第132話 悪夢


 暗い。


 いや、黒い。


 そう感じて目を覚ました私は、しかしまだ目覚めていないのだと直ぐに理解した。


 ひぃちゃんもりず君も、らず君もいない現状。足の裏は地面を踏んでいないし、どちらが上でどちらが下か判断出来ないあやふやな今。


 風もないのに揺れた髪は海の漂流物のように動きが読めず、私は何の気なしに片側の髪の束を掴んでいた。


 周囲が全て黒である言うのは嫌に不快感と不安感を逆撫でされる。空いている片手で自分の体を抱き締めれば、内臓まで震えていると言っても過言ではないほど体が震えていた。


 ここは何処だ。ここは何だ。私は何をしていたっけ。


 目を固く閉じて思い出す。向かっていたのはエントの大樹。翠ちゃんと梵さんと合流する為。


 その途中で早蕨さん達と会って、かと思ったら兄さん達を見つけて、決めたことを実行しようとして、早蕨さんと時沼さんに邪魔されて。


 目を開く。


 やはりそこは黒のまま。


 自分の体だけが見える変な感覚。それでも見える原理を考える気は無い。自分の体が見えるだけで私はまだ救われているのだから。


 自分の腕を見る。前腕部に傷はなく痛みもない。そこを無意識に擦れば、頬に熱い雫が落ちた感覚を思い出した。


 泣いていた時沼さん。


 何故泣くの。貴方は私の鍵を壊すことを目的としていて、兄さんの味方で、早蕨さんの味方で、私の腕を貫いた。友達には戻れない人。


 貴方は泣いていた。そんな覚悟をしないでくれと。願うように泣いていた。


 泣かれると、どうすればいいか分からなくなるのだけどな。


 伝えなかった私は……あれ、何したんだっけ。


 ――……競走なんて――なくなればいいのに


 あ、


 思い出した自分の言葉。


 今までずっと、ずっと、ずっと、心の奥の奥、底の底に隠してきた言葉。決して叶うことがない願いなら口にすることに意味は無い。願う意味も無い。誰かに伝えても士気が下がるだけ。


 だから隠して、隠して、隠して、ルール通りの正しいを突き進んだ。そうしなければ生きられない。生きたい、生きたい、生きたい。


 殺したくもない。


 ふざけるな止めろッ


お前ほんねは出てくるなッ!!」


 今までずっと、ちゃんと、きちんと、確かに、隠してきたんだからッ


 今更出てくるなんて許さない。


「――そうだな、それが正しい」


 低い声が黒の中に響く。


 聞いたことがある声。二度と聞きたくなかった声。


 私はその声を聞いて理解し、相手が分かった瞬間に愕然とした。


 指先が震えて奥歯が鳴り、どこにも着いていない足のまだ下から、青い業火が一気に燃え広がる。


 炎、炎、炎。


 全身から冷や汗が吹き出して心臓が震える。震えて、震えて、両手の指が頬に食いこんでいく。


 怖い、怖い、怖い怖い怖い怖いッ


「そう震えるな、お前が死ぬのは今ではない」


 また声がする。必死に体を動かして周囲を見渡しても、そこには誰もいない。


 しかしこの声を私は知っている。知っているからこそ姿を見たくないと思うのに、探さなければ落ち着かない。


 ここは何処。ここは何。何、何なんだ、何さ、何だよッ


「ディアス軍、心獣系戦士、凩氷雨。お前は口にしなければ許されたことを口走ったな」


 後ろから手が伸びてくる。大きな手。私の頭を掴んで投げ飛ばした嫌な手が。


 嫌、嫌だ、嫌だ。


 怖い。


 私の両目が隠される。分厚く大きな、私とは違う世界のおさの手に。


 全身を重圧に押し潰されそうになる。足が震える。それでもうずくまることすらここでは出来ない。


「俺に刃を奮ってきた時からお前と細流梵は要注意の戦士だった。この競走を成り立たなくするような汚点。今回はルアス軍にもその汚点が多いようだが、俺が手を出せるのは自軍だけでな」


