第187話 慮外

 

「……こんばんは、メタトロンさん」


「こんばんは、凩氷雨」


 私のベッドに深々と腰かけて、膝に頬杖をついているメタトロンさん。突然の登場ほど心臓に悪いものは無いぞ、本当。まだ零時まで時計が一周以上する必要があるってば。


 思いながらも挨拶はする。挨拶は大事だとやっぱり思うし、以前挨拶を後回しにした時のメタトロンさんは不満そうだったと記憶しているから。


 メタトロンさんは自信に満ち溢れた笑顔を携えて、身支度を整えていた私を褒めてくれた。


「なんだ、きっちり戦士の格好をしているな」


「備えあれば憂いなし、と言う心積りで」


「良い心掛けだ」


 笑ったメタトロンさんが立ち上がる。屈強な体躯の彼を自然と見上げてしまえば、柔らかい緊張感に肌を刺されたのだ。


 気づきにくいが、メタトロンさんはいつも何処と無く圧迫感を緩めてくれている。タガトフルム限定で。グレモリーさん達を傷つけて、呪いをかけて、梵さんを床に叩きつけて、私の腕を折った人ではあるが。それら全てから悪意を感じたことは一度も無い。


 彼はそうしたいからする人だ。善だとか悪だとか言う線引きを持っていると感じたことがない。だから彼は悪びれないし、堂々としていられるのではないだろうか。


 偏見的で勝手な自論を持ちつつ、メタトロンさんから視線を外しはしない。


 犬歯を見せて笑う彼は一体何を考えているのか。


 分からない私は笑えもしないまま、疑問を聞くしか出来ないのだ。


「アルフヘイムへ、行きますか」


 あやふやに区切りがつくのか。有耶無耶が輪郭を定めるのか。生贄集めを再開するか。中立者さんをもう一度捕まえなければいけないのか。戦意を失って泣いていた神様を。


 いいや、捕まえなければいけないよ氷雨。お前はディアス軍だ。どれだけ平和な日々に染まりたくなっても、もう大丈夫かもしれないと勝手に思っても、兄さん達を殺さなくていいかもしれないと思っても。


 それはお前の夢でしかない。酷く身勝手な願望だ。


 中立者さんを捕まえて、あと一人の悪を探しに行こう。シュスの誰もが悪だと言い、私達の尺度で測った時も悪だと思える誰かを。


 苦しさなんて、痛みなんて、空気の中に存在している。息を吸えば体の中に取り込んで、どう足掻いたって犯されてしまうのだから。


 知っているだろう。知ってきただろう。


 らず君を入れた小瓶を握ってしまう。ひぃちゃんは尾で背中を撫でてくれて、りず君は頬に擦り寄ってくれた。


 ありがとう、貴方達のお陰で私は呼吸を続けられる。


 私が答えを求める相手、メタトロンさんは筋肉が綺麗についている腕を組んでいた。黙って無表情で固まっていれば本当に彫刻のような方だよな。失礼か、黙ろう。


 彼は珍しく悩むような顔で「それがなぁ」とベッドに座り直していた。そんなに勢いよく座られたらスプリングが痛みそうなんですけど。言いませんよ、えぇ、言いません。


「まだもう少し行くのはよした方がいいだろうなぁ……今までになくアイツが渋っているからなぁ……今日の俺は様子を見に来ただけだしなぁ」


 ゆったりのんびり、間延びした声で頭を揺らしているメタトロンさん。私も何となく彼と同じ方向に首を傾げたりしてみたが、考えはやっぱり読めなかった。


 だから、分からないところから確認しておこう。


「アイツとは?」


 頭に浮かんだのは中立者さん。けれどもメタトロンさんが「アイツ」と言うのは少し違和感があるとも思う。


「アイツはアイツだ」


 メタトロンさんは「うーん」と効果音が付きそうな姿勢で目を伏せて、体を傾けている。何を悩んでいるのか、それとも勿体ぶっていると取るべきか。


 肩でひいちゃんがため息をついた音を聞いて、私も息を吐きたくなった。座ってもいいかな。いや、メタトロンさんと同じ目線は落ち着かないからやめておこう。


「俺達の誰よりも頑固で、真面目で、俺とは全く馬が合わないんだよなぁ……」


 メタトロンさんの呟きを聞く。私はらず君の欠片を入れた小瓶と、そこに巻いた紐を堅結びにしておいた。こうしていれば首にかけられる。少しだけ大きさはあるが、君と一緒に居られるから。


