第121話 気概
「ッ、げほッ」
翠ちゃんの掌は海堂さんの鳩尾に埋まり、背中から弾き出された花の宝石をひぃちゃんが掴んだ。
膝から床に崩れ落ちる海堂さん。鳩尾を押さえている彼は「くそッ」と掠れた声を吐き、床を殴っていた。
「麟之介君!」
人形達が綿済さんを捕えていた羽根を抜き、彼女は走り出す。祈君の方ではなく海堂さんの方へ。
暑さと疲労にやられたのか、その足は何度か
「そんなッ!」
水の刃を差し込んで風の檻を破った紫門さん。彼は濡れた床を駆けて、蹴り上げられる水飛沫を帳君は見つめていた。
「麟之介……!」
グレモリーさんの切羽詰まった声がして、直ぐにその声は呻きに変わる。
見ればリフカによって縛り付けられたグレモリーさんの目は、綺麗な銀色になっていたんだ。
翠ちゃんがひぃちゃんから特性の宝石を受け取り、海堂さんを見下ろしている。その間に滑り込んだ紫門さんと綿済さんは黒い瞳で翠ちゃんを睨んでいた。
「返して、麟之介君の力!」
「要相談ね。いくつか質問に答えてくれたら返そうかしら」
翠ちゃんの両手の中で宝石の花が揺らされる。ひぃちゃんは彼女の肩に留まり、私は足を前に出した。
同化を解いた祈君と、梵さんも海堂さん達の方へ向かう。
その時、風に髪が遊ばれた。視線を向ければ着地した帳君が歩き出す姿が見える。
彼と一瞬だけ視線が合った。それは直ぐに逸らされて、私も海堂さん達の方を向く。
「メシア」
リフカの拘束が解ける音がして、泣語さんは小走りに近づいてくれる。その汚れた手や頬には砂埃だけではない赤が混ざっていた。
それを指先で、りず君と一緒に拭う。
少しだけ赤くなっている泣語さんの目元は見開かれて、幸せそうに、泣き出しそうな顔で笑ってくれた。
「ありがとうございました、泣語さん」
「いいえ、いいえ、メシア。良いんです、良いんですよ」
肩から力が抜けていく泣語さん。私は手を下ろして静かに握り締めた。
この不毛な戦いに終止符が打たれた時、言わねばならない。泣語さんに言わねばならない。彼がどれだけ同行を望もうと、それはいけないことなのだと。
翠ちゃんの声が私の耳に入ってくる。
「この交戦の意味、それは私達が兵士との戦いに賛成しなかったからで良いのかしら? 海堂麟之介」
「……そうだよ。俺達は戦力を求めてた。他の戦士にも今まで会ってきて、賛同してくれる人とそうでない人もいて……」
「賛同しない者は、今の私達みたいに力で屈服させようとしたのね」
息を吐きながら花を撫でる翠ちゃん。
「屈服なんて……!!」
噛み付くように叫んだ綿済さんの肩に海堂さんは手を置いた。彼はゆっくり首を横に振る。
綿済さんは唇を噛み締め、顔を俯かせていた。
海堂さんは息を吐くと、今にも叫びそうな声を押し殺して教えてくれる。
「力が欲しかった。創を殺した兵士達に復讐する力が……壊そうと言い出したのは俺だったのに。俺自身には壊す力が無いから、創は変わりに壊してくれたに過ぎないのにッ」
海堂さんの目に涙の膜が張っている。彼は綿済さんの肩から手を下ろすと、祈るように両手の指を組んで胸に押し付けていた。
「こんな競争が無ければ、ディアス軍になんか選ばれなければ、俺にもっと力があったらッ……思って、君達を探すように大琥に頼んだこともあった。氷雨ちゃんと結目君なら、きっと力を付けているだろうって思ったから。ルアス軍と一緒に行動させた」
「違う麟之介さん、あれは俺の意思だった」
頭の中にフラッシュバックしたのは、暗い谷底で壊れていく祭壇。
それに胃が痛んで、こめかみからはじっとりとした汗が流れ始めた。空調が壊れたこの部屋は熱に侵食されている。
それを肩口で拭い、帳君の声を私は聞いた。
「あの時堅物君はルアス軍と一緒に祭壇を壊してはいないって言ってたけど、ディアス軍が祭壇を壊すこと自体が御法度ってことだよね。だから制裁としてあの中学生は殺された。言い草からして、俺達の祭壇が壊される前か」
「そんな簡単に言うなよッ」
