第161話 不安


 リフカが胴体や腕に巻きついて身動きが取れない。


 足先は地面から離れて、ひぃちゃんが背中から引き剥がされた。


 りず君とらず君は見えない林の向こうまで投げ飛ばされて反撃の兆しが見えない。


 完全に、油断した。


 私は自分の驕りに心底落胆しながら、泣語さんの前にいる。彼は幸せそうに笑いながら私を見上げており、その声はドロドロに甘やかされそうな優しさを孕んでいた。


「あぁ、メシア――愛してる」


 私の背中に寒気が走る。目を見開いたと自分でも分かる中、答える口はリフカに塞がれていた。


 苦しくも痛くもないが、決して振りほどくことは出来ない強さ。その力加減が彼らしいと思いながら、私は泣語さんから視線を外しはしないのだ。


 彼はペリの天園からずっと、いや、私が知らないうちからずっと傍にいてくれた人。無理難題に応えてくれて、私なんかに膝を折って、ルアス軍の人ではなく私達の味方でいてくれた人。


 だから彼をこれ以上巻き込みたくないのに。優しくて、幸せそうに笑ってくれる泣語さんを危ない目に合わせたくないのに。


 ラキス・ギオンに命令を送ってくれた。何を調べたかは知らないが、また私達の為に走らせてしまった。もう十分だ。十分過ぎる。彼をこれ以上ディアス軍に引き止めておくのは申し訳なくて、きっと危険に晒してしまうから。


 だから別れたいのに。敵になりたいのに。どうして貴方は私に愛をくれるのか。


 その気持ちが分からない。きっかけはフォーン・シュス・フィーアだとしても、あれは間違った選択だったのに。


 泣語さんを見つめてしまう。耳の奥で鳴っている心音は大きくうるさかったが、不意に私は気づくのだ。


 今のこの関係こそが――正しくないか。


 泣語さんはルアス軍、私はディアス軍。ルアス軍とディアス軍は敵なのだ。ならばこうして不意をつくと言うのは賞賛すべきことだし、ここで何故と思うことこそ作戦だったと言えるだろう。


 ここに来て正しい関係に戻れそうになっている。それがいい、それでいい、兄さん達とは違う。泣語さん、貴方は正しい。


 思う私は手を握り締めて、りず君とらず君を探すのだ。


 林の中、左後方、大丈夫、大丈夫、大丈夫、焦ってるけど、走ってくれている!


「行かないでくださいメシア。俺は貴方に、」


「離せおらぁぁぁぁあ!!」


 泣語さんの言葉は途中で止まる。叫びながら飛び出してきたりず君が、大きな鋏に変わっているのを見たからだろう。


 以前ハルバードでリフカは切れなかった。だから片側だけではなくて、両側から負荷をかけられる刃がいいと思った。それを受信してくれたりず君はひぃちゃんを捕まえているリフカを挟み、飛びついたらず君が輝いてくれていた。


 りず君の力と鋭さが補助される。


 その鋭利な刃先は確かにひぃちゃんのリフカを切り取って、緋色が空に舞い上がった。


「次ぃ!!」


 叫ぶりず君が私を縛るリフカに切りかかってくれる。ひぃちゃんの牙からは酸性液が滴り落ちて、私の口を塞ぐ植物に噛み付いてくれた。らず君の強い瞬きが、温かい。


「……メシアの心獣だから、この程度だと折れないよね」


 そんな呟きを聞いた気がする。


 私の瞳は泣語さんに向き直り、眉を八の字に下げて笑う彼を捉えたのだ。


 灰色の人。優しい人。自分を二の次にしてしまう、危うい人。


 泣語さん、貴方はいったい何を考えているのですか。


 分からない中でリフカが動き、りず君が弾き飛ばされる。食いついてくれていたひぃちゃんも飛ばされてしまったが、私の口からリフカが外れた。私の口は反射的に三人を呼んでいる。


「ひぃちゃん、りず君、らず君ッ!」


「ひ、さめ、さん!」


「氷雨! 待ってろ、すぐ自由にしてやっから!」


「それは止めてほしいかな」


 泣語さんの声がする。私の耳はその声を拾い、りず君達がリフカで縛り上げられた様を見ていたんだ。


 あぁ、くそッ


「泣語さん」


 私を捕まえているリフカに触れる泣語さん。彼は顔を上げると、やっぱり眉を八の字に下げて笑うのだ。


 なんだよ、なんだよその顔。貴方は何がしたいんだ。


「目的はなんですか」


 私達は動けない。身動きが取れなければ防御だって出来ないし、リフカで窒息させることだって簡単な筈だ。


 毎日毎日祭壇は減っている。増やせないから生贄を捕まえても祀る場所を探さなければいけなくて、私達ディアス軍は完全に不利なのだ。


 そこを突かれた。今、今日、この瞬間に。泣語さんは頭がいい。もしかして、ずっと好機を狙っていた?


