第153話 平明


 電車に揺られている少女が二人。


 一人は茶髪を肩口から前に流す形で結った少女。名は楠紫翠。彼女は、目を伏せて隣に座る友人の手を握っており、自分の肩に頭を乗せている仲間に頬を寄せたのだ。


 電車がトンネルに入る。光りが遮断されて車内が薄暗くなる。


 けれどもそれは一瞬で、抜ければまた窓の外には青空が広がった。紫翠は友人の手を握り直す。


 紫翠にもたれかかっている黒い短髪の少女。名は凩氷雨。彼女は目を瞑ったまま紫翠と手を繋ぎ、膝に置いた鞄を一定のリズムで撫でていた。


 日曜日の始発の電車。


 氷雨が眠っていたのは三日間。その間学校には夏風邪を引いたと両親が休みの連絡を入れており、やっと日曜日の朝に帰ってきたわけだ。


 氷雨は、母が軽食にと作ってくれた弁当箱を鞄の上から確認する。父から小遣いを渡される辺り、やはり自分はまだ子どもだと当たり前のことを認識し直しながら。


 また目を瞑る。瞼の裏には、数日ぶりとなってしまった両親の姿が浮かんでいた。


 * * *


 泣き腫らした目をした氷雨を見て、両親は必死に涙を堪えていた。


 りずが声を上げて泣き、その体は一回り大きくなっている。


 ひぃは放心した状態のまま、氷雨から離れることは無かった。


 らずは大粒の涙を零し、止めどなく泣き続けている。


 母も父も何があったかは聞かなかった。りずだけが帰ってきた日、心配しなくていいと言われたから。


 だから、どれだけ氷雨の両手に血がついていようとも、服に赤がついていようとも、娘が話すまで聞かないと決めたのだ。


 氷雨は両親の腕の中で黙っていた。血のついた両手を握り合わせ、必死に唇を噛み締めて。細く揺れる両肩は確かに痛いと言っているのに。


 それを口にしない氷雨は不意に鳴った携帯を見る。散漫な動作で両親の腕から抜け出した少女は、携帯の画面をつけた。


 朝日が昇る中で彼女が見たのは、梵がグループに送っているただ一言の電子文字。


 その一言を、氷雨は口に出して読んでいた。


「会いたい」


 氷雨の中で崩れていた感情が光りを浴びる。


 少女はカーテンの間から射し込む朝日を見て、足に力を入れて立ち上がった。


「氷雨」


 言葉を探して、心配で胸が張り裂けそうな母は娘の手を握る。


 白い手袋越しに温かさを感じた少女は、数日ぶりに再会した両親に笑ったのだ。眉を八の字に下げて、泣き出しそうな顔で。


「仲間に、会ってくる」


 そう言ったから。


 誰でもない氷雨が言ったから。


 両親は顔を見合せて手を離し、笑い返したのだ。


「お弁当、作ろうか」


 * * *


「氷雨、紫翠、次の駅だ」


 りずの囁きが聞こえる。


 紫翠と氷雨は揃って目を開けて、今しがた発車した駅を確認してから伸びをした。彼女達と梵がいる県は新幹線で行くほど遠くはなく、それでも一時間以上は離れている場所だ。


 氷雨は携帯の画面を開き、肩を貸してもらっていた紫翠に今度は肩を貸す側となる。


 紫翠は疲れきった顔で氷雨の携帯画面を一緒に覗き込み、電子の文字を追った。


 一番に梵の〈会いたい〉に返信したのは祈である。


 〈会えますか〉


 その文字は祈が精一杯考えた文字だとすぐに分かり、次に返事を送ったのは氷雨だ。


 〈会えます〉


 次に返信したのは意外にも紫翠。


 〈ゆう山城やましろに行きたい〉


 夕の山城。


 それは梵がいる県と、祈と帳がいる県、紫翠と氷雨がいる県のちょうど中間にある観光名所。夕日が綺麗に見える為に「夕の山城」と言う名で広まった場所だ。


 小高い丘の上にあるのは由緒ある城。出入りは券さえ買えば自由に出来る自然豊かな場所である。


 誰も反対する理由などなく、目的地となった場所への始発電車に飛び乗った紫翠と氷雨。駅でお互いを見た少女達は挨拶も出来ないまま電車に乗り、隣同士で座ったのだ。


 〈行く〉


 最後に来たのは帳からの返信。それには流石に驚いた氷雨達だったが、直ぐに五人で集まることにした。


