第147話 刻刻

 あぁ、ほら、助けなきゃ、進まなきゃ。


 仲間の為に、自分の為に立ち止まるな。


 切り捨てる覚悟はしただろう。


 どれだけ痛くても……したんだろ。


 * * *


 どれくらい泣いてしまったのだろう。


 やっと涙と嗚咽を止めることが出来た時、私の時間感覚はあやふやになっていた。


 どれだけ兄さんに縋っていたのか分からない。どれだけ涙を零したのかも分からない。ただ分かっているのは、兄さんがずっと私の頭を撫でてくれていたことだけだ。


 この温かさに溺れてはいけない。窒息する。酸欠になる。動けなくなる。身動きがとれなくなる。


 それでも、温かさを得た者がそれを手放すのは勇気がいるから。私は今一度、兄さんの服の裾を握り直したのだ。


 ゆっくり深呼吸して目を開ける。滲んだ視界と重たい瞼は泣き過ぎの証明だろう。


 私は意を決して兄さんから手を離す。兄さんの手は私の頭を叩くように撫でてから痣へと移り、私はその手を拒絶した。


「氷雨」


「言ったよ、絶対嫌だって」


 眉間に深い皺を刻んだ兄さんに続きを言わせない。痣なんてあげない。絶対に移さない。


 私は兄さんの腕の中から立ち上がり、後ろに距離を取った。


 温かさは駄目だ、駄目なんだ。弱くなる。グズグズに、ドロドロに、溶けて混ざって固まってしまえば、私は弱さに足を取られてしまう。


 だから駄目だ、絶対駄目だ。


 私の肩に緋色のお姉さんが戻ってくれる。


 兄さんは立ち上がり、白玉さんに乗った屍さんと、腕を押さえた時沼さんが近づいてきた。三人と対面する形になる。


 お城近くの地面からは白いシルエットの人が二人出てきて、恐らく頭が茶色い方が早蕨さんなんだろう。


 左腕にりず君が巻き付いて片側が勢いよく伸びる。その先は早蕨さんだと思われる人を掴み、頼れる伸縮性によって私の元まで引きずってくれた。


 あ、今になって悲鳴が聞こえたな。


 私の横に強制的に連れて来られた早蕨さんは、息切れを起こしながらこちらを見下ろしているようだった。


「ひ、ひさ、氷雨さん、急にどうされたんですか。あの、全く役立っていなかったことは重々承知しているんですが、ご無事ですか、って殴られたんですか!?」


「早蕨さん、収穫はありませんでした。行きましょう」


「え、ちょ、お!?」


 ひぃちゃんが翼を広げてくれる。りず君は早蕨さんを捕まえ続けてくれて、らず君は輝くのをやめてくれた。


 兄さん達の声はもう聞こえない。


 兄さんの表情は伺えない。


 自分の影が揺らいだように見えて、一瞬早くひぃちゃんが翼をはためかせてくれた。


 足が浮く。影から伸びた白い手が私の爪先を掠っていく。


 影から出てこられたのは闇雲さんのようで、彼に気を取られている隙に目の前に転移してきた人がいた。白い服と金色に染められた髪が確認出来る。


 私の肩を掴んで地面に戻そうとする彼の顔は霞んで見えなかった。


「行くな凩、頼むから」


 時沼さんの足が地面に着く。彼の横に現れた闇雲さんもこちらを見上げているようで、らず君は輝いてくれた。


 目と耳を補助する為ではない。りず君で掴んでいる早蕨さんを落とさない為だ。


 時沼さんは私の肩から二の腕へ、二の腕から前腕へ、前腕から手首へと掌を滑らせて縋ってきた。


 彼は飛べない。飛べる翼を持っている私の肩を掴み続けるなんて出来ないよね。


 痛い程に私を掴んでいる時沼さんの顔は、やっぱりどうして霞んでいた。


「凩、俺でいい。時雨さんに移さなくていい。俺にくれ、その痣をッ」


 大きな声を出したんだろう。


 時沼さんの声が小さく聞こえた。小さく届いた。


 あぁ、嫌だな、嫌だよ、嫌なんだ。


「時沼さん」


「頼む、嫌だ、もう嫌だ、嫌なんだ!」


「時沼さん」


「俺にくれ、俺はいい、俺でいいッ」


「ねぇ、時沼さん」


「時雨さんじゃなくていい。俺が貰うから、だからッ!」