 小瓶を首にかけて硝子が少し揺れる。その音は優しくて、私は肩から力が抜けるのだ。


「ここには考えの整理にでも来たんですか」


「そうだなぁ、そう言っても間違いではない」


 なんだそれ。


 自分でした質問ながら、どうにも真に受けることが出来ずに息をついてしまう。


 この人、何で今日はこんなに煮え切らないのだろうか。


 紅蓮の瞳は私を見据えて「まぁ、あれだ」と口を開いていた。


「アイツはタガトフルムの人間が誰よりも嫌いだからな。戦士は勝っても負けても死ぬことが宿命だと真顔で言う。気を付けろ」


 死ぬことが宿命。


 私の体の中でさざ波が立つ。


 死が宿命って、なんだよそれ。死とはいつか訪れる。けれども死ぬ為に生きるというのは矛盾だろ。


 メタトロンさんが言っているのは中立者さんではない。あの人は私達に死ねと言っても、命の重さを知っている人だったから。


 ――命を軽く考えたことなんて、一度もない


 そう、彼は淀みなく言える人だったもの。


 だからメタトロンさんが言うアイツと言うのは神様ではない。目の前の彼と対になる――白い人だ。


「難しいな、凩氷雨。守りたいものを守る為に外道を続けるか、気持ちのままにリスクを負って変革をするかと言うのは。俺は是非お前には生きていて欲しいところだが」


「……それは」


 どういう意味ですか。


 問う前に、私の背後で寒気がする。


 メタトロンさんみたいな圧迫的なものでは無い。肺の内側から凍らされていくような威圧感。


 突然の感覚に体は反応出来ず、メタトロンさんが呆れたように息をついている様を私は見たのだ。


 後ろから頬に指を当てられる。


「――兵士の明日すら考えてくれる貴方は、きっと英雄になれるでしょうね」


 静かで穏やかなのに、怖いと思ってしまう声。


 私の足元には振り向く前に穴が開き、メタトロンさんが「あぁ」と呟く声を耳にした。


「サンダルフォン、お前の宿命なんか、俺は大嫌いだよ」


 メタトロンさんの地を這うような声がする。


「メタトロン、力と貪欲さを愛する貴方の思想を、私は嫌悪致しましょう」


 サンダルフォンさんの凪いだ水面のような声がする。


「ディアス軍、凩氷雨、アルフヘイムへ」


 そう唱えたのは、純白の長だから。


 私の頭の中が散らかるのだ。


 体が黒に沈んで、飛び立とうとしてくれたひぃちゃんすらも直ぐに絡め取られてしまう。


 唱えられらのはディアス軍と言う括り。アルフヘイムへ続く穴。酷く押し潰されるような緊張感と、私の意向は無視する凍てつくような横暴さ。


 最後に見えたのは、サンダルフォンさんの無表情だった。


「貴方を――我が世界に捧げましょう」


 そんな言葉が聞こえて喉が締め付けられ、どこかで期待していた自分を恥じる。


 サンダルフォンさんが見えなくなる。黒に沈んで、暗くなるから。


 あぁ、ごめんお母さん、お父さん。「行けなくなった」と伝えた時、咽び泣きながら喜んでくれた二人を、心の底から抱き締められなかった日を思い出してしまった。


 まだ終わった訳では無い。誰も終わっただなんて言ってくれていない。どこかで安堵して、きっと上手くいっただなんて。


 やはりそれはお前の妄想で、幻想だった。


 あぁ、愚かな氷雨。お前は何も成し得てなどいなかった。


「どうしますか氷雨さん、恐らくこれはサンダルフォンの単独行動です」


 黒の中で翼を広げてくれたひぃちゃんが状況を整理する為に聞いてくれる。


 そうだ、考えることを止めてはいけない。考えを止めると進めなくなるから。考えて、考えて、考えろ。


 今までずっと、そうしてきた。


 今まで途中で投げ出したことなど、なかっただろ。


「まずは、考える」


 口にして自分を鼓舞する。


 頷くひぃちゃんは背中を掴む力を強めてくれて、りず君は肩で足を踏ん張ってくれた。らず君、君は私が守るから。


 小瓶を握って強く思い、私は黒から吐き出される。


 そこは、アルフヘイムの空ではなかった。


 落とされたのは灰色の鉱石で作られた暗い場所。ムオーデルさんのシュスに似ているようで、それでも違う異質な場所。


 ひぃちゃんが軽く跳んでくれたから穏やかに足が着け、自然としゃがんでしまう。


 廊下を照らす蝋台の灯火と、壁側に幾つも作られているこれは、まさか。


