第133話 目印
「ここはエントの大樹の中よ。エントが私達の状態を見て幹に入れてくれたの」
「エントさんの……」
泣語さんが渡してくれた冷えタオルを頬に当て、翠ちゃんの言葉を聞く。彼女は梵さんの額に濡れタオルを置いていた。
祈君は近くの椅子に膝を抱えて座っている。震える肩が彼の感情を表しているようだと、私には見えてしまった。
祈君のか細い声が聞こえる。
「氷雨さんが倒れたって……兄貴達に追いついた所で、時沼さんが転移して来て……心臓、止まるかと思った」
「にゃはは、だよねぇ〜! あんだけ血塗れだったら驚いちゃう驚いちゃう!」
膝に顔を埋める祈君。彼の背中を何度も叩く屍さん。
ルタさんは「止めてください」と不満そうな声を零しつつ、床を跳ねていた。
跳ねるルタさんに前足でじゃれようとする白玉さん。その姿は可愛らしく、私は天井を見上げるのだ。
木製だと思っていた部屋は天然の木だったと。いや、天然以外の木とは何だという話になるが、知ることによって感覚も変わるんだよ。
私は濡れタオルを反対の頬に当て、引き
驚いて離したタオルは膝に落ちて、肩にいるりず君を心配させてしまった。
「氷雨?」
「……手が滑った」
笑っておく。気の所為だと自分に言い聞かせて。
「タオル変えましょうか?」
「あ、いえ、まだ冷えてるので大丈夫です。ありがとうございます」
泣語さんにも心配されたが、眉を下げながら遠慮しておいた。
そして遅ばせながら彼にも確認するのだ。
「……泣語さん、そのあと恋草さんと淡雪さんは……?」
「あぁ、あの二人なら気絶させて森の中に放っています。大丈夫ですよ、殺してません」
大丈夫のラインとは。
私は頬が
彼が纏う服の色は私達とは違う。
何度も思って奥歯を噛むのに、彼は聞き入れてくれないから。
違う。私がまだ強く言えていないのだ。心からの拒絶をしていないのだ。
痛みを感じなかった側の頬へタオルを当て、口元を隠す。
最近、気づけば笑っていることなど無くなってきた。笑みを忘れたような感覚。笑わなくてもいいと頭の片隅で思う。自分を守る盾はいらないと感じる私がいる。
どうにも思考が凝り固まりそうな私は、未だに眠り続ける梵さんを確認した。彼はとても穏やかに眠っている。その横顔を見られるだけで安心を与えてもらえた。
良かった。苦しそうとか辛そうとか、そういうのが無さそうで。本当に良かった。
私は静かに息を吐き、瞼を半分ほど下げた。
今日はもうここで終わりになるんだろうな。
タオルを額に当ててみる。頭の上で尾を揺らすひぃちゃんは穏やかだ。数日ぶりにアルフヘイムで会えば、やはりタガトフルムで会うのとは違うものを感じていた。
「そうだそうだ氷雨ちゃん! 今日の斬りかかりっぷりは圧巻だったね! 流石の私達も驚いちゃったよん!!」
不意に賞賛を貰う。
屍さんは白玉さんの背に腰かけて、優雅に手を広げていた。
私の指先が軽く揺れる。屍さんは口角を目一杯引き上げており、私は奥歯を噛んでいた。
「お兄ちゃんも驚いてたねぇ、うんうん!」
「何が言いたいわけ?」
ベッドサイドに腰をかけた帳君が低い声を出す。
私は両手でタオルを畳み直し、掌同士で挟むようにして下ろした。らず君が微かに輝き始めてくれる。
「ん? そうだなぁ、言いたいことと言えば……その目、凄く綺麗だねってこと!」
「目、ですか?」
私は自分の目の下を指先でなぞる。
屍さんは「そうそう」と笑い、返却されたであろう銀のブレスレットを撫でていた。
泣語さんの空気が刺すようなものに変わっていくのを肌が感じる。
屍さんの目と目が合って、そこに浮かぶ興味の色から私は視線を逸らせなかった。逸らしたら負けるとどこかで思っていたからだ。
「その目は覚悟を決めた目だ。知ってるよ」
屍さんの人差し指が私の目を指してくる。
私は呼吸を乱さないように心掛け、屍さんの指に焦点を合わせた。
彼女はルアス軍。兄さん達と行動を共にしている人。その人が、一人だけで敵だらけのこの場に残るだろうか。
一人だけで残っているだなんて言っただろうか。
いいや、言ってない。
「どんな覚悟をしたのかも相良君から聞いちゃった」
楽しそうな声で笑う屍さん。
時沼さんが早蕨さんと私を彼女の元へ運んだ。運んだから屍さんは私の傷を、そして恐らくは早蕨さんの傷も巻き戻してくれた。