「ぁ、ッ、」


 息が苦しい。何も見えない。耳が、鼓膜が、この声だけを聞いてしまう。


「競走は終わらない。終わらせない。何回でも何回でも繰り返していく。この世界の為に、あの方の為に。だから終わりを願ってくれるな、小さな子よ」


「ッ、なに、それ、競走は、統治権の争いだって!」


 そう、そうだ、この競走は統治権争いの為に開催されている。私達はその駒。ルアス軍が勝つかディアス軍が勝つか。その為に選ばれた。アルフヘイムとタガトフルムが近いというだけで選ばれた。


 だからこの競走は終わらなければいけない。終わらなければ彼らの求める結果はない。


 いや、違う。この人が終わらせないと言ったのは競走と言う概念を、だ。


 直ぐに考え直し、理解もし直し、やっぱり全部分からなくなっていく。


 世界は理不尽だ。理不尽だからずっと願っていた言葉は踏み潰した。理不尽を砕く為に勝利を目指した。お母さんとお父さんのいる家に帰る為に。この世界で出来た仲間の為に。


 明日も生きたいと思って何が悪い。競争が質の悪い夢ならば、その夢が描く通りに進まなければこの夢は覚めないだろ。


 それなのに、それなのに、もし最初から――全てが嘘だったら?


 私が進んできた道は、私がした覚悟は何、何だよ。


 私達が流してきた涙は、血は、声は、生き様はッ


「そうだな。そう言うことになっているな。うんうん、そうだそうだ」


 目に押し付けられる手に力が入る。肩が跳ねる。足元が熱い。


 あぁ、この諭すような物言いは、何も知らなくていいと言っているのと同義だ。


「それを信じて死んでいけ、哀れで小さな歯車よ」


 なんだよ、それッ


 私の頭に血が湧き上る。


 今まで信じて来たことが根本から違った? 全てが嘘だった? ならばどうしてこんな競走をしている。この競走の意味はなんだ。生贄とは誰に対する生贄だ。戦士とは、兵士とは、アルフヘイムとは、何を求めてここにいる。どうして負けた軍の戦士が死ななくてはいけない。


 どうして、どうして、どうしてッ、祝福とは誰にとっての祝福だ!!


 ―― ……さめ


 私の爪が分厚い手の甲を引っ掻く。引っ掻いて、引っ掻いて、皮膚が避ける感覚にすら怯まない。


「はは、痛いな……生きるとは、痛いな」


 ―― ……ひさめ


 笑う静かな声に重なるように、誰か別の人の声がする。それが聞き取れない私は、どうしようもない歯痒さに叫ぶのだ。


「あぁ、そうだよ、痛いんだよ!! 生きるのは痛くて痛くて堪らない!! 毎日毎日どうしようもない痛みがあって、その痛さはみんな違って、なのに与える側はこの程度だと思って笑うんだろ! こんなに苦しいのに、こんなに、痛いのに!! みんな痛くて、それでも立ち止まらなくて、後戻りも出来なくて、怖くて辛くて苦しくてッ」