 いや、多分それは違う。彼の言葉はいつも正直で、正直だから私は彼を悪い人だと思えなくて、ずるずると今日まで来てしまったんだ。


 ――ごめんな凩。俺、嘘ついた


 そんな時沼さんの声が蘇って、私は奥歯を噛み締める。


 彼の嘘は話し合いの場でのことだった。それまでのことではなかった。彼はずっと私達の仲間でいてくれたのだ。


 考えろ氷雨。相手が本当に考えていることを探れ。見落とせば後悔するかもしれないから。兄さんを知ろうとしなくて、彼と目的が違ったことに気づかなかったんだから。


 同じてつを踏んではいけない。学べ氷雨。


 泣語音央さんは私を殺したいと言う人だろうかと。


 殺したいと、言ったかと。


「貴方を止めることです。メシア」


 泣語さんが答えてくれる。敬語も優しい声も変わることはなくて、私は口を結ぶのだ。リフカはまだ解けない。


「ずっと、ずっと、俺の気持ちは変わりません。俺は貴方に生きていて欲しい。貴方がいない世界には意味がない。だからメシアを止めたいんだ」


 リフカが動いて私の目線が地面に近くなる。足先が地面に触れないギリギリの所。そこまで下ろされた私は泣語さんを見上げて、泣き出しそうなのを我慢しているような彼に言葉を考えるのだ。


「知ってます、知ってます。俺は貴方の気持ちを知ってるんだ。砕けてしまいそうだった貴方の心を見たから、大事なものを亡くした後に再会した貴方は、道を決めていたから。俺は貴方の力になりたかった。けど、だけど、調べて知ったから、貴方は、貴方だけは行かせないって決めたんだ」


 泣語さんの声が震えている。彼は目に涙の膜を張って、私の心音は早鐘を打つのを止めたのだ。


「お願いだから――死なないで、メシア」


 泣語さんは涙を溢し始めてしまう。


 涙の膜は分厚くなり、彼の瞼の淵から零れ落ちていく。


 私はリフカに縛られたままその表情を見つめ、彼は涙を拭かずに言っていた。


「俺が捕まえに行きます。俺が行きますから、だから貴方はここにいてください。大丈夫、上手くやります。だから、お願いだ、行かないでメシア、行かないで」


 酷く心許ない動作で私に手を伸ばした泣語さん。彼の手は私に触れずにリフカに置かれ、私は首を横に振ったのだ。


「ごめんなさい、泣語さん。私は行きます。私が行きます。私が行かなくては駄目なんです。残るのは貴方です」


「どうして、どうしてさ。貴方はいつも俺を思って言葉をくれる。どうして、なんで、俺なんかに優しくしないで、俺は貴方の毒なんだ。お願いだメシア、メシア、メシア、俺だけの救世主、俺の愛しい人、俺が貴方を守ってみせる、今度こそ、だから、お願いだからッ」


 泣語さんの顔が上がる。彼の赤くなった目の縁からは止めどなく涙が溢れていき、私は気づくのだ。


 私は彼の心を、ないがしろにしてきたんだと。


 彼は今まで私に手を差し出し続けてきた。けれど本当は、彼は手を差し伸べて欲しい人だった。


 いつもいつも私に優しくして、甘すぎる優しさをくれて、けれども私は彼に何も返していない。


 返せないでは駄目だ、駄目だ氷雨。出した言葉は戻らないが、それでもこの人に返さなくてはいけないんだ。この人の優しさを享受するだけでは駄目だ。私は彼に返さなければ。


 そうしなければ潰れてしまう。こ必死に酸素を求めるように呼吸する泣語さんが、潰れてしまう。


「行かないで……」


 あぁ、どうして私の周りには、言葉が足りない人が多いのだろう。


 兄さんがいい例。彼の言葉はいつも足りない。なんでとか、どうしてとか、こっちが聞きたいところはぼかして答えて、決して自分の意思は曲げない頑固者。死ぬ可能性が今までの生贄と比べられないほど高いんだって言ったのに、「全部分かってるから」って頭を撫でてくれる人。


 そう言う私も足りてない。兄さんに言いたいことがあるのに、言わなければいけない言葉があるのに、伝えていない愚か者。泣語さんにだって説明とか前置きとか、今までの感謝とかを伝える前に突き放した。


 最低だな、氷雨。


 最低で、最悪だ。


 それでも、そんな私の為にと目の前の人は泣いてくれる。泣いて「行かないで」と縋ってくる。


 私を縛るリフカは震えており、りず君達は何も言わずに事の成り行きを見ていてくれた。


「泣語さん……ごめんなさい」


「ちが、メシア、俺は貴方に謝って欲しい訳ではッ」


「いいえ、謝らないといけません」


 顔色を悪くした泣語さんに弱くも笑ってみせる。そうすれば彼は目を見開いて私を凝視し、リフカが緩んだ気がしたんだ。


「私が貴方を思うのは、貴方が私を思ってくれるからですよ、泣語さん」


 彼の涙が溢れていく。


「貴方はルアス軍で、私はディアス軍だ。だからずっと貴方と仲間ではいたくなかった。優しくしてくれる貴方をいつか私は殺してしまうから。殺さないと勝てないから。だから嫌だったんです」


