第137話 寂声


 優しい人になりましょう。


 困っている人には手を差し伸べましょう。


 みんな仲良く致しましょう。


 喧嘩はいけません。


 相手を傷つけることはしてはいけません。


 自分がされて嫌なことはしません。


 やり返してはいけません。


 みんな仲良く致しましょう。


 ――そんな道徳論は破綻した。


 エントさんの幹の中。昨日の部屋から一つ上の階で、大きな木製の円卓に着いて。


 一緒に座っているのは、早蕨さんと兄さんである。


 三角形の頂点に位置する関係で他の人は外にいる。


 この状況の発端は早蕨さん。


 意を決してアルフヘイムにやって来たのに、兄さんに会う前に早蕨さんに捕まったのだ。ポケットに入れていたガーゼで痣を隠し終わった瞬間に。


 ――三十分でいい! 時間を下さい!!


 流石にいぶかしんだ。


 普通に嫌だったので断ったが、拝み倒されてはどうしようもない。残っているなけなしの良心が邪魔をするのだ。


 今エントの幹の中にいる三チームの、代表三人での座談会。


 代表なんて私は務まらないと申したのだが、翠ちゃん達四人に推薦されてしまっては引き下がれない。


 結局、渋々、仕方なく、不本意ながら席に着けば、後二人の代表は早蕨さんと兄さんであったと。


 マジかよ。帰るわ。帰りたい。帰れない。詰んだ。


 私は、お腹の底から出そうなため息を飲み込んだ。


 兄さんは「三十分だけだ」と最初に言って、早蕨さんは真剣な顔で頷いていたっけ。


 肩に乗っているりず君とらず君は緊張しているようで、ひぃちゃんは嫌に冷静であると背中越しに伝わってくる。


 私はお姉さんの額を指先で撫でて、口を開いた早蕨さんを見た。


「俺はルアス軍、体感系戦士の早蕨光と言います。よろしくお願いします」


「……よろしくお願いします」


 改めて挨拶されたので一応会釈と挨拶をしておく。早蕨さんはそれに安心したように笑い、私は視線を明後日の方向にずらすのだ。


 笑えないな、居心地悪い。


「お二人も是非!」


 嬉々とした顔で促されたが、公開処刑でしかないな。


 私は兄さんを見て、向こうもこちらに視線を向けていたと目が合って気づく。


 視線を逸らさない私は兄に先を促しておいた。兄さんの雰囲気が息をつきたいと言っている気がする。


「凩時雨」


「……凩氷雨です」


 茶番かな。


 考えつつ早蕨さんに目を向ければ、案の定目を見開いている彼がいた。


 残念ながら、目の前の人とは十何年寝食共にした仲なんですよ。


 腕を組んだ兄さんは軽く息をついていた。


「本題は」


 兄さんの目は話し合いに興味ないと示している。ただ時間を取ったから聞くだけ聞くと言う感じ。


 早蕨さんは姿勢を正すと一度目を伏せて、はっきりとした口調で教えてくれた。


「俺は、ルアス軍の戦士もディアス軍の戦士もこれ以上欠けることなく、競走を終わらせたいんです。その為の協力を申し込みたくてお時間を頂きました」


 あぁ――強い人。


 どれだけ跳ね返されて、跳ね返されて、跳ね返されても折れない強さを持った人。


 そう感じながら、早蕨さんから兄さんに視線を移す。


 今日も美しい兄は腕を組んだまま首を傾けた。その無表情は一体何を考えているのか、今日も今日とて分からない。


「具体的内容と成功する根拠はあるのか?」


「はい。おさと話をつけることがより良いと考えています。ルアス軍の長とディアス軍の長。この競走の意味は次の統治軍の選定です。その為に俺達は選ばれて生贄と祭壇を争っている。ならば根本である両軍の長と対談し、別の統治軍の競走方法を提案してはどうかと思うんです」


「別の競走方法は何を提案する」


「アルフヘイム全土での選挙です。どちらの軍が良いか、どちらの軍が統治するべきか。この競争についてアルフヘイムの全住人が周知しているならば、宣伝期間を設けての投票も不可能ではないかと」


