第97話 過去

 

 アミーが次の変革の年で担当したのは、高校一年生の男子だった。


 名前は松風まつかぜえにし。黒い短髪と人懐っこそうな顔をした男で、髪の長さは少々不揃いだ。長いサイドの髪を黒いヘアピンで止めており、快活に笑う姿が良く似合う。


 アミーは縁の生活習慣を確認する為にタガトフルムに降り立ち、世界の住人に見られないように気配を消していた。


 縁の一日は家族の中の誰よりも早く始まる。五時半にセットした目覚ましより早く起き、年が離れた弟と妹を布団から引きずり出す。


 五人分の朝ご飯を作り、寝ぼけ眼の弟妹きょうだいを保育園の制服に着替えさせた縁は両親が眠る寝室を覗いた。


 そこには強い香水の匂いが広がっており、縁は我慢をしたが咳き込んでしまう。その声に父は起きたようだが、直ぐに布団をかけ直して寝てしまった。


 縁は二人を起こさないように扉を閉めて時計を見る。ゴミを出して支度を整えた少年は、保育園に行く準備を万端にした弟と妹の手を握った。


「よし! 行くぞー、結人ゆいとつむぎ


「あい!」


「にーちゃ!」


 可愛らしく挨拶した二人に笑い返し、縁は家を出ていく。まだ早い時間ではあるが、少し距離がある保育園に着く頃には丁度いい時間になるのだ。


 アミーはマンションから出てきた縁達を確認し、後をつけていく。縁は両手に小さな子を連れて、顔には笑みを携えていた。


 アミーはその様子をただ見つめた。


「今日もよろしくお願いします!」


「はい、結人君、紡ちゃん、お兄ちゃんにいってらっしゃいしようね〜」


「にーちゃ!」


「いってらっちゃい!」


「おう!」


 まだまだ言葉がつたない二人に笑いつつ、縁は小走りに保育園から離れて行く。その背中を笑顔で見送った保育士は微かに眉を下げていた。


 結人と紡はそんな先生の顔を覗き込み、保育士は何でもないように笑う。小さな二人は園舎に入り、アミーは縁の後を追った。


 スクール鞄を背中に担いで走っている縁。片手に下げた保冷バックに入れた弁当が荒ぶっているが、少年には遅刻するか否かの方が気にするポイントだ。


 保育園と縁が通う高校は真反対の位置にある。その為、どれだけ早起きして丁度いい時間に保育園に着いても、縁は遅刻ギリギリなのだ。


 薄水色の髪を持つ兵士は朝から忙しい戦士を追い掛ける。


 ホームルーム五分前に正門を駆け抜け、教室には三分前に滑り込む縁。息を切らせている彼を見たクラスメイトは少年を茶化していた。


「よぉ松風! 今日もギリだな!!」


「うるっせぇな! 間に合ってんだからいいんだよ!」


「やーん縁君怖〜い」


「気持ち悪ぃなお前らホント」


 縁は、騒がしく笑う友人達の肩を叩く。白い歯を見せて笑う彼はクラスの中心人物、という訳では無いが隅に座っている質でもない。所謂いわゆるムードメーカーのような存在だ。


 アミーは学校周りの家の屋上に座り、千里眼で縁の動向を覗いている。朝から追いかけずに覗いていれば良かったのだが、体内時計が逆転している現在は動いた方がアミーの頭が回るのだ。


 縁のクラスは三十五人クラス。横六列、縦は廊下側が一列だけ五人で、後は六人列で形成された席順。それは少年にとって見慣れたもので、廊下側から二列目、後ろからも二番目の席に縁は息を吐きながら座った。