 時沼さんの顔が上がったように思う。


 その目は私を映しているのだろうが、私の目にはぼやけた君しか映らないんだ。


 彼らの声を聞いていたくない。


 君の姿を見ていたくない。


「死ぬな、凩ッ」


 そんな声で願わないで。


 叫び出したくなるではないか。


 * * *


「ほんと、役立たずで申し訳ないです……」


「私も早蕨さんを助けることが出来ませんでしたから……あの、お気になされず」


 青い空の中を飛ぶ。早蕨さんをりず君で釣ってる状態で。


 数分間ほど謝り合戦をした私達ではあるが、どうにも決着が付かなかったのでお互い黙って強制終了させた。精神的によくないからね。


「それで……氷雨さん、良かったんですか?」


 沈黙の時間を破ったのはやっぱり早蕨さん。布状のりず君にぐるぐる巻きにされている彼は言葉を選んでくれたようだった。


 カラドリオスの盆地を離れ、ひぃちゃんに飛んでもらってどれほど経ったっけ。


 片翼に穴が空いているひぃちゃんは、それでもしっかり風を掴んでくれていた。らず君は私の目と耳だけでなく腕力も補助してくれている。


 あぁ、彼らには本当に感謝しなくてはいけない。ありがとう、ごめんね、大好き。


「良くなかったと思いますか?」


 早蕨さんの質問に質問で返す。はぐらかした訳では無いが、答えた所で文言は決まっている。先に早蕨さんの意見を聞きたいと思っただけだ。深い意味は無い。


 早蕨さんは少し黙ったようで、上から見ている私では口元が確認出来ない。それを彼も分かってくれているのだろう。喋る時はきちんと上を向いて、私に分かるように大きな声を出してくれたもの。


「俺には分かりません」


 少しだけ意外な答え。私は一瞬黙って、正直に言っておいた。


「意外です。早蕨さんは痣を移すなんて断固反対だと、賛成してくださるものだと」


「んー、いや、勿論その考えもあるんですが……時雨さん達の気持ちを考えると、諸手を挙げて氷雨さんに賛成は出来ないな、と」


 早蕨さんは困った顔をして首を傾けている。私は気のない返事をして視線を前に向けた。


 目的地が決まっていない。決まっていないのに何処に向かおうと言うのか。


「氷雨さんは正しかったと思うんですか?」


 また聞かれる。鼓膜はその音を何とか拾い、らず君が揺れていた。


「正しくないと思うなら、拒否なんてしませんよ」


 痣を兄さんや時沼さんに移すだなんてしたくない。代わりに誰かに死んで欲しくなんかない。私の代わりに誰かを犠牲にするなんて、そんなの耐えられる自信が無い。


 一瞬浮かんだのは、梵さんの痣を私に移せばいいのではないかと言うこと。


 そうすれば、呪いを解く方法が万が一にも見つけられなくても、少なくとも梵さんは生きられる。


 そこまで考えて止めた。


 これは翠ちゃんに怒られるやつだって思った。祈君を傷つけることも目に見えた。もしかしたら帳君の心を抉る可能性だって否めない。それに、きっと梵さんは私に痣を移してはくれない。


 私は誰かに代わって欲しくなんてない。きっと梵さんだってそんな結末望んでない。


 分かってる。分かってるんだよ、頭では。


 それでも、生きて欲しいと思う仲間の為ならばと囁く自分がいるのも事実。


 これは誰だ。自分を正当化して英雄になりたいわけでもあるまいし。


 自分が死ぬ事で誰かが助かるならば――


「あ、そっか」


 呟く。


 これは完全な独り言。


 とつぜん理解出来たが故の意味無き呟き。


「……同じか」


 再び体の芯がぶれた気がする。


 瞼の裏に浮かんだのは兄さんの姿。抱き締めてもらった温かさや頭を撫でてもらえた優しさが染み込んで、私の足を搦めとる。


 兄さんも同じだった。


 私が梵さんに死んで欲しくないと思うように。翠ちゃんに頑張りすぎないで欲しいと思うように。祈君に自分を責めないで欲しいと思うように。帳君にどうか不安がらないで欲しいと思うように。


