第184話 閉眼

 

 傷を負った緋色の翼。


 疲弊しきった黒い翼。


 それが帳の目に映ったと同時に、神と戦士を抱えた者達がいた。


 血を流した体で、痛みに耐えて羽ばたく戦士達がいたのだ。


「氷雨ちゃん、闇雲ッ」


 帳と中立者を抱き留めた氷雨と祈。氷雨は二人を下から支えようと抱き着き、祈は帳の背中を鳥の足で掴んだ。


 落ちるのを止めようと、目的を果たしてくれた仲間を守ろうと 必死になって。


 それでも傷ついた二人の翼ではもう飛べない。中立者と帳の元まで辿り着く事が限界で、もう羽ばたき続けることなど出来はしない。出来るのは翼を広げて落下速度を弱めることだけだ。


 祈と氷雨が、ルタとひぃが自分達の状態を理解していない筈がない。


 それでも彼らは飛んだのだ。


 彼らだけではないから。神と仲間を受け止めようと考えたのは二人だけではないのだから。


 帳達は落下を続け、塔の外に居た二人の黒は駆け出していた。


「氷雨、闇雲!! その距離でいける!!」


 紫翠の声が響き渡り、手裏剣が飛ぶ。それは網となって広がり、祈と氷雨は帳を抱えて中立者から瞬時に横へ離れてみせた。


「な、おいッ!!」


「うるさい馬鹿ッ、舌噛むから黙ってろ!!」


「り、ず、君、頼んだッ!!」


「おらこいやぁ!! 目指せ低、反、発ッ!!」


 叫びながら大きなクッションに変形するりず。心獣は自分が出来うる限りの低反発性を作りだし、紫翠の手裏剣に捕まった中立者は心獣に沈みこんだ。


「やっべ跳ねるッ!! 音央、無月ぃッ!!」


「メシアの方に行きたかったッ!!」


「こき使いすぎだぞ心獣ッ」


「無駄口叩く前に、受け、止めろよッ!!」


 血だらけの音央がリフカを操り、体の各所が凍っている無月が鎖を振り抜く。りずから跳ね返りそうだった中立者は二つの拘束具に捕らえられ、地面へと勢いよく下ろされた。


 歯車と桜色の鉱石が落ちてくる。その雨を見る中立者は脱力してしまった。荒く地面に下ろされて捕まっても。彼の視界には、黒い三人の戦士が落ち続ける姿が映っていた。


 進行方向を斜めに変えて落下している帳達。祈とひぃは翼を広げて空気抵抗を増やし続けていた。どうにか勢いを弱めようと歯を食いしばって。


 氷雨は三人が離れないよう力を込めて抱き締め続ける。


 彼らの先には三人を受け止めようと腰を落とし、腕を広げた梵がいるのだから。


「ちょ、細流ッ」


「大丈夫、だ」


 驚く帳に梵は微笑んでみせる。


 青年は軋む体を無視し、可愛い仲間達がこれ以上傷つかないように四肢の末端まで神経を張り巡らせた。


 彼の体に三人が突撃する。殺しきれなかった勢いを受け止めた梵は衝撃によって後方に体が動かされる。青年は奥歯を噛み、靴の裏が地面を滑る感覚に汗を流していた。


「俺の妹、落とすなよ」


「すみま、せんッ」


 踏ん張りきれずに倒れかけた梵の背を、二人の白の戦士が支える。


 兄である時雨と鳴介は梵を支えて勢いを殺し、止まった所で脱力した。


 三人とも鬱血・出血・貧血と嫌な三点セットが揃っているわけではあるが、地面を滑って膝をつき、それでも無事に帳達を受け止めることに成功したのだ。


 地面に下ろされた帳は崩れ落ちる。梵に抱えられたままの祈と氷雨、りずを回収した紫翠は、最後まで進んだ仲間に駆け寄った。


「帳君ッ」


「え、ちょ、生きてる!?」


「さっさと力抜くわよ」


「そう、して、やろう」


 紫翠は帳の鳩尾を親の仇と言わん力加減で叩き、少年の背から四つの特性の花が弾き出される。その衝撃に帳はせ返り、紫翠は息を吐いていた。


 彼女は一つの花と一枚の花弁を拾い、それぞれあるべき場所へと戻していく。


 花は梵へ。花弁は祈へ。


 二人の体に違和感なく溶け込んだ花を紫翠は見届け、帳の近くに落ちているもう二つの花を見るのだ。


 一つは帳の空気操作の花で良いが、もう一つを植えた記憶が彼女には無い。疑問を抱きながら花を持てば、そこには人を操る力が入っていた。


「貴方、グレモリーの力も入れてたのね」


「……まーね」


 帳は鉛にでもなったように重たい体を意地で起こし、気持ち悪さに耐えている。体中を走る痛みと各所から流れる血は限界だと言う悲鳴なのだろう。


「帳君ッ」


「あ、氷雨ちゃん」


 氷雨は帳の隣に膝をつき、祈はルタとの同化を解いている。二人を見上げた帳は力が抜けるように笑い、梵は少年の頭を撫でていた。


 四人は帳の近くに座り、お互いが傷を負っている姿を見る。


 ルタの片翼は既に機能するか怪しいレベルまで弱っており、紫翠の手裏剣も先ほど中立者に投げた一本が最後。梵は各所に火傷を負っており、氷雨の体からは幾筋もの血が流れ落ちていた。


