第166話 招待


 大きな手に頭を掴まれ、顔から机に叩きつけられる。


 目の前が暗くなると同時に首から背中、顔から頭へ鈍い痛みが伝染した。叩きつけられた瞬間に口の中が切れたのか鉄の味がして気持ち悪い。


 りず君がハルバードから変化してくれたのは近距離用武器――スティレット。刺突専用の短剣で市民が護衛に使っていた武器。携帯することを禁じられるほど威力がある凶器。


 りず君を握り、ひぃちゃんは天井から急降下してくれる。酸性液の滴る牙を唸らせて。らず君は輝いてくれて、私は右腕を裏拳の勢いで振り抜いた。


「はは、俺の戦士はどちらも気性が荒いらしい」


 そんな声を聞いて。


 殴り飛ばされたひぃちゃんが壁に激突する。りず君も勢いよく払われて手首が掴まれる。


 しまった。


 なんて思う間に振り解くことは出来なくなり、私の腕は曲がらない方向へ力を込められるのだ。


 腕の神経が引きるのが分かる。筋繊維が無理やり伸ばされて、骨と関節がそちらには曲がらないのだと軋んでいる。


 身体中から吹き出した冷や汗は危機に対する防衛本能か何かか。槍に変身したりず君が伸びてもメタトロンさんは簡単にかわすのだ。


 らず君が肩で震えて、突撃したひぃちゃんがメタトロンさんの手に捕まえられる。起き上がろうにも腕が向かない方へ向けられつつある体勢では反撃が出来ない。


 やられた、このッ


「あまり無謀なことをしてくれるなよ。折れるぞ」


「おまえが持ってるからだろうが!」


 叫ぶりず君が針鼠に戻る。鋭い針で突進していく彼は容易く払われ、その勢いでひぃちゃんもまた投げつけられた。


 うずくまるひぃちゃんの傍に倒れたりず君がいて、ッ


「りず、君、ひぃちゃんッ」


 体を動かすが直ぐに腕が軋んで呻き声が漏れる。左肩も押さえられて体重をかけられた。


 このままだと、動こうが動くまいが腕、折られッ


 メタトロンさんの笑い声が降ってくる。私は奥歯を噛み締めて、低く響いた帳君の声を聞くのだ。


「それ以上手出したら殺すぞ」


 画面を何とか見上げる。そこには髪の毛が揺れている帳君と、起き上がった梵さん、目を力強く見開いている翠ちゃんと、同化している祈君がいた。だから私は深呼吸を心掛けるのだ。