 それと同時に担任がやって来て騒がしかった教室は静かになっていく。今日の予定や配布物が縁の所まで回ってくれば、少年は斜め前の席に視線を向けるのだ。


 配布物を後ろの生徒に渡している、小柄な少女。黒く背中の真ん中辺りまでありそうな髪をハーフアップにし、髪と同じ色のつぶらな瞳と長い睫毛が縁の目に入る。


 少女は配布物を渡すと直ぐに前を向き、机の中から桜色のファイルを取り出していた。


「おい縁」


「いで」


 不意に縁の頭が配布物で叩かれる。見ると前の席の友人が「はよ取れ」と茶化しており、縁は「さーせん」と軽く謝りながら受け取っていた。


 後ろの席の女子生徒にも謝りながら配布物を渡した縁。彼の悪びれない笑顔に女子生徒は笑い返しており、少年は頭を掻きながら前に向き直った。


 配られたのは五月の予定表。教師の声を聞きながらそれを眺める縁の目は、やはり少しだけ斜め前の少女へ向いていた。


「……よそ見」


 アミーは呟く。その片目は、教師に注意されてクラスに笑い者になっている少年を見つめ続けたのだ。


 * * *


「なぁ縁、お前また迷野まよいのさん見てたんだろ」


 四限終わり。理科室から教室へ歩いていた縁に絡むのは、彼の前の席の生徒だ。


 名前はくすのき千歳ちとせ。生まれながらに少し明るい茶髪と、何事も冗談めかして言う男だ。


「ちっがわ!!」


 縁は顔を耳まで赤くして叫ぶ。廊下に響いた声に千歳は耳を塞ぎ、他の生徒も何事かと縁に視線を向けていた。それに気づいた少年は手で顔を覆い、指の隙間から友人を睨んでいる。


 千歳は今にも膝を叩いて笑いだしそうなのを必死に堪えているようだ。


「ちぃ~とぉ~せぇ~……」


「いやいや、そんな大声で否定するから……」


 縁の頭を軽く叩く千歳。縁は赤い顔を教科書で扇ぎながら、友人を恨みがましく見つめるのだ。


「ま、諦めろ諦めろ、迷野さん彼氏いるって聞くしさ」


「言うなよ。傷に塩だ」


「告白してねぇのに傷も何もねぇだろ」


 馬鹿にしたように笑う千歳を殴る縁。千歳はそれにお返しと言わんばかりに首フックをかえ、男子二人は騒がしく廊下を進んでいた。


 アミーはそれを見ながら唇を噛む。


 松風縁の生活は楽と言えるものでは無い。けれども彼はそれなりに友人がいて、それなりに同級生に恋をして、それなりの青春を送っている筈だ。


 自分はそれを壊す因子である。


 アミーは左目を手で覆って下を向く。


 どうすれば縁を殺さずにこの日常に返せるか。どうすればこの競争を中止に持ち込めるか。どうすれば両軍の子どもを殺さずに戻してあげられるか。


 アミーは考える。この何百年もの間ずっと考えてきたことを。その答えは未だに出せない。出せる気もしていない。相手は後ろも振り返らずに人の腕を吹き飛ばせる神様だ。


 それがどう言った原理で吹き飛ばされたのかもアミーには分からないし、創始者を思い出せば必然的に目を潰す為に迫った歯車も思い出してしまう。


 アミーはもう痛まない筈の右目を押さえ、生きている千里眼を再び使った。


 見えた縁は教室に辿り着いている。彼はロッカーに教科書等を放り込むと、変わりに保冷バッグを取り出して机に乗せていた。


 前の席の千歳は机を縁の方に向け、既に弁当の蓋を開けている。


 縁はいつも通りの友人を見つつ椅子に座る。開けてみた弁当の中身は寄っており、少年は唸るのだ。


「なんだ縁、また寄り弁かよ。朝遅刻ギリギリで走ってくるからだぞー」


 千歳は手を合わせながら友人に言い「いただきます」と食事を始める。縁は髪を掻きながら「分かってるよ」と苦笑し、同じように手を合わせていた。


 アミーは不思議に思う。なぜ結人と紡を送ってくるから遅れるのだと言わないのかと。


 縁は友人との身のない話に談笑し、視線はふと窓際へ向かっていた。


 黒髪をハーフアップにした女子生徒――迷野まよいの氷華ひょうかを縁は見てしまう。それに気づいた千歳は仕方がなさそうに息をつき、気づかない氷華は友人の話を楽しそうに聞いていた。


「で、この前の大会は結構いい調子だったのに、やっぱり隣の足立あだちには勝てなくってさー!」


「そっかぁ、頑張ったのに悔しいね」


「ホントよ! あの子どんな練習したらあんな早くなるのかしら……」


 氷華の前にいる生徒――湯水ゆみずみつるは先週末に行われた陸上大会についての報告をしている。


 健康的に焼けた肌でベリーショートの黒髪を揺らす満が話し、氷華がおっとりと相槌を打つのが二人の関係らしい。


 縁は小さく笑う氷華を見つめて食が進まない。千歳は腹を抱えて大笑いしそうになるのを堪えていた。


「止まってんぞ―」


 気づいたように、縁は慌てて潰れた卵焼きを口に突っ込む。その慌てように肩を揺らした千歳は白ご飯を箸に乗せていた。


「可愛いよなー、迷野さん」


「うるっせぇお前は見んな」


「いや、お前のでもねぇし」


 不貞腐れた顔をしてしまった縁を千歳は笑う。


 縁は氷華に向かいそうになる視線を自分の箸先に向け、無心で弁当を口に運んだ。千歳はその姿を見て、報われない友人を可哀想にも思う。


 松風縁は迷野氷華と言うクラスの中でも美少女と謳われる相手に恋をし、しかしながら彼女には既に一つ上の学年に彼氏がいるという状況。相手はしかも氷華の幼馴染と言うではないか。これでは望み薄と言っても過言ではなかろう。