私は両手を握り締め、タオルの奥底に残っていた水滴を絞り落とす。
掛け布団にシミが出来たが、エントさんにお礼と謝罪をするのは後に回すしかないだろうな。
「妹ちゃん、お兄ちゃんを殺す覚悟をするなんて――偉いねぇ」
りず君が肩から飛び降りてハルバードになってくれる。
私はタオルをベッドの上に投げて立ち上がり、靴下越しに木目の床を踏むのを感じた。
目の前が一瞬真っ白になって平衡感覚が無くなる。
冷や汗が出て、それが目眩であると直ぐに判断した。だからと言って治まるものでもないけどな。
らず君が輝いて、ひぃちゃんは背中で翼を広げてくれる。
視界に色が戻る。屍さんは両手を上げて「にゃはは」と笑っていた。
「怖いなぁ、まぁ元の顔が可愛いから迫力そんな無いけど!」
「……屍さん、白玉さん、傷を治してくださったこと、今一度お礼申し上げます。ありがとうございました」
私はハルバードを両手に握る。
屍さんは「いえいえ」と笑ったままで、私は唇を強く噛んでおいた。
口角は上げない、上げる意味が無い。私は笑みがなくとも立てている。人に刃を向けられる。人に殺意を向けられる。そんな時に、笑うなんて出来はしない。
屍さんはふと満面の笑顔を落とし、儚い笑みに変えていた。
「……ほんとだね」
その意味を汲み取れない。
「可哀想に」
その呟きの意味も。
私の頭に血が上った。
可哀想とは何だ。何が、誰が、可哀想なんだ。
「氷雨ちゃん、体に響くから今日は止めときなよ」
視界が暗くなる。
目を覆うように腕が回され、頭を抱えられる。その体温は、声は、いつも私の前にいてくれる人のものだ。
帳君の左腕が私の視界を隠し、掌は頭に添えられる。もう片方の手はハルバードを握る私の手に重なってきて、完全に後ろからホールド状態だ。
背中に感じる彼の体。身長差が相まって振り解けそうにはない。振りほどく気も今は起きない。
私は息を細く吐いて、帳君の声を聞いていた。
「今日だけは休戦してくれるんでしょ?」
「そうだよん! 別に私達も怪我人がいるチームに無体を働くほどゲスくないからね!! 鍵の回収は明日までお預けだ!」
屍さんの声に私はまた唇を噛む。白玉さんの足音が遠ざかっていくのも聞き取り、「ではまたね、お大事に〜」と言う彼女の声も遠かった。
少しして帳君が私を離してくれる。開けた視界の中に屍さんと白玉さんはいなくて、私の目は階段の方へ向いていた。
「氷雨、今日は駄目よ。貴方も梵も無理しちゃ駄目」
動きかけた足を翠ちゃんの声が止めてくれる。
私は浮きかけていた足を戻して「はい」と返事をしてみせた。
大丈夫、大丈夫、まだ思考が焼き切れているなんてことは無い。
不意にゆっくりと腕が引かれる。その感覚に反応して見れば、帳君が私を見下ろしていた。
「ほら、座ってて」
肩を押されてベッドへ促される。私の足は言われた通りの軌道を進み、投げていたタオルは泣語さんが回収してくれていた。申し訳ない。
「メシア、どうか、どうか今だけはご自身の体を一番に」
「……はい、ごめんなさい泣語さん」
「あぁぁぁ、違うんですメシア、俺は貴方が心配で! 呆れたり怒ったりしたわけでは決してなく!!」
忙しなく両手を動かす泣語さんに余計申し訳なくなってしまう。
ぎこちなく返事をしてみれば、泣語さんは眉を八の字に下げて笑ってくれた。
「目覚めてくれた。それだけで俺は嬉しいんです」
裏表のない笑顔。
それに救われる自分がいて、私は私を叱責する。
安堵を覚えるな。ルアス軍である相手に。
それが例えどれほど尊い優しさであったとしても、弱さになると、油断になると知っているから。
だから氷雨、お前が今考えることは「どうして気絶してしまったか」で良いんだよ。
私は呼吸を意識して繰り返し、ベッドサイドに座り直した帳君に問われた。
「それで、倒れた理由って覚えてる?」
「……出血多量で無いのは確かかと」
自分の状態を思い出しながら少しずつ答えていく。
まずこの気絶は出血多量が原因ではない。意識が朦朧としていた訳では無いし、呂律も回っていた。
体の感覚だってきちんとあったし、目の前が霞んでいたということもない。
ならば原因は――あの痛みだ。
腕を刺されるより、顔を殴られるよりも激しい強烈な痛み。
顔を潰されるような、意識を捻じ伏せられるような、途方もない苦痛が私の意識を飛ばしたのだ。