 メタトロンさんはストラスさんを見たようで、兵士さんは口を固く結んでいた。


「それは恐ろしいが、手を出すかどうかはお前達次第だな」


「何が目的なのかしら」


 目を細めた翠ちゃんは今にも部屋を飛び出しそうな雰囲気だ。


 駄目だよ翠ちゃん、来ないで。確かに貴方は私と会える距離にいるけれど、それでも来ては駄目だ。


 想えば右肩につんざく痛みが走り、突然のことに私は我慢出来ないのだ。


「ぃッ、あッ……!」


「あぁ、すまんすまん。やはり力加減が難しいな」


 笑い続けるメタトロンさん。私は情けない呻き声を二度と出すまいと唇を噛み締めた。


 翠ちゃんがメタトロンさんの目的を聞いてくれた。だからさっさと答えろよ。


「目的はさっきも言っただろう? グレモリーは何処にいる。それを教えてくれさえすればお前達に良いことを教えてやろう」


 メタトロンさんが笑っている。良いことってなんだそれ。


 気にはなったが、グレモリーさんの場所は絶対言わない、教えない、教えてなんてやらない。言わない、言わない、言わない。


 画面のみんなも口を開かないでくれる。それでいい、それがいい、教えたくない、この人だけには教えられない。


「沈黙か、良い答えだ」


 その言葉を耳に入れた瞬間。


 私の右腕から――鈍い音が響く。


 鈍痛。熱、熱、熱、痛、熱、腕、私、右、音、音、あ、


 口の中に悲鳴が溜まる。


 駄目だ、駄目だ、叫、駄目、我慢ッ


 全身に脂汗が噴き出して一瞬すべての感覚が消える。次に足先までどうしようもない熱さが回って、これでもかと噛み締めた唇が切れた。


 左肩を上から強く押さえつけられ、暴れることも動くことも許されない。右腕は煮えるように熱くなっていき感覚がない。


 いや、多分「痛い」と言う感覚はあるのだろうけど、駄目だ感じない。


 指先を動かそうとすれば頭まで突き抜ける痛みが走り、呻きそうになる。どこか遠くで浅い呼吸が聞こえていたが、それが自分のものだと気づくのには数秒かかった。


「おぉ、悲鳴も上げないか。強いなぁお前は。これならもう片方を折るのも、」


「おい」


 メタトロンさんの言葉が止まる。汗に濡れた髪が額や頬に張り付く感覚がして、朦朧とした意識は何とか繋ぎ止めた。


 画面を見る。そこにいる帳君達のこめかみに青筋が浮かんでいる気がして、梵さんの声が何となく聞こえてきた。


「何故、氷雨の、所へ、行った。俺で、良い、俺の元に、来い」


 地を這うような低い声。梵さんの全身から憤りが発せられているような気がした。私の所で良かったのだと言いたいのに、口が動かない。


 貴方の腕が犠牲にならなくて良かった。私で良かった。


 そう答えたいのに。


 折れた右腕を握られる。喉元まで出てきた悲鳴を耐え抜けば、笑うメタトロンさんの声が響いたのだ。


「細流梵は悲鳴をあげないだろう。痛いという反応もしなさそうだ。だからこちらに来た。もっと喚いてくれることを期待してな。そうしなければお前達に喋りたくさせる要素が足りない」


 さも当たり前と言わん口ぶり。私が選ばれた理由を要約すれば「弱そうだから」だと突きつけられる。


「まぁ、俺の予想以上にこちらも我慢強かったらしいがな。いやぁ驚いた」


 左肩から腕が離されて頭を撫でられる感覚がある。私は必死に呼吸を整えようとして、震えるパートナー達を確認するのだ。今にも飛び出しそうで、けれども飛び出した後の光景が良いようにならないと分かっている表情。