紫門さんが帳君に掴みかかる。
祈君はルタさんを両腕で抱え、その肩は震えていた。彼と翠ちゃん、梵さんは和真君には会ってない。海堂さん達とだって今日が初対面だ。
それでも感受性が高い皆さんは、泣いてしまう綿済さんのことも、怒る紫門さんのことも分かろうとしてくれているように見える。
私の勝手な妄想かな。妄想でもいいか。そうであって欲しいだなんて、我儘だな。
私は祈君の背中に手を添えて、私が出会った中で最も幼かった少年を想っていた。
帳君は酷く平坦に口を開き、紫門さんの手を捻り上げる。
「気づけよ。今この言葉で激昂するアンタがあの時平常心に近い状態でいられたのは……制裁は受けてないなんて嘘つけたのは、そこのモデル君に操作されてたからだろ」
紫門さんの喉が空気を吸って、鳴いている。彼は視線を床に向けて口を引き結び、帳君は掴んでいた手首を捨てるように離していた。
翠ちゃんは質問を再開する。
「兵士を従わせていた方法は?」
「……俺の体感系能力だ。俺の力は、五秒以上目を見た相手を従わせられる。俺の命令は絶対になる。従わせる人数が少ないほど命令権は強力になり、多くなればそれだけ弱くなっていくよ」
「その二人も従わせた理由は?」
「その方が、効率が良かった。俺の命令権があれば譲も大琥も、本来出せない力を命令を遂行する為に出せるようになるから」
そう話した海堂さんだが、綿済さんも紫門さんも首を横に弱く振っていた。
それが、その行動が、両手で顔を覆った海堂さんの目には映らない。
翠ちゃんは「そう」と呟いて、海堂さんの前に膝を着いた。その手は彼の鳩尾に宝石を押し付けている。
「最後よ。兵士を倒す策はあったの?」
「……強い戦士とその戦士を囮に呼び出した兵士に俺の能力をかけて、大きな団体を作る。そして、ディアス軍とルアス軍の長を打つ……そうすればって考えてた」
翠ちゃんが頷いて、宝石が海堂さんの体に埋まっていく。
「私達が離れるまで、その目を解放しないで」
釘を打った翠ちゃんは何を考えているか分からない顔をしていた。
海堂さんは両手を強く目に押し当てている。
「麟之介!!」
突然、グレモリーさんの
脇腹を押さえて立つ彼女の顔は血の気が失せて、拒絶するように首を横に振っている。
「駄目、駄目よ、駄目ッ、撤回して麟之介! 今の作戦は言っては駄目! 言葉にしては駄目なのよ!!」
走り出しそうになるグレモリーさん。フォカロルさんとアロケルさんも体勢を整えてこちらへ近づき、海堂さんはそれでも目を塞ぎ続けていた。
「止めろグレモリー、お前達の言葉は……聞きたくない」
「麟之介ッ」
グレモリーさんの銀の瞳が、涙の膜を張って揺れている。その顔を見て私は海堂さんの方を向くのだ。
貴方が彼女を見なくてどうする。彼女はずっと貴方だけを見てくれているのに。貴方を想ってくれているのに。
貴方がどれだけ兵士を嫌っても、貴方を想ってる彼女を見ないで拒絶するなよ。なんて、それは私の傲慢なのですか。
戦士を駒だと、消耗品だと思っている人が、あんな顔をする訳ないって思うから。
海堂さん、お願いだから聞いてあげてください。
私の口が言う前に――部屋の空気が変わった。
背中からのしかかってくる重苦しい重圧。
体を支える両足が震えて、筋肉が萎縮して動かなくなる。
喉は息を吸って吐くことだけを繰り返し、頭から冷水を被ったような感覚が体を包んでいった。
何、これ、な……急に。
海堂さんの横にいたりず君が、無我夢中で私の肩によじ登ってくる。ごめん、持ち上げてあげられなくて。
らず君は今まで見た事ないほど体を震えさせて、祈君に抱かれているルタさんは発狂してしまいそうだ。
ひぃちゃんの顔が警戒と、恐怖と、威嚇に濡れている。
翠ちゃんも祈君も、帳君と梵さんさえも顔色が悪く汗が顎を伝っていた。
綿済さんは震えている。紫門さんと泣語さんは水と植物を操ろうとして、消えてしまっていた。
海堂さんの両手が慎重に下ろされていく。
後ろに誰かいる。