 それでも、それだけ傷つきながらも全員ここにいる。


 塔の外に。色が変わりつつある空の下に。黒の五人は誰も欠けずに揃っている。


「……頑張った、な、帳、ありがとう」


「ありがとう、帳君に任せて良かった」


「お疲れ様、ありがとう」


「……ありがと」


 梵と氷雨は穏やかに笑い、紫翠も微笑む。祈はルタを抱き締めて伝え、帳は再び倒れそうになるのを堪えていた。


 彼は壊した塔の最上階を見上げてから、捕まえた中立者に視線を向ける。神には逃げようという意欲がなく、その姿のせいで帳の緊張感は解けていくのだ。


「ありがとうは……こっちの台詞だっての」


 帳が顔を伏せて笑うから四人は顔を見合わせてしまう。それから仕方がなさそうに笑い、帳の肩を叩き、頭を撫で、背中を摩ったのだ。


 体の中で生まれるむず痒さに帳は落ち着かない。それから周囲を見渡して一抹の不安を覚えるのだ。


「……他の奴らは?」


「大丈夫。今グレモリーさんとアロケルさん、フォカロルさんが治療してくれてるよ」


 氷雨は帳に微笑み、少年もその答えに口角を上げる。力が上手く入らない体は少女へともたれ、体重をかけられた方はしっかりと受け止めていた。


 祈はルタを抱えて帳の背中に凭れ掛かり、紫翠は氷雨の背中に体を預ける。梵は帳の肩に頬を寄せ、誰ともなく息を吐き出していた。


 りずは紫翠から氷雨の肩に飛び移り、パートナーは幸せそうに笑う。


「ありがとうりず君。ひぃちゃん、本当助かった」


「氷雨が望んでくれたからな」


「いいんですよ、氷雨さん」


 心獣達は嬉しそうに笑い、氷雨は笑いながら視線を動かしている。


 縛られた中立者は何も言わずに空を見上げていた。その両目からは細く涙が零れており、氷雨はその姿に唇を結ぶ。


 無月は関節を鳴らしながら地面に座り込み、自分を見ている氷雨に「気にするな」と言うように手を振った。頭を下げた少女の視線は、彼女を見ていた音央へと向かう。


 信者は少女の近くに駆けると、人ひとりが入れそうなスペースを開けて座った。氷雨は音央の目を見つめて心の底からの感謝を述べる。


「泣語さん……本当に、ありがとうございました」


「いいえメシア。俺は貴方が生きていてくれて、それだけで嬉しいです」


 涙の膜を張った音央の目が細められ、とろけてしまいそうな笑みが浮かぶ。氷雨は微笑み返し、彼女の頭を撫でる手に驚いたのだ。


「兄さん」


「……頑張ったな」


 傷だらけの時雨。髪の一部は切れており、整いすぎている顔にも血が滲んでいる。本人は傷などどうでも良いと言うように妹の無事に笑っていた。


 氷雨は泣きたくなる心地を閉じ込めて、眉を下げて笑い返す。


「ありがとう兄さん……時沼さんと、屍さんは?」


「疲れ切ってまだ寝てるよ。傷はもう大体塞がってる」


「良かった」


 氷雨は安心したと言う感情を顔いっぱいに滲ませながら笑う。時雨も微笑み、彼も地面に腰を下ろした。


 もう一人の兄、鳴介は祈の頭を壊れ物を扱うように撫でる。弟は我慢ならないと言った態度で頭突きをお見舞いしていたが。