「……牢屋?」


「そうですよ」


 自分で確認する為に呟いた時、声がする。


 後ろから。冷たい声と圧迫感が溢れてくる。


 私は反射的にその人から離れるように床を蹴った。ひぃちゃんも瞬時に翼をはためかせてくれて、私の目は純白を見る。


 薄水色の髪は影になった部分が紺碧こんぺきのように深い色になり、肌も服も透き通るように白い完成された麗人。私が所属している軍ではない、対峙する軍の長。


 私は頬を流れた冷や汗を拭いながら、彼の名前を呼んでいた。


「……サンダルフォンさん」


 感情をどこに置いているのか分からない顔で私を見つめる、サンダルフォンさん。私はゆっくり立ち上がり、りず君がハルバードに変わってくれた。


「こうして貴方と話すのは初めてですね」


 サンダルフォンさんの声は心を嫌に震わせてくる。聞き続ければ芯まで固まり、動きが鈍り、思考が散漫になっていくような嫌な感覚。


 指先が震えても、私を支えてくれる輝きはもういない。小瓶の中で眠りについた。


 大丈夫、起きろなんて言わない。君はこれ以上頑張らなくていい。もう君を傷つけさせはしない。


 私はらず君が入った小瓶を撫でて、サンダルフォンさんがいるのとは真逆に飛んでもらう。ひぃちゃんは一気に加速し、直ぐに辿り着いた壁の間隔からここがそこまで広い場所では無いと理解は出来た。


 壁は少しだけ湾曲してる。円形の部屋、円柱の建物。


 最初に浮かんだのは多くの傷を負わされた、あの塔のッ


「状況確認。冷静なのは良い事かと」


 また、サンダルフォンさんの声がする。


 反応してくれたひぃちゃんに引かれて体が強制的に浮き、私は壁を強く蹴った。


 先程まで私が立っていた場所に光輪がぶつかり壁が傷つく。


 その様子を見たら冷や汗が流れて、私の足は天井を蹴っていた。


 サンダルフォンさんの手では目を奪われるほど美しいランプが揺れている。


 あれを壊す。壊せばまだ、こちらに勝機ッ


 思った時にランプが揺れて、光輪がこちらに向かってくる。


 体を捻ってひぃちゃんが旋回してくれて、りず君の刃で反射的に輪の軌道を変えようと試みた。


 振り抜く。光輪はその柔らかな見た目に反して強固であり、私は奥歯を噛んだのだ。


「あぁ、やはり貴方はお強いようだ」


 サンダルフォンさんの声は私の体を揺らしてくる。体を光輪に掠めながら床を滑れば、不意に後ろに人の気配を感じたのだ。


 息を呑んで、ひぃちゃんが真上に浮いてくれる。


 見えたのは白い服と茶色い髪。


 ただ真っ直ぐに、正しさを求めていた彼がいたから。


 私は無意識に名前を呼んでしまうのだ。


「早蕨さんッ」


「氷雨さん!!」


 早蕨さんを飛び越えてひぃちゃんが羽ばたいてくれる。彼は状況が理解出来ていないようで、サンダルフォンさんのランプが揺らされた。


 光輪が広がり、迫ってくる。


 早蕨さんにはもう剣も盾もない。彼の武器は第七の階で砕かれた。


 だから床を踏め。進め、氷雨。


 お前には全てを防いでくれる盾があるのだから。


「スクトゥムッ!」


「しゃがめ光!!」


 緊張を、不安を、理解の出来なさを。全てを吐き出す為に叫んでみせる。


 りず君は大きく固い盾に変身し、早蕨さんは私達の方へ跳んでくれた。


 彼を後ろに庇ってりず君を床に突き立てる。


 盾に直撃した光輪はその緩やかな動きとは裏腹に、体を後ろに下がらせるほどの重さを孕んでいた。


 それでも防ぐ。防がなくてはいけない。押し負けて堪るかッ


 肩幅に足を開き、ひぃちゃんが翼を広げてくれる。


 りず君の持ち手を掴む力を強めれば一緒に押さえてくれる手が合って、柄にもなく安堵した自分に嫌気がさした。


「あぁ、駄目ですか」


 光輪が弾けて消える。私は肺から空気の塊を吐き出して、顎を冷や汗が流れ落ちていった。


「氷雨さん、これ、どういう状況か知ってますか」


「いいえ、何も」


 りず君にハルバードに戻ってもらい、一緒に盾を押さえてくれた早蕨さんに答えておく。


 何も分からない中、一つだけ理解出来ること。


 それは――サンダルフォンさんの敵意だった。

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