「不毛だな。ルアス派はルアス軍に入れるだろうし、ディアス派はディアス軍に入れる。今いる比率で決着が着くだろ」


「いや……多分、目に見えてる派閥と投票数は変わると思う」


「あ?」


 兄と早蕨さんの会話に口を挟む。


 兄さんは眉間に皺を寄せつつ私を見て、早蕨さんの目は輝いていた。


 いや、そんなに期待しないで欲しい。


 私は胃を摩った。脳裏に浮かんだのは泣いていた住人さんと、断罪が根強く残る職人のシュス。


「今の宗派から変わるにはシュスの全住人の了承と、長と中立者さんの許可がいるらしいから。ルアス派であっても内心はディアス派になりたがってる住人さんはいる。だから早蕨さんの方法でいけば、票数は分からないよ」


「なんでそんなことが分かる」


「ルアス派だけど、ディアス軍の勝利を願ってくれた住人さんを知ってるから」


「名前は」


「スクォンクさん。泣いて泣いて、悲観者であることが宿命の住人さん」


 兄の語尾はよく分からない強さを孕んでいる。


 いつもそう。目障りなものは排除して、自分に関係することだけを考える合理主義者。それが兄さんと言う人。何もかも知っている訳では無い為、恐らくではあるが。


 兄さんは「そうか」と言葉を続けた。


「ならお前は早蕨光に協力するのか?」


「いや、それとこれとは別。協力は出来ない。しない」


 早蕨さんに視線を向ける。彼は食い入るように私達を見つめており、断られるのも前提にしていたのだと感じられた。


 私は視線を逸らして、早蕨さんに聞かれた。


「凩さん。いや、どちらも凩さんですね……氷雨さんは、いつも協力は出来ないと言われますね」


「……出来ませんから」


「貴方は何を恐れているんですか?」


 問われる。何を恐れるか。


 フラッシュバックしたのはグレモリーさん達の背中と、笑っていたメタトロンさん。


 滴る血液、投げられる体、守れなかった事実、青い火柱、絶対的な敗北。


 腕に鳥肌が立って頬に痛みが走る。じっとりとこめかみを伝った冷や汗は私の弱さを象徴するようだ。


 私は机の下で両手を握り、視線を下げていた。


「友達が死ぬこと、自分が死ぬことを私は恐れています。希望を抱いてそれが砕かれるのが怖い。私達の命を何とも思わず摘み取る長が怖い。私達は駒であると嫌というほど叩きつけられて来た中で、長達と話せるだなんて私は思わないし、想像すら出来ません」


 あの手。あの、赤く染まった黒い人の手。


 あれは私達を物として扱える手だ。命を手折たおることに躊躇を感じない手だ。それが怖い。とても怖い。


 私達にどうこう出来る自由など与えられていないのだ。


「早蕨さん、この競走の目的を貴方はきちんと理解していた。理解していながらどうして進めるんですか。別の道を開拓出来るんですか。私にはそれが分からない。私達に自由意志は与えられていないのに、消耗品だと思われていると分かっているのに……早蕨さんは、自分が使う消しゴムや鉛筆の言葉を信じますか? チェスの駒の言葉を聞きますか?」


 私は聞けない。


 もしそれらが喋り出せば恐ろしくなって仕舞い込むか、ゴミ箱に投げ捨てる。そんな意味の分からない要素いらないのだから。


「信じますし、聞きますよ」


 あぁ、眩しい。


 思う私は奥歯を噛んだ。


「俺の考えや見解だけが全てではないと知っていますから。だから聞きます。聞いて考えます」


「その見方を長も出来ると思うのか」


 兄さんが呆れを含んだ声色で聞く。早蕨さんは私から視線を外すと、しっかりと首を縦に振った。


「出来なくても、出来るまで話し続けます」


「その間に他の奴が決着を着けたら」


「今、生贄の数が最も多いのは氷雨さん達の祭壇でまず間違いありません。ルアス軍の戦士も毎日生贄を救っていて、拮抗状態が続いていると俺の兵士が言っていました。だから、氷雨さん達がこれ以上生贄を集めない、俺達が祭壇を壊しても意識の無い生贄の方を救うことは出来ない。この点が保たれれば、本当に決着が着くことは無いに等しいかと」