 泣語さんの肩が揺れる。彼のことを、最初は年上だなんて思わなかったんだっけ。


「優しくして欲しくなかった。助けたことを美化しないで欲しかった。自分が苦しくなりたくないから、貴方の鎖を切っただけなんです。それでも貴方は、私をメシアと呼んでくれた。救世主だと言って、無条件に全てを肯定してくれた。見放して欲しかったのに、救世主だなんて言って讃えられるような人間ではないと、気づいて欲しかったのに」


 リフカが緩んでいく。私の呼吸は、楽になるのに苦しくなった。


「守らないで、救わないで、優しくしないで。そう何度も思った癖に言葉にしなかったのは、誰でもない私です……私は貴方の優しさに漬け込んで、大事な言葉をきちんと伝えず、怠惰に貴方の時間を貰ってきた」


 泣語さんが弱くも首を横に振っている。リフカはどんどん緩んで細くなり、地面に埋まる種子に戻っていくのだ。


「ごめんなさい、泣語さん」


 甘えてごめんなさい。


 貴方を本気で拒絶してこなくてごめんなさい。


 優柔不断な態度でごめんなさい。


 貰うばかりしてごめんなさい。


 沢山の謝罪を一言に詰め込んで、頭を下げる。下げようとしたのに、それを止めたのはリフカではなく泣語さんの手だったんだ。


 私の両肩を持って、首を横に振っている泣語さん。これは、頭を下げたら困らせるやつ。


 だから私は背筋を伸ばして、肩に戻ってきてくれたひぃちゃん達に手を乗せておくのだ。


「違うメシア、甘えたのは、依存したのは俺なんです。俺の手を引いてくれた貴方が、笑ってくれた貴方が、俺のありがとうに、良かったって貴方が答えてくれたから……」


 泣語さんが自分の左胸を苦しそうに掴み、地面に崩れていく。私はそれに釣られるように地面に膝をつき、顔を両手で覆った泣語さんを見つめるのだ。


「俺は、貴方の為に――死にたいのに」


 私の指先が震える。


 狂信的な態度ではなく、今にも枯れて朽ちそうな弱さを纏って吐かれた言葉が、あまりにも重くて、尊くて。


 私は奥歯を噛み締めて、らず君が泣語さんの肩に飛び移って光ってくれる。ひぃちゃんは翼を広げて灰色の彼の背に乗ってくれて、りず君の針が膜のように周囲を覆ってくれた。


 私も手を伸ばす。伸ばすことは許されるのかと叫ぶ自分がいたが、そんな喧騒は潰しておいた。


 私は泣語さんを抱き締めて、頭を叩くように撫でてみる。彼の掌の間からは透明な雫が零れ続け、私はいつか伝えた言葉を送るのだ。


「死なせる為に、助けた訳ではないんですよ」


 届くかな。届いて欲しいな。私は貴方が嫌いな訳ではないのだと。


「生きていて欲しいから……手を伸ばしたんです」


 だから巻き込みたくない。私に縛っていたくない。貴方には貴方の道を歩んで欲しくて、守って欲しくなくて、だから突き放したかったのに。


 泣語さんの手が私の腕を掴み、痛いほど握り締めてくる。私は目を伏せて、嗚咽混じりの声を聞いていた。


「俺もです。俺も貴方には、貴方だけには死んで欲しくないんです」


「……死にませんよ、大丈夫」


「いいえ、いいえメシア、危ないから行かないで……生きていて」


「生きる為に、私達は行くんです」


 伝えれば、泣語さんの震えが止まる。顔を上げた彼は私を見つめてくるから、笑ってしまったんだ。


「死ぬつもりなんてないんですよ。ただ死ぬ可能性があるだけ。それだけなんです。恐れはしません。生きる為に進みます。だからどうか、この歩みを止めないで」


 そう言えば、泣語さんはまた大粒の涙を零して泣き始めた。


 私達は彼を抱き締めて背中を摩り、頭を撫でて目を伏せる。


 いつも私は間違える。兄さんのことに自暴自棄になりつつあって、早く事を進めたくて、泣語さんに対する尊重を無下にした。


「……ごめんなさい」


 謝れば、泣語さんは私の背中に腕を回してくれる。


 その小刻みに震える手は、止まらない涙は、一体何を知ってしまったのか。


 目標だけは変えようとしない私は、何度泣語さんを傷つけてしまうのだろうか。


 ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい。


 泣語さん、私の明日を願ってくれる人。


 貴方ときちんと話をしたことが今まで無かった気がする。私は貴方に膝を折って欲しくはない。私は貴方と対等でありたい。対等な、敵でありたい。


 今こうして傍を離れない時点で、もう敵にはなれないだろうよ。


 相反する意見がずっと私の中にある。それは喧嘩して、喧嘩して、喧嘩して、いつも私の呼吸の邪魔をする。


 それでもいいから。今は目の前の彼の涙が止まることだけを……考えていよう。


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