 ―― ひさめッ


 声がする。聞き慣れているような声。


「それでもッ、誰かと笑った時の楽しさも知ってるから、嬉しいも知ってるから! だから痛くても生きるんだ。痛くて堪らなくても、生きたいと、願うんだッ!!」


 失いたくない仲間がいる。


 お母さんに、お父さん。


 小野宮さんと湯水さんのことだって、私はまだ名前で呼んでない。呼べてない。


 近づき過ぎれば焼けてしまいそうで、いつか無くしてしまいそうで、それならばと手を伸ばすのを止めた友人でありたいと思った人達。


 あぁ、生きていたい。生きていたいとしがみついてしまう。


「……そうだな、その輝きは一等美しい。美しいからこそ酷く脆い。そして失った時、その美しさに嘆くんだ――俺達もそうだった」


 そんな言葉を、貴方が吐くか。


「ッ、メタトロンさん!!」


「氷雨ッ!! 起きて、氷雨!!」


 目が覚める。


 視界が眩くボヤけて耳鳴りがする。


 私はかけられている薄い布団を固く握り締め、マラソン終わり以上に早い呼吸を繰り返していた。


 全身が冷や汗をかいている。気持ち悪い。呼吸が定まらない。ここは何処。炎は、何処にもない。暗くない、黒くない、痛くない。


 手の甲の温かさと、肩にある人の手に気づく。


 目を何度も瞬かせてやっとピントが合えば、泣いている翠ちゃんに気づくのだ。


「あぁ……馬鹿……氷雨……」


「……すぃ、ちゃん……?」


 泣き崩れてしまう翠ちゃん。彼女は私の体に上体を乗せて、固く固く手を握り締めてくれていた。力が篭もりすぎて震えている手。


 私の肩に乗っていたのは別の人の手だ。その誰かを確認する前に、布団を握り締めていた自分の手をゆっくり解く。


 動く片手を翠ちゃんの頭に乗せた。指通りの良い彼女の髪は隙間から溢れていき、私は体を起こそうと試みたのだ。


「動かない方がいいよ。酷いうなされようだったし、まだ寝てて」


「……ぁ、帳君」


 額を押されて枕に後頭部を戻される。


 視界の外にいた帳君が私の横に来て額を撫でてくれた。その温かさに安心して息をつく。体全体から力が抜けて、ふと痛まない腕に気づいたのだ。


「あれ……? 腕、怪我……」


「それなら白玉が治したよん、氷雨ちゃん」


 聞こえる筈が無いと思っていた声が聞こえて、今度こそ勢いよく体を起こす。


 翠ちゃんは「寝てなさいよ」と言いながら立ち上がり、その目の縁は真っ赤になっていた。


 翠ちゃんの目が……ご心配をお掛けして申し訳ございません。


 私はいる筈がない白銀の狼さんとそのパートナーさんに目を向けて、謝罪と疑問、どちらを先に言うべきか一瞬迷ってしまったんだ。


 いや、これは迷うことではないか。


「翠ちゃん、心配かけてごめんなさい」


「……ほんとよ、馬鹿」


 頭を撫でられて肩をすくめてしまう。ベッドの縁に腰掛けたのは溌剌と笑う屍さんだ。


「屍さん、ぁの……」


「ふふん、どうして傷が治ってるのかって? なぁに、簡単さ! 私の白玉の三つの能力の内の一つ、巻き戻しのお陰! 巻き戻せる条件はその事象が起こって十五分以内! 自然現象は駄目! あと戦士間で起こったことだけで、可視化出来なきゃ駄目! 出した言葉を言わなかったとして巻き戻すことは出来ないってこと! あと戦士と住人とか、住人間で起こったことは対象外! そして何より白玉の肉球で触れなきゃ駄目! この条件を全てクリアして初めて巻き戻せる! 今回は相良君が氷雨ちゃんと光君を連れて転移して来てくれたから無事巻き戻せたんだよん!」