「ぃたッ」


「……馬鹿兄貴」


 祈の呟きに鳴介は目を瞬かせ、仕方がなさそうに笑う。それから弟の頭を両手で撫でまわし、優しさしかない声で言ったのだ。


「うん、俺は馬鹿だよ。馬鹿な兄貴だ」


「……嘘だから真に受けんな」


 祈はもう一度頭突きをし、帳の体に体重を預ける。預けられた少年は何も言わず、その肩に乗っていたらずが氷雨の肩へ移動した。


 りずとひぃは硝子の針鼠を見て、柔く頬を擦り寄せていく。


「らず、おかえり」


「頑張りましたね」


 針が何本も溶け、変身出来る力も残り僅かのりず。


 翼に穴が開き、まともに飛ぶことが出来なくなったひぃ。


 らずは二匹の温かさに笑いながら泣いて、そのヒビは深くなった。


 氷雨はらずを見て、帳も体を起こす。梵達も顔を上げれば、氷雨の両手に乗せられたらずの姿があったのだ。


「らず君、本当にありがとう。頑張ってくれて」


「ありがと、らず」


 氷雨と帳の指がらずの頭を撫でる。それに嬉しそうに針鼠は笑い、体のヒビがより深くなる音がした。


 帳は反射的に指を離し、それでも氷雨は撫で続ける。らずもそれを望んでおり、ひぃとりずはパートナーの肩で泣きだしていた。


 大粒の涙を嗚咽も無く流し続けるひぃとりず。氷雨の目にも涙の膜が張っていたが、それが零れ出すことはなかった。


 らずのヒビが、音を立てて深くなる。


「……待って氷雨ちゃん、らずが」


 帳は目を丸くして氷雨を見る。少女は眉を下げながら微笑み、それは全て分かっている表情なのだ。


「……らず君」


「……ひ、さめ、ちゃん」


 震える声で、らずが喋る。


 それには梵達は目を丸くして、氷雨も一瞬だけ息を止めた。


 それから彼女は幸せそうに笑い、涙を一粒だけ零したのだ。


 らずの亀裂が増えていく。


 それでも硝子の彼は笑っていた。


 幸せそうに、満足そうに、何も思い残すことは無いと言うように。


「氷雨、ちゃん、氷雨ちゃん」


「らず君」


 氷雨はらずを持ち上げて、額を寄せる。少女の顔に擦り寄った針鼠は体を揺らして笑い、氷雨はか細い声を聞いていた。


「僕、頑張れ、た……?」


「頑張ったよ。凄く、凄く頑張った。こんな言葉じゃ足りないくらい頑張った」


 氷雨の両目から雫が零れていく。硝子の心獣は、声が震えないよう努める少女が大切で堪らなかった。


「嬉しい、なぁ……氷雨ちゃん達の、方が、凄く、すっごく、頑張ったのに。ごめん、ね……こんな、こと、聞いちゃって」


 引っ込み思案で臆病で、自信がない硝子のらず。


 彼が勇気を振り絞って、褒めて貰いたい気持ちのままに吐いた言葉を彼自身が恥じてしまう。


 それが分かっている氷雨は首を横に振り、褒められたい気持ちを申し訳なく思うパートナーを見つめたのだ。


「誰か特別頑張ってないわけないよ。みんな頑張った。出来ることを全力で、その人にしか出来ないことをしたんだ。だからいいの。らず君も、ひぃちゃんもりず君も、これ以上ないってくらい頑張ったんだから。褒められていい、誇っていい。だから、望むことを恥じないで」