誰か――現れた。
シュリーカーさん達と似ているけれど、確かに違う。誰かを思って怖がらせる彼らの悲鳴や威圧とは毛色が違う。
これは、完全なる威嚇と尊厳。
自分に屈服させることを当たり前としているような、肺を握り締められるような空気が充満している。
「やぁやぁ終わったかい!? 戦士のしょ、くん……」
溌剌としたスティアさんの声がする。それでも振り向かない。振り向けない。「こ、れは、これは!」と彼女の声が切羽詰って正されるのを聞き、私は生唾を飲み込んだ。
「……ッ、めしあ」
泣語さんの指先が動く。けれどもそれ以上の動作は許されない。そう空気が言っている。彼は、この空気を纏う誰かを見つめている。
彼だけではない。梵さんも、翠ちゃんも、祈君も、さっきまでグレモリーさん達を見ていた方は現れた誰かを確認している。
床に膝を着く音を聞いた。
私の顔が後ろを向く。体ごと。震えてしまうのを必死に抑えながら。
「――よぉ、面白ぇ足掻き、ご苦労だったな」
膝を着いたのはグレモリーさん、アロケルさん、フォカロルさん。
スティアさんと、彼女と一緒にいるサラマンダーさんも膝を着いて頭を下げており、その対象は一人の男性に見える人だった。
深紅の散切り頭に燃えるような紅蓮の双眼。低くよく通る声が鼓膜を揺らし、筋肉が均等に付いた体に纏っている服の色は黒色だ。
――完成した美しさ。
そんな単語が頭を回った。
「グレモリー、アロケル、フォカロル、息災か? お前達が戦士の術にかかるなど、おかしなこともあったもんだ」
紡がれる声は楽しそうで、誰もが目を瞬かせてしまう美しい顔も破顔していた。
しかし、空気はこちらが笑うことを許していない。
彼がこの場を支配している。
そう思わされる。思ってしまう。
私は呼吸が止まらないよう、意識が飛ばないよう努力した。
「ちゃんとその戦士達には忠告したつもりだったんだが、駄目だな、俺はどうにも言葉が足りんらしい」
一歩一歩、彼は確実にこちらに近づいてくる。グレモリーさん達の前でその歩みは止まって、彼は不意に腕を振った。
アロケルさんが乗っていた生物が吹き飛ばされて壁に激突する。
骨が折れる音、鉄の匂いがする赤が吐き出される音。
それが全身に鳥肌を立てて、顔を青くしたアロケルさんは何も言葉を出さなかった。動きもしなかった。
「ふむ、アロケルの愛馬は弱くなったな。この程度で飛ぶか」
笑う黒い彼は「精進しろよ」なんて言うから、飛ばされた生物は震える足で頭を垂れている。
私の喉が小さく鳴った。
黒い彼は「さて」と話題を切り替える。
「今までの競走でここまで行動を起こした戦士達はいなかった。それに敬意を表して俺もあの方も黙っていたんだがな。さっきの作戦は駄目だ。とても駄目だぞ餓鬼共」
腕を組んで何か考える様子の彼は、海堂さん達を見つめている。
その目の感情が読めない。
私の鍵が震えている気がする。
「よし、殺そう」
――今日の天気はなんですか。
――朝ご飯は何を食べましたか。
そんな気さくな勢いで、息をするように、彼は言ってはいけない言葉を零してきた。
りず君をハルバードに。らず君に輝いてもらって、ひぃちゃんを呼んで。
その行動が想像のまま硬直する。
駄目、駄目、駄目、出来ない、手が動かない。
私の心臓が早鐘を打って、呼吸が安定しない。
あの人の目的は海堂さん達。それを防がなければいけないと、ここから離れなければいけないと今にもりず君が叫び出しそうになって、ひぃちゃんがギリギリの所で止めてくれる。
「グレモリー、フォカロル、アロケル、もうその三人の戦士はいらない。忠告を無視して祭壇を壊した海堂麟之介。競走の破壊を試みて、その意思の遂行に加担した綿済譲、紫門大琥。三人の戦士を殺せ。他に賛同した戦士はまだ祭壇を壊してはいないから要注意だな」
「ぉ、お待ち下さいメタトロン様!!」
当たり前のような態度で話し続ける彼をフォカロルさんが止める。
――メタトロン