「いいや、俺達の誰かが裏切って意識を抜く戦士を殺せば決着は着く。戦士が死んでも継続し続ける能力はねぇからな」


 その言葉は――いけない。


 感じて、全身に血が回る。


 私の右手は長槍となったりず君を握り、立ち上がっていた。


 兄さんの喉笛に槍のきっさきを当てる。あと数mm力を込めれば綺麗な喉には穴が開き、横に腕を動かせば血が飛び散るだろう。


 椅子が倒れる音が部屋に木霊こだまする。


「氷雨さん!!」


 つんざくような早蕨さんの声がする。


 私は呼び声に返事をせず、兄さんを見つめていた。


 黒い双眼と視線が交わり、逸らすことはしない。


 兄さんは組んでいた腕を外して私を見上げ、右手は刃を握り締めた。


 皮膚が裂ける感触がりず君を通して伝わってくる。


 兄さんの右手からは赤が滴り落ちて、輝くらず君に補助された嗅覚が鉄の匂いを拾った。


「氷雨、お前の弱さはそこだ」


 兄さんが立ち上がる。


 槍を突き返すように力が込められ、私は両腕を負けじと前に押し出した。


 兄さんの喉が微かに刃を掠めて切れる。


 流れる液体は彼の首筋から鎖骨を伝い、白い襟に吸い込まれていた。


 力を込めたせいで腕が震える。


 本当に?