 兄さんも同じだったのではないか。


 あぁ、やめろ考えるな。


 殺せなくなる。殺せなくなる。殺せなくなる。


 あの人の亡骸を抱いて、消えていくのを見届けられなくなる。


 だから考えるな、氷雨。


 考えては駄目なんだ。


 思っていれば早蕨さんの声がする。少し声量が足りないようで聞き取れなかったが、真剣に私を見上げている彼に気付いて余計に首を傾げてしまうんだ。


 答えを待っているような顔だが聞き返させて欲しい。


 もう一度を願おうとすれば、先にひぃちゃんが言ってくれた。


「早蕨さん、氷雨さんが聞き取れなかったのでもう一度どうぞ」


「あ、ごめん!」


 お姉さんの言葉に慌てて謝罪する早蕨さん。彼は一度咳払いをするような動作をして再度私を見上げていた。首、痛くないかな。


「氷雨さん、一緒に頑張りませんか」


 急に。


 何。


 頑張るの主語を理解出来ない私は、より首を傾げて黙ってしまう。


 頑張るって何を。呪いを解く方法を探すことならば現在進行形で頑張っているのだが、多分言い方からしてこれではない。


 だがそれならば、一体彼は何を一緒に頑張りたいんだ。


 黙って考えたが答えが出ないので、「何をですか」と聞き返す。


 早蕨さんは呆れも怒りもなく、真剣な顔のまま教えてくれた。


「みんな揃って、この競争を終わらせませんか」


 考えることを止めてしまう。


 私は口を無意味に開閉させて押し黙る。


 みんな揃って競争を終わらせる。


 それは夢だ。尊い夢。現実にありえる可能性なんて低過ぎる、理想であり幻想でしかない。早蕨さんが言うように選挙で全て決まればどれだけ良いか。


 そうすれば戦士なんていらなくなるだろう。みんな死ななくていいだろう。


 だがどうだ、その尊さを願って口にした結果が今の私だ。梵さんだ。私達はただ、競走なんてなければいいのにと口にしただけだ。


 あぁ、優しくない。ディアス軍は優しくない。早蕨さんが羨ましい。


「……今、そんな所まで考える気はありません。私は梵さんと自分の為に呪いを解く方法を探します。もし付き合いきれなくなったのならば、どうぞ言ってください。下ろしますから。他のディアス軍の方でも、」


「いいえ、氷雨さん、貴方じゃないと駄目なんです」


 言葉を遮られる。私は唇を結び、早蕨さんを見下ろした。彼の目は私を見ている。私の奥を見ている。私自身が見たくない、知りたくないと思う奥を見ようとしている。


 やめて、見ないで、知らないで、探らないで――気づかないで。


 そう言う前に早蕨さんは続けていた。


「俺は氷雨さんだから誘うんです。真っ直ぐ進む貴方だから。自分の為だと言いながら、誰かの為に頑張れる貴方だから声をかけ続けているんです。他の誰かでは駄目だ。凩氷雨さんだから俺は食い下がるんです」


 あぁ、心臓が握られた。


 喉が締め付けられた。


「氷雨さん、答えは今ださなくていいです。呪いが解けた先で、どうか良い返事を」


 願われた。


 笑顔を向けられた。


 私は奥歯を噛み締めて、青い空を見上げるんだ。


「理想を抱いて死んだ人を知っています。夢を描いて殺された人を見たんです。その人達を救いたいと思った代償がこの呪いです」


 目的地を決めよう。私の翼が迷ってしまうその前に。


「……呪いを解きます。良い返事は期待しないでください」


「はい、期待してます!」


「……しないでって言ったんですけど」


「期待します!!」


 会話が出来ない。


 ため息をついて、少し先に見えたシュスに向かって片腕を振る。この際ディアス派だろうがルアス派だろうがなんでもいい。突撃しよう。情報を求めて。何も得ないよりマシである。


 必ず見つける。見つけてみせる。この呪いを解く方法。


 明日アルフヘイムに来れば声が出なくなってしまうから。


 残された時間は多くないから。


 探せ氷雨、我武者羅に。


 集中しろ、集中しろ、集中だ。


 求めるものだけ探していろ。


 他のことに……他の誰かに気を取られるな。


 そんな時間はもうない。


 もう、ないんだ。

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