 大丈夫。いいよ、いいから、どうか動かないで。今はまだ動いてはいけない。


 前髪を掴まれえる。喉がのけぞるように伸びて右腕は自由になったが、少しでも動けば激痛が走った。


 反撃出来ない。くそ、くそッ


「で? グレモリーは何処だ?」


 メタトロンさんの手が勢いよく首を掴んでくる。その手は私の呼吸を奪うように力を込めるから、私の左手は厚い手の甲を引っ掻くのだ。


「ッ、お前」


「やめッ!!」


 前髪が離されてメタトロンさんと私のイヤホンが耳から外れる。祈君達の声は聞こえなくなり、私は黒い長の声しか聞けなくなった。


「答えろ、凩氷雨。グレモリーは何処にいる?」


 問われる。


 私は奥歯を噛み締めて目を閉じ、床を意味もなく蹴ってしまうのだ。


 この人に千里眼は無い。グレモリーさんを探せていない。見つけられていない。だからこうやって聞き出そうとしてる。


 ここまでグレモリーさんに執着するのはきっと、知っているからだ。海堂さん達が生きているって。アミーさんとエリゴスさんが加担したって。


 だからあの日のアミ―さんもエリゴスさんも傷だらけで、アロケルさんの愛馬がいなくなって、フォカロルさんの首には消えない傷が残されたのではないか。


 だからこそ言わない、言えない、絶対、絶対、絶対。


 喉が締まる。目の前が眩んだ。


 すると、不意にメタトロンさんの腕が緩むのだ。呼吸が出来る。それに微かに安堵した自分がいた。


「あぁ、期待したか?」


 また喉を締め上げられる。さっきよりも強い力で気管が締まっていく。


「さぁ言え。グレモリーは何処か。動くなよ心獣達。お前達が動いた瞬間にパートナーの首が折れるぞ。これでも加減が難しくてな」


「あ、あぁ、氷雨、氷雨ッ」


「氷雨さん……ッ」


 メタトロンさんの笑う声が頭の奥に響く。


 どうするこの状況。どうやって好転させる。好転出来るのかこの状況。長に対して戦士一人と、動くことを許されてない心獣なんて最低にも程がある。


 それでも、まだ最悪な状況では無いだろ氷雨。


 メタトロンさんだって、欲しい情報を手に入れたくてこうやって現れているのだ。私達戦士が知ったから教えてもらおうだなんて、安く考えんなよこの野郎。


 腕の一本なんて、神様を生贄にするって決めた時からくれてやる覚悟なんだよッ


 アミ―さん達が黙り続けたこと。それを私が言うとでも思ったか。


 弱いと思ってくれて結構。貴方の暴力に泣いて許しを請うような精神は持ち合わせてない。


 口角を上げた私はメタトロンさんの手の甲に再び爪を立てた。


「言わ、ねぇよ……あんま、甘く見んなよッ」


 左腕でメタトロンさんの腕の関節を殴り上げる。渾身の力で。


 目を見開いて口角を上げたメタトロンさん。少しだけ緩んだ掌から体を勢いよく離せば、喉の圧迫感から抜けることが出来たんだ。


 素早く立ち上がろうとするが、それより早く胸倉を掴まれて床に投げられる。右腕が下になるように。倒れこんだ体は腕を下敷きにして、その熱さにまた脂汗が流れた。


 意識の全てが腕の痛みに向いてしまう。左手で右肩を押さえても、体を丸めても逃げない鋭い感覚。それにぎりぎりの所で耐えれば、ひぃちゃんとりず君が飛びだしてくれたのだ。らず君は肩にしがみついて私の腕を補助してくれる。


「威勢がいいな。だが、生き急ぐのは感心しないぞ」


 メタトロンさんは笑っている。


 私は奥歯を噛み締めて立ち上がり、ひぃちゃんが背中に来てイヤホンをつけてくれた。りず君はスティレットに変身して、祈君の声が耳をつんざくのだ。


「氷雨さん!」


「大丈夫、無事だよ」


 震えた祈君の声に笑ってしまう。


「……無事じゃないくせに」


 苦しそうな帳君の声もする。


「すまない、氷雨」


 あぁ、なんで梵さんが謝るかな。


 画面を見られない私は笑い続けていた。


「何も謝ることなんてないですよ、梵さん。帳君、腕一本だけで済んでるんだし、今の状況は無事な方だと思う」


「馬鹿」


 帳君の声が間髪入れずに返ってくる。私は苦笑してしまい、イヤホンを付け直したメタトロンさんを見つめるのだ。


「なんだなんだ? 俺も話に混ぜてくれよ」


「お前はアルフヘイムで殺す」


「は、オリアスの駒は口が悪いな」


 笑い続けるメタトロンさん。私は口角を努めて上げ、凛とした翠ちゃんの言葉を聞き逃しはしなかった。


「氷雨、呼んだわ」


 呼んだ。


 ……呼んだ?


 彼女は誰を、何を呼んで――


 理解する前に、目の前に飛び出した人がいる。


 私の部屋の中に、突然、突如、何の前触れもなく。


 学生服に金色の髪が眩しくて、私は目を見開いた。


「凩に、手ぇ出すな!」


 メタトロンさんの顔を殴り飛ばした――時沼相良さん。彼は肩で息をして、私に背を向けて立っている。


 私は唖然としてしまい、腕の痛みも完全に忘れていた。


「氷雨の騎士様はお早いわよね、本当に」


 翠ちゃんの声がして、メタトロンさんは殴られた頬を手の甲で摩っている。時沼さんは長から目を離すことはせず、私もりず君を握り直した。


「はぁ? 毒吐きちゃん、なんでそいつ」


「ちょっとした同盟を組んでるもんでね、役立って良かった」


「す、翠ちゃん、時沼さん、ありがとうございます」


 頷いてくれた時沼さんの背中越しにメタトロンさんを見る。彼は我慢しきれないという顔で笑って、「こいつぁ面白い」なんてほざくんだ。


「ディアス軍を助けに来るルアス軍か。面白い、面白いな!! だからこれ以上意地悪をするのは止めてやろう」


「意地悪なんて範囲には、収まりませんよ」


「そうか? それは気づかなかった」


 可笑しそうなメタトロンさんに伝えれば悪びれない言葉が返ってくる。本当にこの人にとっては「意地悪」で終わる事だったのか、それとも冗談か。全く読めない。読めないから分からない。分からないから怖い。


 私は震えそうな左の指先と、熱を孕んだ右手に胃の中が気持ち悪くなってしまうのだ。


 メタトロンさんは肩を竦めている。


「グレモリーの居場所はまた今度教えてもらうとしようか」


 なんて、あっさりと。


 まるで執着が薄く、別に教えてもらえなくても良かったという言い方。奥歯を噛み締めた私は指先一つ動かせない右腕に苛立った。


「元々我が主からのお達しだからな。遂行したいが、まだお前達は知らなかったと伝えておこう」


「……随分簡単に引き下がるんですね」


 余りにも引きが良すぎる。口にすればメタトロンさんは豪快に笑うのだ。


 彼はいつもいつも、本当に楽しそう。


「俺は俺がしたいようにするだけだ。さっきまではグレモリーの居場所を必ず聞き出してやろうと考えていたが、やめた。お前は腕を折っても泣きも喚きもしないし、ルアス軍の戦士が飛び出して相対するとも来た。いやぁ面白い、面白いことがたくさんあれば俺は機嫌が良いし、懐だって広くなる」