 唯一の救いは、縁も千歳も氷華の彼氏を知らないことかもしれない。


 千歳は横目に氷華を見て、ころころと表情を変える彼女に惚れた友人を哀れんでおいた。そんな哀れみを拭う為に、千歳は冗談めかして言葉を紡ぐのだ。


「おら早く食えよ。俺は食後のジュースを買いに行くんだか」


「一人で行け。俺は図書室に行く」


「ストーカー」


「シバキ倒すぞ」


 机の下で千歳の足を蹴る縁。弁慶の泣き所に爪先を勢いよく打ち当てられた千歳は悶絶し、縁は食事を口に詰め込んだ。


 アミーは昼食用に持ってきていたグレイグ特性のパンとチーズを頬張っている。どれだけ緊迫したことがこれから始まろうとも、腹が空くものは空いてしまうのだ。


 彼の千里眼に映る縁は早々に昼食を平らげ、教室を満と一緒に出ていった氷華を見ているのが分かる。千歳も同じように昼食を食べ終えると席を戻し、教室を出ていく縁の背中を叩いておいた。


「いッ!?」


「もう行くのかよ」


「行くわ。今日これ返却期限だし」


「ちゃんと読んだのかー?」


「読んだ」


 可笑しそうに笑いながら教室を出ていく縁。千歳はそれを見送ると、自販機がある食堂へ向かって歩き出した。


 縁はただ真っ直ぐ図書室へ向かう。一年生の教室は教室棟の三階であり、図書室は二階の渡り廊下と繋がる特別棟の一階。


 縁は陸上部の部室に向かう満を発見しながら図書室に辿り着いた。


 早まってしまう心臓を落ち着かせる為に深呼吸する。それから図書室の扉を開ければ、目に飛び込んできた本の森と温かな木造の室内が縁に安心感を与えた。


 彼はカウンターの司書に本を返却すると、次巻が置いてある本棚に入り込んだ。


 そこにいた先客。


 本を立ち読みしている氷華は縁に気がつくと、綻ぶように微笑んでいた。


「縁君、こんにちは」


 それだけで縁の顔は緩んでしまう。この本棚の分類は洋書。外国で出版された小説が日本語訳された書物が並んでいる。


 縁は頭を掻きながら笑い、肩をすくめていた。


「こんにちは、氷華ちゃん。次は何読もうとしてるの?」


「ぁ、ぇっと、これ、御伽噺おとぎばなしなんだけどね」


 縁の問いにはにかみながら答える氷華。縁は、本を両手で持って説明する少女に胸を締め付けられながら、相槌を打っていた。


「縁君は続き?」


「うん、この冒険譚が面白かったから」


 縁は本を抜き出して笑ってみせる。氷華は何度も頷き、二人は話題に花を咲かせた。図書室の隅で、小さな声で。


 アミーはそれを覗き見ながら息をついた。


 耳を真っ赤にしながら話している縁は、ただ氷華と話せることが嬉しいと全身から流れ出ている。


 感情というものを隠す気があるのかと疑いたくなるが、人から向けられる感情を好意か厚意かで見分けるのは至難の業。


 既にパートナーがいる氷華の目に映る縁は「良き友人」なのだろうとアミーは検討をつけ、顔を緩める縁を千歳と同じように哀れんだ。


 アミーに恋慕という感情は分からない。分からないが、恐らく戦士達が消えていく時に感じる息苦しさは同系統の何かだと考えていた。


 縁が見た目に反して本を読む少年なのかと言えば、それは否である。彼は活字を追うのは苦手であるし、氷華が入るからという理由で入った飼育委員も本来なら絶対入らないものだ。


 松風縁とはそう言う少年。


 ただ目で追ってしまう子を長く見つめていたいから、同じ立ち位置にいようとしてしまう。


 アミーは健気な少年を見つめつつ、必要に髪を止めたピンを触る少年の仕草も覚えていた。


 氷華は本の話題や、飼育小屋にいる動物を一緒に語れる縁に対して嫌な感覚は無いように見える。どちらかと言えば、話題を無理に広げようとしない縁の態度に安堵しているようだ。