 饒舌。


 最初に浮かんだ感想はそれ。長いとも思ったが大変失礼であるから消した。と言うか、何故私を助けてくれたんだろう。敵軍なら見放せばいいものを。


 私は首を傾げながら「はぁ……ありがとう……ございます」と気の無い返事をしてしまう。


 そこで初めて、白玉さんの背中にいる茶色と緋色と、硝子に気がつくのだ。


 体が沸き立つように温かくなる。


「りず君、ひぃちゃん、らず君!」


「氷雨!」


「氷雨さん!!」


 ひぃちゃんの背中に針鼠の二人が飛び乗って、私の胸に飛び込んでくる。その温かさが懐かしくて、私はこれでもかと三人を抱き締め返すのだ。大粒の涙を零す三人を。


「うあぁぁぁ、ひさめぇ、おま、急に、何、なんなんだよぉぉぉ」


「ごめん、ごめんねりず君、突然なんか顔? が痛くなっちゃって、変な夢も見た」


「……氷雨、貴方も?」


 翠ちゃんに確認される。私は目元を指先で擦る彼女を確認して頷いた。


 そう、私は夢を見た。凄く怖い夢。怖い、夢……。


 あれ、どんな夢だっけ。


 怖かったのは覚えている。その感覚だけが残って、肝心の内容は思い出せない。


 なんか、こう、気づかなければいけない? いや、うーん……。


 あれ、と言うか――貴方も?


「貴方もってことは……」


「梵も見たのよ。話していたら急に倒れてね」


 梵さんが倒れる。


 普段からは想像出来ない状況を何とか想像し、顔から血の気が引いていく。私は落ち着く為に忙しなくひぃちゃん達を撫でてしまった。


「向こうでまた寝直しちゃったけどね」


 教えてくれた帳君の向こうを見る。


 そこにはベッドで目を閉じている梵さんがいて、彼の呼吸は落ち着いていた。


「梵もうなされて起きた後、疲れたのかもう一回寝たのよ。こっちは焦ってるのに。そしたら氷雨まで苦しみ出して、てんやわんやよ、ほんと」


「ぁ、ご、ごめんね」


「起きたから許すわ」


 翠ちゃんが頭を撫でてくれて「あいつもさっさと起きればいいのに」と言っている。


 私は梵さんを見て、その後やっと部屋を確認したのだ。


 大きな円形の部屋。壁は木材で出来ているようで、ベッドも小さなサイドテーブルも木目が綺麗な作りになっている。


 部屋の真ん中には上と繋がる階段があって、部屋の中にいるのは屍さん、白玉さん、翠ちゃん、帳君、梵さん。


 祈君と……泣語さんの姿は無く、兄さん達の姿も無かった。


「お兄ちゃんにいてほしかった?」


 屍さんに確認される。私は彼女に視線を向けて、曖昧に首を傾げるのだ。


 いてほしかった。


 それは殺したいからか。


 駄目だ、考えるな。


 私は目を伏せて、首を横に振った。


「……分かりません」


「そっかぁ」


 屍さんが立ち上がり「なら質問を変えよう!」と陽気に笑う。私は彼女を目で追って、可愛らしく笑う屍さんと擦り寄る白玉さんを確認した。


「お兄ちゃんは嫌いかな?」


 嫌い。


 嫌い……。


 嫌い?


「……どうでしょう」


「ふふ、君達兄妹は可愛いなぁ」


 屍さんに言われ、私は首を傾げる。


 私が可愛いなんてことはない。兄さんに対して使う単語として正しいのはおそらく格好良いだろうし。


 私は反応に困って目を逸らし、階段から下りてきた祈君に気がつく。彼は手に桶を持って、肩に留まるルタさんが翼で背中を撫でていた。


 泣語さんは顔を俯かせて祈君と同じ桶を持っている。


 ふと、二人と目が合った。


 祈君は目を見開き、泣語さんは肩を震わせる。そうすれば二人の手から桶が落ちて床に水をぶちまけていた。


 木と木がぶつかる音がする。


 それは部屋に中に心地よく木霊こだまして、泣語さんに名を叫ばれた。


「メシア!!」


 ……いや、名前ではなかったな。


「ご心配をおかけしました」


 謝罪した私は駆けつけてくれた二人と握手を交わしたんだ。


 頭の片隅に残るのはどんな夢を見たのかという疑問。思い出さなければいけない筈。それでも思い出すことが出来ない幻。


 誰かと話をした気がする。何かを言った気がする。


 それでも私は思い出せなくて、温かく喜んでくれる友達に確かに幸せを感じていたんだ。


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