「腕って、ッ」


 そこで初めて時沼さんが振り返り目が合う。彼は私の不自然な赤さと青さを孕んでいる右腕を見て、顔から血の気が失せていったようだ。


「凩!」


「大丈夫です、時沼さん。らず君のお陰で我慢出来てます」


 見るからに狼狽うろたえてしまった時沼さん。私は微笑んでメタトロンさんに視線を向けた。彼は我が物顔で私のベッドに腰かけて、膝に頬杖をついている。くそ、無駄に絵になる。


 彼がグレモリーさんのことを聞かないと決めてくれたことは信じていたい。左腕も折られたら流石に支障が出すぎて困る。利き腕をやられた今も支障が出るだろ。うるさい気にするな。


 メタトロンさんは本当に機嫌が良いとしか思えない表情でそこにいて、何の前触れもなく言葉を吐いた。


「今の俺は気分がいい。期待外れではなく、期待以上の反応を貰えたからな。だからお前達に嬉しい知らせをやろう」


 鋭い犬歯を見せて笑っているメタトロンさん。私の背中には鳥肌が立ち、腕の熱さが無くなるような話を聞いたのだ。


「喜べよ、。楠紫翠、凩氷雨、細流梵、結目帳、闇雲祈」


 私の頬を冷や汗が流れ落ちる。



 ストラスさんが息を呑んだ音を聞く。


 メタトロンさんは屈強な両腕を広げると高らかと宣誓した。


「そうさ、王は知った! 知っていた!! 戦士を玉座に招くとは前代未聞!! さぁ、もっと今までにないことをしてみせろ戦士達!! お前達は神と対面することを許された!! 捕まえてみせろ!! 贄にしてみせろ!! やれるものならやってみろ!! やれないことなど無いのだから! お前達で決めた道は今、切り開かれた!!」


 あぁ、隠せる筈がなかった。


 神に隠し事など出来なかった。


 震えたりず君は針鼠に戻り、私の肩に上ってくれる。


「王の塔の場所を教えてやろう。いつ向かう、いつ立ち向かう、さぁ、今決めろよ戦士達。お前達が生きるも死ぬも目前だ」


 メタトロンさんは本当に、本当に楽しそう。


 私達は――神様に招かれた。


 期限はいつか。死ぬ確率が高いことへ挑むまでの期間。最後の時間。終わりの歩み。


 いいや、悲観するな氷雨。いつかは訪れたことで、これはチャンスだ。神様みずから招待してくれたのだから。


 これは通過点。神様を捕まえるのだって、五人目の生贄にするというただの過程。勝利への必要最低条件。


 だから、笑え。


「いつにする、俺は氷雨ちゃんの腕が治ったらいつでもいい」


 口角を上げて喋っているような帳君の声がする。


「私もよ。神からの招待だなんて光栄だわ」


 翠ちゃんの声は穏やかで、波のない水面のよう。


「……いつだって変わらないと思う」


 そう呟かれた祈君の声は震えていなかった。


「私もです。腕はらず君の補助を、頼ります。見積もっても……二日あれば治ります」


 らず君の額を撫でる。ごめんね、無理させる。見れば硝子の彼は笑ってくれて、私も笑えた。


「氷雨の、腕は、俺も、治しに、行こう。だから……一週間で、どうだ」


 梵さんの声がする。おおらかで穏やかで、労りを持った優しい声。


 提案された一週間。七日間。それを誰も否定せず、声は順に同じ意味を吐いていく。


「賛成」


「いいわよ」


「了解、です」


「はい」


 メタトロンさんの口角が今までで一番上がり、彼は勢いよく立ち上がる。日を背にした彼の黒と紅蓮は影を纏い、暗さを増して威圧も増した。


「承知した。それでは七日後、お前達は神の塔へ下ろさせよう」


 そう残して消えたメタトロンさん。


 私の腕には熱さが戻り、目を見開いている時沼さんに凝視される。


 顔は勝手に笑い続け、私は首を傾けるのだ。


「ごめんなさい」


 勝手に決めて。


 勝手に進んで。


 時沼さんは口を結んで首を弱く横に振り、私の右腕に恐る恐る触れてくれた。


「……一緒に行こう」

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