「まぁ、良い友達で止まるんだろうね」


 アミーは呟き、鳴り響く予鈴を聞く。


 縁と氷華は一緒に教室に戻り、その後は授業中に舟を漕いだ縁が担任に注意されて笑い者になるという光景を見ていた。


 放課後、縁は誰よりも早く教室を飛び出して学校近くのドーナツ屋に入っていく。


 アミーは不思議に思いながらその動きを見つめ、次に出て来た縁が全身青い兎の着ぐるみに入っているのには吹き出してしまった。


 いくつもの風船を持って、道行く子ども達にドーナツ屋のチラシと風船を渡していく縁。何も喋らない着ぐるみにちょっかいを出す学生も居たが青い兎は総無視状態だ。


 それはアルバイトのようで、三時間延々と風船とチラシを配り続けた縁は直ぐに着替えると日払いの給料を受け取り、今度は保育園へと走っていた。


 アミーは屋根の上を気配を消して何度か転移し、夕暮れ時に迎えに来てもらった結人と紡を見下ろしていた。


 縁は保育士に何度も頭を下げながら二人と手を繋ぐ。日が長くなっていたとしてもまだ五月。薄暗い中、縁は小さな手と手を繋いでマンションまで帰ってきた。


 家の鍵は開いている。


 中に入れば、しっかりと化粧を施した母親が出かけるところだった。


「あら、みんなおかえり〜!」


「ままー!!」


「たぁいまー!!」


 縁と手を離し、満面の笑顔で母親に抱き着く結人と紡。縁は呆れたように息をつき、母親に「これから仕事?」と確認した。


 嬉しそうに小さな二人を抱き締めていた母親は、若く見える顔で「そうよ〜」と笑っている。


「母さん、今日晩ご飯は?」


「んーいらないかなー、今日も遅くなるから先に寝ちゃってね」


「分かった。お父さんは?」


「もう出ちゃったよ。あの人大人気だからね〜」


 纏めあげた髪をひと撫でして立ち上がる母親。彼女は結人と紡の頭も撫でてハイヒールを履いた。


「じゃ、よろしくね、お兄ちゃん」


「あぁ、任せて」


 息子の肩を叩いて満面の笑みを浮かべる母親。彼女は幼い二人にも手を振って、軽い足取りで玄関を閉めていった。


 縁は叩かれた自分の肩を見て目を細めてしまう。それから結人と紡に着替えと手洗いをさせた。


 アミーはそんな様子を見つめている。


 軽く貰っていた縁の情報を思い返すが、縁と結人、紡は血の繋がらない兄妹だ。父親とも血は繋がっていないとも思い出す。


 アミーは息をついて、橙色から紫へ、紫から黒へ変わる空を背にしていた。


「……朝は忙しそうだしなぁ……彼、一体いつなら話せるかな」


 兵士は呟き、慣れた手つきで夕食を作る縁を見る。


 一日笑顔か、気の置けない友人には不貞腐れた顔をしていた縁。彼の表情が最も緩んだのは氷華と話していた時だろう。


「ディアス軍兵士、アミー、アルフヘイムへ」


 そう言って足元に開いた暗い穴に沈み込むアミー。彼は黒の中を通って空から吐き出され、アルフヘイムの朝焼けに目を痛めていた。


 * * *


 結局アミーが縁に会おうと決めたのは、カレンダーを覗き見た時にアルバイトの印が無かった日の夕方だ。


 その日はアルバイト先ではなく保育園に直行すると踏んだアミーは、小走りに学校を出た縁の後を追跡した。


 少年は予想通り保育園へ一直線に向かっている。


 兄の模範生のような彼だが、いつもその道中に顔が曇っていることをアミーは知っていた。


 縁は時折、意識がここに無いような静かな表情をする。年齢に不釣り合いなほど達観した微笑みをしている。


 それをアミーはあまり好きだと思えず、縁が人通りの少ない近道に入り込んだのを見計らって転移した。


 走っていた縁の前に足を着くアミー。


 少年は驚いて、反射的に急ブレーキをかけた。


 アミーは、縁から向かって左側が火傷している顔を見せる。薄水色の髪は建物の陰によって色を暗くし、少年の目は見開かれていた。


「はじめまして、おめでとう、そして残念、松風縁君。僕はアミー。アルフヘイムの戦士に選ばれてしまった君の担当兵だ」


 その唐突な出会いが縁の歯車を狂わせていき、アミーの心も壊していく。


 彼は頭の隅で少年を救うことを模索し、自分に畏怖いふと奇異の視線を向けてくる縁を見下ろしていた。

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