 電車がホームに滑り込み、一時間と少しの旅が終わる。紫翠は氷雨の手を握り締めたまま立ち上がり、二人揃ってホームに足を着いた。


 反対側のホームに電車が滑り込んでくる。氷雨はその列車の最後尾で視線を止めて、降りてきた少年達を見るのだ。


 帳と氷雨の視線が合う。


 紫翠は氷雨の手を引いて少年達へ歩み寄った。そのままふと氷雨の手を離すと、紫翠は梵に向かって倒れ込む。


「す、」


 梵が紫翠を呼ぼうとする。しかしその声は、紫翠が梵の鳩尾を殴ることによって止められた。殴られた彼は口を結び、特に痛い訳では無いのに涙を溢れさせる。


 それに驚くのは、誰でもない梵自身である。


「お、おぉ、おぉぉ……」


「そ、梵さん……楠さん、そんな、殴らなくても……」


 梵の涙を見て泣き出したのは祈。


 彼は肩から提げたビニール製の袋を抱えて目を潤ませた。


 栓を失ったように泣き出した祈の頭を梵は撫でる。そんな青年も泣き続けており、もう片方の手はゆっくり紫翠の頭を撫でていた。


「……いや、せめてホーム出てから泣いてくんない?」


 帳はため息をつきながら言葉を零す。


 確かに、始発の電車と言えどホームは彼らだけではない。氷雨は口角を上げて黙っており、両手は鞄の紐を握り締めていた。


 彼女の目の縁は赤い。帳はそれを見て氷雨の手を取ると、深呼吸をしながら歩き出した。


 梵は祈と紫翠と手を繋いで、帳の後を追う。


 帳は氷雨の手が振りほどかれないことを確認しながら、改札をゆっくりと出て行った。


「……泣いちゃ駄目だとは言ってない」


 帳の声は余りにも小さく、隣にいる氷雨にしか届かない。


 少女は目を見開いて口角を上げ続け、空を勢いよく見上げたのだ。


 夏模様の青空がそこには広がっている。純白の雲と青く飲み込まれてしまいそうな空。太陽光は燦々と早朝の世界に降り注いでおり、それはアルフヘイムの空とよく似ていたのだ。


 * * *


 夕の山城まで行くにはロープ―ウェーか山道を歩く必要がある。朝早すぎる時間ではまだロープ―ウェーは稼働しておらず、五人はなだらかな山道を歩くことにした。道中は無言であり、誰しも話題を考える気力すら残っていない。


 十五分ほど歩けば目的地に辿り着き、やはりまだ開門されていない山城を紫翠達は見上げ、より奥の原へと歩いて行った。


 原の向こうは崖となっており、それ以上先へは進むなという杭が打たれている。帳達はその杭の近くに腰かけて、無言で空を見上げた。


 梵の目から再び涙が溢れていく。止めた筈のもの。止めなければいけないと思うのに止められないもの。


 頬を流れていく涙は温かく、梵の心から何かを吸い出してしまうようだった。


「俺と、氷雨は、どう、なるん、だろう、な」


 声が震えてしまいそうになる梵。彼は目を閉じて後ろへと倒れ、涙が止まらない目を両掌で押さえつけていた。


 氷雨は鞄を下ろして笑っている。固まったような彼女の頬を見た祈は少女の背中側に移動し、軽く体重をかけるように座った。


「……呪いをもう一度、かけられるかなぁ」


 氷雨が呟き、彼女の膝に紫翠は頭を置く。膝枕の形で目を閉じた少女の目からも、透明な雫が細く零れていった。


「そんなことさせないわ。させたら、無駄になってしまうもの」


 何がとは紫翠は言わない。言わないまま世界から目を逸らして、片翼を失った自分の兵士を思い浮かべるのだ。


「……一日何もせず、アルフヘイムで過ごしちゃいましたしね……また、生贄集めなきゃ」


 祈は膝を抱えて、形が定まらないルタが入った鞄を抱き締める。


 ――アミ―とエリゴスが消えてしまった後、祈達は泉から動くことが出来なくなったのだ。


 いや、足は確かに動いた。泣いて、泣いて、叫んだ後、まだ生きているオリアス達の治療に手を伸ばしたのだ。


 血だらけになろうとも、腹に風穴が開こうとも一命を取り留めた兵士達。


 泣きながら力を使った梵と氷雨はそれでも意識を飛ばすことは無く、呼吸を整えたストラス達に真っすぐ歩いていくようにと指示を受けた。先導したのは兵士の中でならばまだ動けるヴァラクだ。