その名前をどこかで見た。私は知っている。目にした。昨日のこと。思い出せ。
あの蔵書群の中で確かに見た。
―― 彼は考えた。考えて、考えて、白と黒に名前を与えることにした。白い生物には「サンダルフォン」黒い生物には「メタトロン」と
あぁ、そうだ。最初に創られた白と黒の、黒の名前。
フォカロルさんは一瞬紫門さんを見てから、メタトロンさんに向き直っていた。
「なんだ? フォカロル」
「た、確かに彼らは規則違反をしています。していますが、ですがこれ以上はッ」
「慈悲はいらん。殺せ」
フォカロルさんの体が揺れる。私は奥歯を噛み締めて、ここから三人を連れ出す方法ばかり考えた。
ひぃちゃん、駄目、人数、壁、壊れてる、駆ける、無理、上、天井、後ろ、壁。あぁ、駄目、駄目だ、まとめなきゃ、考えを、逃がす、逃がす、逃げる、吐きそう、飛べない、飛べ、逃がしたい。
思った時、祈君と私の間を通って前に出る人の背中があった。
「ッ! 麟之介」
グレモリーさんの声が震えている。
「俺でいい。俺だけでいい。殺すなら俺だけでいいッ、譲も大琥も俺が操ってただけだ!」
この空気の中で、ここまで言葉をハッキリ言えるだなんて。
驚いて、素直に感動して、心臓が震える。
同時に、彼の痛いほど握り締められた手に気がついてしまう。
輝くその道に先は無い。無いと分かっているのに踏み出した彼は、確かに光りなのだ。誰よりも強い、折れることの無い――彼は
綿済さんと紫門さんは海堂さんを呼び、呼ばれた彼が振り返ることは無かった。
「ふむ、自己犠牲か。美しいな」
メタトロンさんが笑ってる。その口調は柔らかくて、けれども目は細められていないんだ。
顎から汗が茹だっていく。
「だが言った筈だ、慈悲は無い。グレモリー、フォカロル、アロケル、心を砕け」
指示が飛ぶ。
それは、許してはいけないこと。
私の背中で、殻を破るようにひぃちゃんが翼を広げてくれる。
梵さんが拳を握って海堂さんの前に出てくれて、空気が――動いた。
見る。
立ち上がったグレモリーさん達を。
その表情を見て気づいてしまうから。
私は奥歯を噛み締めた。
その表情、知ってる、知ってるよ。
私の前に、肌を、肺を、全てを焼く残炎が舞った。
「譲、君は泣き顔よりも笑顔が良いと、私は常々思っていたよ」
「ッ、アロケル、」
穏やかに笑うアロケルさん。
「大琥、いつも誰かを思う君は、もっと肩の力を抜いたって許されるよ」
「フォカロル、何言って、」
フォカロルさんは首を横に振って、紫門さんの言葉を遮っている。
「麟之介……」
グレモリーさんは、どこか清々しそうに微笑んでいる。
―― 怪我、しないでね
――どうか貴方に、幸あらんことを
彼女達は、炎の中に散ったあの子達と同じ顔をしていた。
「――ちゃんと未来へ、進むのよ」
グレモリーさん。
私の体に衝撃が走り、体が恐怖では無い感情で震えた。
メタトロンさんに向いた兵士さん達から、空気を揺るがす声が飛ぶ。
「フォカロル!! アロケル!!」
「分かってる!!」
「あぁ!!」
瞬きをする間に私達全員が一本の水の縄に縛られて視界がぶれる。
この感覚、これは金色に髪を染めた彼と同じ、あの力ッ
「グレモリーッ!!」
海堂さんの声が響く。
振り返らない銀髪の彼女の前には水と光りで作られた障壁が出来て、その向こうにいるメタトロンさんは目を丸くしていた。
「行きなさい!!」
それは決めた声。
「生きなさい!!」
全てを投げ捨てた、覚悟の声。
「止めろ、止めてくれ!!」
海堂さんの手が伸びる。
視界が変わる。
変わりきる瞬間に見えた赤があの三人のものでないと信じたくて、私達を繋いでいた水の糸がはち切れた。
水飛沫が舞う。
周囲は木々の生い茂る森で、その向こうには透き通る湖が見えた。
住人さんの気配を感じない。
誰もいない森の中。
目の前で、海堂さんの膝が崩れていく様を見つめていた。
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