どう考えても


まだまだ何かありそうで



彼女の美しい横顔をチラっと見た。



「今日・・真尋の赤坂でのライヴのリハがホールであるんだ。 よかったら一緒に行かないか、」


斯波は出かける仕度をしながら萌香に言った。


「え、」


ハッとして顔を上げる。


「ホールで聴くと、また違う、」




迷ったが


彼の音に惹かれて、そっと出かける仕度をした。



行きの車の中でも二人は無言だった。


斯波は


ゆうべ彼女を泣かせてしまったことに


ものすごい罪悪感を感じて


どうしようもなかった。



つい


感情的になって。


放っておけばいいのに。



そう思うのに。




ホールにそっと入っていくと、ピアノの音が聞こえる。


真尋が舞台のピアノを一心不乱に弾いている。


ベートーヴェン『月光』


CDではなく


直にこの音を聴くと


一瞬、体が硬直してしまったかのように。


動けなかった。




写真でしか見たことがなかった真尋の姿が


ピアニストと言うにはあまりにもかけ離れていたので


萌香はそのギャップにも驚き



この人が


あの優しいピアノを弾いていたのかと思うと


ウソのようだったが


流れてくるこの音は


確かに


あの『音』だった。




斯波は


真尋のピアノに聴き入る彼女の横顔を


薄暗いホールで何となくじっと見つめてしまった。



真尋の仕上がり具合をチェックしなければならないのだが


正直


ピアノの音よりも


彼女の横顔に惹かれる。



そして


それに気づいて自分でハッとする。


その繰り返しだった。




リハを何とか終えた真尋は上を向いて、大きくふうっと息を吐いた。


そして客席を見て斯波の姿を見つけた。


「なんだ、いたの?」


迷惑そうに言う彼に


「リハのチェックだろ。 まあ・・まあだったな。」


いつも


彼は簡単には褒めてくれない。


「あ、そ。」


それもいつものことのように真尋はピアノの蓋を閉める。



「『月光』はラストにしたほうがいいんじゃないか?」


「ん~~。 どーしよっかなあって思ってたトコ。」


真尋は立ち上がったとき、斯波の後ろに立っていた萌香に視線がロックオンされた。



「ん??」


188cmの大きな体の彼だが


ものすごく身軽に舞台からぴょんと飛び降りた。


もう斯波のことは全く無視で萌香に近づき、


「だれ? この美人、」


彼を押しのけるようにして言った。



「え? ああ・・4月からウチの部署で仕事してる・・栗栖、」


「クリス? え? 日本人?」


突拍子もないことを言い出す真尋に萌香は思わず、ぷっと吹き出してしまった。


「・・栗栖萌香です。 初めまして。」


と彼に一礼した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る