 相良の腕の傷も治癒力の倍増化により塞がれ、彼と時雨、光も同行して歩くこと数分。


 突如開けた場所に広がったのは、無数の墓の山。


 氷雨達は目を見開き、先導したヴァラクの声を聞いていた。


 ―― 戦士達の墓だよ。何も埋まっていなくとも、忘れてしまわないように。彼らへの手向けとして……俺達の罰として


 そう言葉にしたヴァラクは泣いていた。


 アルフヘイムでは死ねばいつか光りとなって消えてしまう。それは命がこと切れる瞬間かもしれないし、冷たくなって数日後かもしれない。


 ―― ……スクォンクが墓を作っていただろう。あれを教えたのはエリゴスだ。泣くだけだった住人を見かねて、泣くだけが弔いではないだなんて言ってな


 氷雨の中でパズルが噛み合ったような感覚が生まれ、少女は無表情に泣き続ける。


 消えてしまうまでの間を埋める為、スクォンク達は墓を作っていた。


 それは、そうすればいいと教えた者がいたからだった。そして、どうしてグレモリーがもう墓を作りたくないなどと言っていたのか、少女は知ったのだ。


 ――その日、氷雨達はその場を離れることが出来なかった。離れられないまま一日を終えてしまった。


 残りの祭壇数は十九へと減ったと言う。


 生贄の数は四人の所が出来ていたが、壊されてしまったと言う。


 祭壇をディアス軍は増やせない。ただ壊されていく。ただ減っていく。


 どれだけ生贄を集めても救われえる。どれだけ努力しても、勝利への道が閉ざされて、希望が消えていく。


「……生贄の条件、覚えてる?」


 アルフヘイムで過ごした自分達を思い出し、氷雨は誰にともなく問いかけた。


 帳は氷雨を見て、彼女が無表情に泣いていると気付く。


 紫翠は目を開けて、祈は口を結んだ。


 忘れたことなどない。自分達が正しいと思って決めた大事なしるべ


「覚えて、いるよ」


 梵と呟き、帳は先を続けた。


「シュスに住む誰もが悪だと言い、俺達の尺度で測った時も悪だと言える、その人」


 氷雨は口角を上げる。彼女は目を閉じながら「うん」と頷き、紫翠と手を繋いでいた。


「ここからは、私の独り言だよ」


 彼女はそう前置きをする。敬語を止めて、その方がいいと言ってもらえた喋り方で。


 帳は、涙を流し続ける氷雨を見つめていた。


「ディアス軍の兵士の人達は、競争が嫌いみたいで。長の人達にも反発して……アミ―さんは、幸せを願ってくれて」


 氷雨が紫翠の手を握る力を強める。祈は顔を上げ、氷雨は空を見上げていた。


「この競争を好きな人なんて、いないと思う。誰しも苦しいだけの……少なくとも、ディアス軍の兵士の人達は苦しいと感じてるような競争は、間違ってる」


「氷雨」


 紫翠が確認するように友人を呼ぶ。呼ばれた少女は笑ったまま、空いている片手を紫翠の頭に乗せた。


「悪は誰だろう」


 それは誰に対しての問いなのか。


「みんなが悪だと言うのは、誰だろう」


 答えを既に出している問いは、問いと言えるのだろうか。


「誰を生贄にすることが正しいだろう」


 氷雨は目を開けて、吹き抜ける青空を見つめる。


 青い兎の被り物。磨きあげられた赤い硝子の双眼。いつも底抜けに明るい印象があったのに、被り物を取ればぎこちなくしか笑えていなかった、優しい兵士。


 少女は言う。


 自分の心を。


 自分が思う悪を。


 悪だと言われるのではないかと考える者を。


「悪は――中立者だ」


 風がそよぐ。


 音が無くなる。


 子ども達を撫でていた風は自然の風で、帳が操るものではなかった。


「私は、そう思うよ」


 氷雨は独り言を締めくくる。その独り言に答える者は誰もおらず、代わりと言わんばかりに少女の黒髪が風に引かれた。


 それは意志ある風。


 見れば胡坐あぐらをかいた膝に肘をつき、掌で顔を覆っている帳がいた。その姿を見た氷雨は笑ってしまう。涙を止めて笑ってしまう。


 帳は深いため息をつき、氷雨の髪を引いていた。


「……神様を生贄にする気?」


「……うん」


「悪人だと思うから?」


「まだ意見は集められてないけど……私はね」


「一人で?」


「だってこれは、私の考えだから」


 氷雨は肩を竦めて笑う。帳は少女を穴が空くほど見つめ、紫翠も祈も口を開かない。梵は言葉を考えており、涙は自然と引いていた。