私は思い出して、痛んだ右の頬に恐る恐る指先を当ててみた。
感じる。引き攣るような感覚を。
そこに棘が刺さっているわけでも皮が向けている訳でもないのに、違和感を伴う痛みが確かにある。
顔を覗き込んでくるパートナー達と目が合って、私は苦笑してしまっていた。
「右の頬が強烈に痛んだんです。刺されるより、殴られるより。今まで受けてきた外的要因での痛みの中ではダントツで」
「頬、ねぇ……鉄仮面も一緒だよ」
帳君の言葉を聞き、私は暫し言葉を無くす。
視線を帳君から梵さんに向ければ、彼はやはり穏やかな呼吸のまま眠っていた。
翠ちゃんを見る。彼女は頷いて、祈君が聞いていた。
「梵さんが倒れた時は何をしていたんですか?」
「特には。ただ話をしながらエントの大樹に向かっていたのよ。飛んでいたらイーグが見えたから、氷雨達が会ってなければいいとか、森に隠れる為に歩いて移動した方がいいとか……」
そこまで言って、翠ちゃんは少し考える。
それから記憶をなぞるように、口をゆっくり開いていた。
「倒れる直前、梵は呟いてたわ。早蕨達を想って。こんな競走では、誰も幸せな結末は得られないんだろうなって……らしくないこと」
翠ちゃんの言葉を聞いて肝が冷える。
りず君が「ぁ……」と呟く声も聞き、私は翠ちゃんと目が合った。
「……私も、言ってしまったんです。こんな競走、なくなってしまえばいいと言うニュアンスのことを……ごめんなさい」
言葉を濁し、目線を漂わせてしまう。
チームメイトの前で、根本から覚悟が揺らぐようなことを言いたくはなかったのに。
もう二度とこんな迷惑と心配をかけない為にも、隠すことはしてはいけないと判断して。
私は顔を
視線を上げる。
帳君は無表情に私の頭を撫でてくれて、鼻の奥が痛んでしまうのだ。
「うん、いいよ、許す」
あ、息……出来る。
思って、泣きたくなって。
「うん」
情けない返事だけしておく。
ここで謝っても意味は無い。堂々巡りが始まるだけだ。帳君はそれ以上何も言わず、頭を優しく撫でてくれた。
貴方は優しい。みんな優しい。
だから、死んで欲しくないと願うんだ。
「ありがとう」
伝えておく。手を下ろしてくれた帳君は頷いて、その奥にルタさんと同化した祈君が立っていた。
何故だか焦ったような顔をして。
「祈君……?」
彼を無意識に呼んでしまう。
視線は、赤い毛先の奥で輝く青い瞳を見つけていた。
瞬間。
頬に電流が走るような衝撃があり、呻いてしまう。「氷雨さん!」と祈君は焦って、私は反射的に頬を押さえるのだ。
「メシア!」
「氷雨!?」
「ッ、何したの雛鳥」
慌てる皆さんの声を聞き、祈君が「お、俺は、」と同化を解いていた。
そう、彼は攻撃なんてしていない。
多分使ったのは、同化でも、羽根を刃にする力でもない、三つ目の力。
「ただ観察眼で、氷雨さんを見ようとして……!」
「なんで」
帳君が詰め寄ってる。祈君は「だって!」とルタさんを抱き締めながら叫んでいた。
「氷雨さんと梵さんには、共通点があるから! 競走を否定したってことと……最近、メタトロンって奴に直接触られたって言う!! 俺、それしか思い浮かばなくて!!」
――メタトロン
その名を聞いて、私は自分の頬から手を下ろす。
数日前に聞いたきりの名前ではない。
私は最近、本当に最近、その名前を口にした筈なんだ。
そんな感覚が残ってる。
「ッ、メシア、その頬!」
「……え?」
泣語さんが急いで咲かせてくれた、大きなイチョウのような葉に顔を映す。
片面だけが鏡のようになってる植物だとか、用意周到すぎるとか、そんな言葉は映った自分の顔を見て消え失せた。
「な、に……これ……」
私は右の頬の下側に触れる。
そこに浮かんでいる、まるで鴉を抽象化したような黒い紋様。
それは刺青のようにも見え、触れれば指先にも頬にも痛みが走る。
それを我慢して擦っても、消えることがない。
私は早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと、りず君を、ひぃちゃんを、らず君を抱いて、震えて鳴った奥歯の音は聞こえないふりをした。
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