 氷雨の頬を涙が伝い、顔を離した少女は笑っている。


 らずはしゃくり上げながら泣き続け、不安から起こっていた震えは止まったのだ。


 らずは今までで一番の笑みを浮かべる。


 嬉しそうに、眩そうに、幸せそうに。


 その表情を、声を、言葉を、氷雨は記憶に焼き付けた。


「りず君、ひぃちゃん……氷雨ちゃん」


 らずの体のヒビが大きく深くなっていく。


 彼の体を繋ぎ止めていた力を使い切ったから。


 優しい青い業火を吐き出し尽くしてしまったから。


 それでもらずに、後悔なんて言葉はなかった。


「大好き」


 瞬間。


 甲高い硝子の音がする。


 光りを反射する硝子が、砕け散る。


 氷雨の手の上で砕けてしまう。


 りずは我慢出来ずに声を上げて泣き、ひぃが片翼で針鼠を包み込んだ。


 ドラゴンの目からも止めどなく涙が溢れており、その体は少しだけ溶けだしてしまっている。


 氷雨は両手の上の硝子を見つめ、泣きながら笑っていた。


 臆病で、傷つきやすくて、心配性で、泣き虫な針鼠。


 彼は最後の最後に喋り、笑い、想いを伝えて砕け散った。


 氷雨はらずの破片を慈しみながら胸に寄せる。涙が溢れ続けたが、それでも嗚咽を零すことはなかった。


「私も、大好きだ……おやすみ、らず君」


 そんな言葉を待たずして、眠りについたパートナーへ。


 仕方がなさそうに笑う少女の肩に紫翠は顔を寄せ、祈の両目からは大粒の涙が溢れていた。


 ルタは氷雨の膝に行き、らずの欠片を見つめて泣いている。


 もう、彼を治せる者はいない。


 氷雨は「おやすみ」と言ったから。


 心獣を作った兵士はいないから。


 時雨は氷雨の頭をゆっくりと撫で、妹の前で呆然としている帳に視線を向けた。


 茶髪の彼の目からも涙が流れている。


 自分のせいだと、責め立てる少年の肩が震えている。


 自分のせいだ。自分が弱かったから、また無くしてしまった。無くさせてしまった。奪ってしまった。ごめん、ごめん、ごめん……ごめんなさい。


 顔を覆いそうになった帳は謝罪するしか出来ない。震える唇を動かして、許されなくとも謝るしかないと考える。


 けれども、それよりも早く。


 氷雨が顔を上げて笑うから。


 彼女の言葉の方が先に零れるから。


「謝ったら……嫌いになるよ、帳君」


 帳は口を結んで、謝罪の言葉を飲み込んだ。


 氷雨はらずの欠片を見下ろして笑っている。満足そうに。本当に満足そうに。


「謝られたら、らず君も私も困るから、ね。謝る事なんて何もないんだから」


 氷雨は帳を見る。その目は酷く穏やかで、帳は自分の涙を止めるすべを知らなかった。


 彼は言葉を考える。謝罪以外の言葉を。本当に伝えなくてはいけない言葉を。


「……助けられたよ、らず……頑張ってくれて、本当に――ありがとう」


 帳はらずの欠片に指を添えて笑って見せる。氷雨も笑い、布となったりずが硝子を大事に大事に包んでいった。


 地面で巾着のようになって、りずは落ち着いていく。その上から覆うように翼を広げて座り込んだひぃも涙をゆっくりと止めていった。


「俺も大好きだ、らず」


「私も大好きですよ……おやすみ、らず」


 言葉を贈った心獣達も目を閉じる。氷雨はそれを見届けて、頬に残った涙の痕を手の甲で拭っていた。

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