 誰よりも早く口を開くのは、ピアスを沢山つけたチグハグな少年。ずっと氷雨と共にいる空気の戦士。


 彼はいつの日かのように腕を軽く広げ、仕方がなさそうに笑っていた。


「氷雨ちゃん、君は君のままでいい。君が思うように、決めたように進んで行こう」


 その言葉が、氷雨を救う。


 下を向きながらも、一人で歯を食いしばって進もうとした少女の背中を押す。顔を前に向けさせる。


 氷雨は目を見開くと同時に再び泣き始め、帳は彼女の頬を風でゆったりと撫でていた。


「何処までも一緒に行くって言った筈だけどな。一人で決めるなんて狡いなぁ」


「……ごめん、ごめん、ごめんなさい」


「謝るくらいなら連れてって。一緒に行こう、地獄の底へ。いや、神様の所に行くから天国かな?」


 茶化すように帳は笑う。氷雨も釣られて笑っており、それでも涙は頬を伝っていく。


 紫翠は体を起こすと、氷雨の頭を優しく小突いていた。


「お兄さんを殺すのは?」


「……中立者さんを生贄にした後にでも、頑張る」


「そう、そっか、そうね」


 紫翠は微笑んで氷雨の頭に頬を寄せる。その顔は、陰りが晴れたように血色が戻っていた。


「貴方は決められる子ね、やっぱり、どうして。そういうところ、すごく好きよ」


「嬉しい。私も翠ちゃん、大好きだ」


 氷雨は涙を拭きながら笑い、紫翠と手を繋ぐ。帳は口を結んで口角だけ上げており、祈は「俺も」と拳を握った。


「俺も行く。悪を捕まえたい。兵士に聞く。悪だと思うか、どうなのか。絶対言うと思うけど」


「なんで片言なのよ」


「なんか、話が壮大だから……うん、頑張る」


 祈は一人納得したように頷いて、呆れたように紫翠は息をつく。氷雨は空いている片手で背後の祈の手を取り、少年は頬を弛めながら握り返していた。


「行こう、氷雨さん。悪だと思うか確認して、終わったら中立者の所へ。顔も何も知らないけど、俺も中立者は、悪だと思う」


「うん、ごめんね祈君」


「ここは……ありがとうだと、嬉しい」


「……ありがとう」


 氷雨は笑って、祈と後頭部を合わせておく。


 不意に勢いをつけて起き上がったのは梵で、青年は涙を拭いた無表情でそこにいた。


「エリゴスの、かたきが、取りたい。明日も、みんなと、生きていたい。だから、勝とう。競争に、中立者に」


「そのつもりだって」


 帳は息をつきながら答え、「お、」と声を漏らす梵を見る。青年は微かに口角を上げて頷き、同時に腹の虫を鳴かせていた。


 五人は顔を見合わせてから梵の胴体を見る。彼は鳩尾辺りを押さえて、片言に言っていた。


「腹が、減った」


 暫し黙る子ども達。


 それから誰かが吹き出して、肩を竦めて笑ってしまう。


 笑って、笑って、笑って、また少し泣いて。


 落ち着けば、氷華特性のサンドイッチを詰め込んだお弁当を氷雨は出し、量を作ってくれた母に感謝するのだ。仲間に会いに行くと言っただけなのに、二段の弁当箱を持たせてくれた母に。


 最後の晩餐などではない。これは最初の朝食だ。


 進めば、死ぬか生きるか。


 両極端の結果しかない道を選んだ彼ら。


 しかしよく考えれば、今までもずっとそうだったのだ。


 生きるか死ぬか、ただその二択。選んできた、生きてきた。


 幸せを願われて、「生きろ」と言われた二人は進むだけでは耐えられなくなっていた。


 だから選んだ。いつも戦士としての正しさを選び続けてきた、少女が目指した茨の道を。


 彼らはディアス軍の戦士。


 祭壇を建て、生贄を六人集めて祀らなければ生きられない。


 勝たなければ忘れられる。


 彼らはそんな生贄に条件をつけた。


 一つは各シュスで一人までだと。


 そして一つは、シュスの誰もが悪だと言い、自分達の尺度で測った時も悪だと言えるその人を。


 だから彼らは考えて、聞いて、選ぶのだ。


 悪を殺すと決めたのだ。


「……へぇ」


 そんな子ども達を、少し離れた場所から見つめる黒がある。


 黒は目を細めると腕を組んで踵を返し、言葉を零していた。


「ディアス軍長、メタトロン、アルフヘイムへ」

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