 うるさい黙れ。


「今、お前は俺の首をはねられた。それなのに威嚇で止めた。そこが弱さで、お前が死ぬ要因に繋がっていくんだよ愚図」


「ッ、殺すタイミングを選ばないほど本能で生きてない」


 なんとか言い返す。


 それでも、たった一瞬、ほんの少しだけ息を呑んだことが兄にはバレているのだろう。


 兄さんは息をつくと、りず君を力強く横に払って左手がこちらを向いた。


 轟が聞こえる。


 私は右側へ反射的に跳び、左肩に走った衝撃に奥歯を噛んだ。


 左腕全体が痺れる。


 痺れが限界に到達したような痛みが広がる。


 右腕で押さえてもそれらが消えることはなく、頭に血が上った。


 油断があった、油断した、してしまったッ


「良かったな。まだ俺の静電気が溜まってなくて。左腕、まだくっついてるぞ」


「ッ、そりゃ、どーも」


 左肩を押さえていた腕を振り、りず君がハルバードになってくれる。


 ここで殺すか。ここで、今、我が兄を。


 思えば間に飛び込む白があり、私は唇を噛み締めた。


「何してるんですか! そんな、兄妹で!!」


「兄妹なんて関係ねぇよ。そいつはディアス軍、俺はルアス軍。殺すか殺されるか、勝つか負けるか。強い方が明日を生きる。それだけだ」


 早蕨さんが私に背中を向けて兄と対峙してる。早蕨さんは両腕を広げて、その真っ直ぐ伸びた背中に不覚にも見入ってしまう自分がいた。


「違う、そんなことはしちゃいけない! して欲しくないから俺はこの時間を貰ったんです!!」


「なら諦めろ。俺とお前は意見が合わない。俺と氷雨は敵同士。それが現実だ」


「そんな……ッ」


 両肩を震わせた早蕨さんは顔をうつむかせ、兄さんが近づいてくる。


 兄の左手は早蕨さんの頭を掴み、力任せに引き寄せた。


「早蕨さん!」


 呼んでも間に合わない。


 兄さんの膝蹴りが早蕨さんの鳩尾に入り、茶髪の彼が膝を着く様が頭に入ってくる。


 早蕨さんは深くせて、私は兄さんに向かってハルバードを振り抜いた。


 早蕨さんの頭の上を刃が横断する。


 兄さんは軽い身のこなしで刃をかわし、首を傾けていた。


「氷雨、鍵を寄越せ。もう意味ねぇかもしれねぇが叩き壊す」


「兄さんが首を差し出してくれたらね」


「交渉決裂か」


「交渉にすらならないでしょ」


 足に力を込める。


 兄さんは私を見下ろして、ため息を隠しもしない。


「お前、昨日屍に言ったんだってな。俺を嫌いか分からないって」


「……だったら?」


「甘いんだよ」


 ワントーン低くなる兄さんの声。それに私は鳥肌が立ち、早蕨さんの首根っこを掴んで共に後ろへ跳んだ。


 早蕨さんを背中側に下ろしてハルバードを構え直す。兄さんは襟足を掻きながら、低い声を吐くのだ。


「ほんと、お前は昔から……なんで誰かを思う。それでお前が救われるか? 相手はお前に何か返してくれるか? 救われねぇし返されねぇだろ。自分で自分の首締める馬鹿が」


 兄さんの腕が光り、雷光が放たれる。


 それを避ければ、兄さんがハルバードの射程内に入っているのが見えた。


 くそッ


 前髪が血塗れの兄の右手に掴まれる。


 ダガーナイフに変わったりず君を突き出せば左手で掴まれ、兄さんの掌に傷が増えた。


 足が少し浮く。


 爪先立ちになって、バランスが上手く取れない。


 兄さんの冷ややかな目と視線が合った。


「お前には何も出来ない。俺を殺せないし勝つことだって出来ない。それはお前が弱いからだ。お前が誰かを思うからだ。非道になりきれてねぇ表面だけの人間だからだ」


「うるさい……」


「お前は俺を嫌いにならなきゃいけねぇだろ。そうしなきゃ殺せねぇだろ。今この腕だって俺に止められて、お前は俺に鍵を奪われて終わる」


「うるさい」


「氷雨、お前は弱い。お前は非力だ。お前は何も成し得ない」


「うるさいッ」


「お前が頑張ったところで、誰の救いにもならねぇよ」


「黙れよッ!!」


 振り上げた左足を兄さんの脇腹に叩き込む。


 体重が乗っていない蹴りは彼の体勢を少し崩すだけで終わったが、それでいいと思うんだ。


 兄さんの手が離れて、私はりず君を振り上げる。


 殺す、殺す、殺す、殺せ、馬鹿!!


 持ち直したりず君を振り下ろす。


 兄さんは右掌を前に出して、そちらの手を捨てていると容易に理解が出来た。


 私の腕が後ろに引かれて止まる。


 そこには早蕨さんがいた。渾身の力で私を抱き締めてくる彼が。


 動きを止められたと分かったと同時に、ひぃちゃんが瞬時に飛び上がる。


「氷雨さん!!」


「離して!!」


「落ち着いてください!! お願いだから!!」


 奥歯を噛み締める。


 なんで、なんで、なんでッ


 刃にりず君の口が作られて、叫び声が響いた。


「邪魔、すんなよ!!」


 ひぃちゃんが早蕨さんの顔に突撃してくれる。一瞬の緩みの中で私は体を捻り、白い二人から距離を取る。


 呼吸が早い。心臓が痛い。肩もまだ痛いし鳩尾も痛い。痛い、痛くて、痛くて、痛くて、痛いから。


 背中にひぃちゃんが戻ってくれる。


 らず君は輝いてくれる。


 りず君がハルバードになってくれる。


 噛みすぎた唇から、血が出る感覚がした。


「早蕨さん、話し合いは終了です。これから貴方達二人に刃を向けます。相打ちも覚悟して。殺す覚悟を持って。全力で、全霊で……例えこの刃が届かなくとも、私は足を止めません」


「氷雨さん!」


 早蕨さんは盾を構えるが敵意は発さない。臨戦態勢も取らない。


 兄さんは私を見据えて、掌をうだった血を払っていた。


 息が苦しい。苦しくて目眩がしそう。


 私はハルバードを握り締め、滲む視界は無視をした。


 折れるな氷雨。お前の覚悟を、選んだ道を突き進め。


「輝かしい理想は聞き飽きた。不毛な押し問答も、もういらない。死にたくなければ戦ってください。生きたければ私を敵にしてください。私は早蕨さんを、兄さんを、敵にします」


「いいえ、いいえ、氷雨さん! 俺達は同じ立場の人間です! 駒でもなければ戦士でいる必要も無い!! だってそうじゃないか!! 誰かに決められた道なんて、ルールなんて、そんなの自分の意思のない檻でしかない!!」


「いいえ、ここは水槽です。エアーポンプを止められたらそこで終わる。たった一度、飽きられたらそれで死ぬ。私達は呼吸することにすら決定権を持たない、飼われた魚と同じです」


 私は床を蹴って、ひぃちゃんが羽ばたいてくれる。


 体重をかけて落としたハルバードを兄さんは躱し、床に刃が突き刺さる。


 それを力任せに抜いて早蕨さんに叩きつければ、金属がぶつかり合う音がいた。


 痛い。


「早蕨さん、貴方は優しすぎる。まるで小説の主人公みたいに希望を抱き、他者の前に立ち、理想を叶える為に無茶をする」


「違う、俺はッ」


「そんな貴方が、私は眩しくて仕方がないんです」


 笑ってしまう。力なく笑って、刃を振るってしまう。


 目を丸くした早蕨さんは足をもつれさせ、地面を跳ねて距離を取った。


 背後で輝いた雷電は再び左肩を掠めて、私は自然と唸ってしまう。


 ひぃちゃんが体勢を整えて飛んでくれる。


 あぁ、ここは狭いな。


 痛い。


「俺は、めでたしめでたしが好きな弱い奴です。出来るのは諦めないってことだけ、諦めないことだけが俺の取り柄だから!!」


「……私も、めでたしめでたしが好きですよ。でもそれは私と、私の友達だけのめでたしでいい」


 小さな声で「りず君」とパートナーを呼べば、茶色い彼は形を変えてくれる。


 傷を広げる槍。


 とてもシンプルな左右対称の刃が光る。


「フラメア」


 渾身の力を腕に、肩に込める。


 早蕨さんは避ける動作をしない。盾も構えない。


 ただ信じた目をする。


 私は投げないと。急所を外すと信じている目。


 あぁ、そういうところだよ。


 私は腕を振る。


 瞬間。


 右腕に激痛が走り、目の前が真っ白になった。


 鼓膜が大音量に負けて耳鳴りを起こし、りず君が手から落ちる感覚がする。


 右腕、裂け、ッ


 赤が見える。酷い赤。血塗れの火傷痕。右の前腕部分が服ごと焼けて、意識が一瞬吹っ飛んでいたと知る。


 横目に見る。こちらに腕を向けている兄さん。まるで撃ち抜くように左手で右手を固定し、その掌には静電気が瞬いている。


「氷雨さん!!」


 ひぃちゃんの悲鳴を聞いた。だから私は、飛びそうな意識を保つ為に冷や汗が吹き出した顔を殴るのだ。


 左手で拳を作って、思い切り。


 口の中に血の味が広がった。


「おぉおぉ、なんとまぁ」


 不意に聞こえたのは、低くしわがれたお爺さんと錯覚するような声。


 空中で姿勢を整えた私に巻き付く太い木の枝。


 私は声のした上の方を見て目を見開くのだ。


 あるのは木の壁に浮かんでいる人のような顔。年輪と皺とで作られたような顔は、男の人にも見えるし女の人にも見える。


 年老いた誰かにも見えれば、歳若い子どもにだって見えてしまう不確かな顔。


 その口でありそうな所から声が聞こえていた。


「聞こえるよ、あんたの声が。そこのあんたも、あんたもなぁ」


「わ、わ!?」


「おい」


 驚いた声を聞いて顔を向ける。


 そこには私と同じように枝に捕まった早蕨さんと兄さんがいて、私は呟くのだ。


「――エントさん」


 そう、ここはエントさんの幹の中。匿ってくれた場所。それを失念していた私は咄嗟とっさに謝罪した。


「ごめんなさい、貴方の中で暴れてしまい……直ぐに出ていきます」


「いいや、気にしなくて良いんだよ。それよりも、聞こえてきた声が心配でね」


「声……」


 エントさんの顔は頷いたように見えて、私はらず君の額を自然と撫でた。


 小さな枝に乗せられたりず君が私の肩に戻ってきてくれる。


「大丈夫?」


「氷雨の方こそ」


 心配すれば、心配された。


 大丈夫だよ。痛いとか、多分もう超えたから。右腕が生暖かい。昨日から私の腕、酷いな。


 エントさんはまったりとした声で言っていた。


「戦いたくないと叫ぶ、純粋な声」


 そう言って撫でられる早蕨さんの頭。


「信念を貫かんとする、力強い声」


 兄さんの掌が穏やかに枝に包まれる。


「痛いと、苦しいと藻掻く繊細な声」


 私の右腕も枝に包まれる。


 それだけで痛みが引く気がして、私は震えながら息を吐いた。


「可哀想な子ども達。私にはずっと、聞こえていたよ」


 エントさんが言っている。憂うような、嘆くような声で。


 私は切れた唇をより噛んで、左手をこれでもかと握り締めた。

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