第85話 雨降

 

 細流梵には体に染み付いた日課がある。


 彼の一日はフローリングの敷布団に放り出されて始まる。


 通っている大学から近くもないが遠くもないアパートに住んでいる梵は、見慣れたワンルームを見渡してから起き上がった。


 アルフヘイムに行く為に着ていたジャージとTシャツのまま、彼は靴を脱いで玄関に向かう。玄関にかけてある家の鍵を掴めば、彼はすぐに靴を履き直して外へと出た。


 それから朝日を横目に二km先の神社までランニングする梵。神社に着けば鳥居にお辞儀だけしてまた二kmを走って戻る。合計四kmのランニングは梵にとってはルーティンなのだ。


 彼は明るくなる空を見ながら走り、散歩されている犬と初老の男性にもお辞儀をしておく。いつもすれ違う老人は穏やかで、その犬に吠えられるのも梵の決まり事だ。


 彼は激しい吠え声を聞きながら家に向かう。


 夜通しアルフヘイムで行動して体は疲れているが、朝は走らなければ一日動けなるのが梵だ。


 梵は家に着くと六月の湿気が多い空気を洗い流すように浴室へ向かう。彼は頭からシャワーを被り終わると、髪を拭きながら台所に立った。


 卵とパンを焼いてハムとブロッコリーを添えると言う慣れた朝食を作る。


「あ、」


 フライ返しで巻いた卵焼きを見て、梵は声を零した。


 今日も焦げた卵焼き。一人暮らしを始めるまで料理をしたことがなかった梵はいつも少しだけ何かを失敗する。


 卵が焦げたので次は早めにしてみれば半生で、トーストも焼き過ぎるか焼けていないかのどちらか。


 洗濯も洗剤の量を間違えることが多々あり、洗濯が終わったのに干すのを忘れることもある。


 細流梵は、生きるということが不得手な男だ。


 家賃が安いと言う理由で大学がある県ではなく隣の県との境目に住み、自転車を漕いでの登校。二回生になれば大学にも慣れたが、未だに行われる武道系サークルの勧誘をかわすのは慣れないらしい。


 その日の梵の授業は二限からである。六月も数日過ぎた為、朝は晴れても昼になれば曇り空と言うのはよくあることだ。


 彼は所属サークルの教室から空を見上げて、また手元に目を向けた。


 そこにあるのは茶色い布と、茶色い糸が通った銀の針。その針を布に刺して梵は無心で裁縫をする。


 細流梵は大学で手芸サークルに入った。彼を知る者からすれば「似合わない」と言うのだろうが、梵は好んでここにいる。


 彼は何度も自分の指先を針で刺したが、何も考えずに手を動かしていた。


 出来上がったのは歪な熊の形。布を裏返して綿とビーズを詰め始めた梵は、やはり何を考えているか分からない顔をしていた。


 彼は綿を限界まで入れ込み、自分のネームプレートが貼ってある引き出しに熊のなりかけを仕舞う。そのまま彼は裁縫道具も仕舞って引き出しを閉じ、自分の荷物を持って部室を出た。


 ちょうど廊下には同じサークルの先輩に当たる女子生徒がいた為、梵は部室の鍵を彼女に託して帰宅の道を辿る。


 自転車を漕ぐ梵はふと反対側の歩道を見た。夕焼け色に染まる街を歩いている一人の少年は、梵が見知ってしまった人物だ。


 結目帳は両耳にイヤホンを付け、前を見据えて歩いている。


 梵はそれを見て、信号が青だった近くの横断歩道を迷いなく渡った。


 帳の前でブレーキをかけた梵は、目を瞬かせる帳を見つめている。


「……え、鉄仮面じゃん」


「あぁ、帳、こんば……いや、こんにち、は」


「こんにちは」


 耳からイヤホンを外して巻きとる帳。彼は繋いでいた音楽プレイヤーからイヤホンジャックを抜き、梵を見上げて首を傾けた。


 ブレザータイプの制服を着崩していない彼は、正直梵の印象とは違っていた。


 帳は何も言わない梵に「で、何の用?」とピアスを触っている。梵は首を傾けると、ゆったりとした口調で言っていた。


「見かけた、から、声を、かけた、だけ、だ」


 それを聞いた帳は暫し黙り、深いため息を吐いていた。


 * * *


 梵と帳はファミレスに入っていた。


 誰かと共に食事することが余り好きではない帳は気乗りしていないようだが、小雨が降り出した為の妥協である。


「何、が、食べたい?」


 梵はメニューを開いて首を傾けた。帳は向けられたメニューに目を走らせて、一番安いハンバーグプレートを単品で指す。


 頷いた梵は直ぐに呼び鈴を押していた。


「え、鉄仮面決めたの?」


「同じ、ものに、する」


「まじ……」


 帳は何か言いかけて口をつぐむ。


 やって来た店員には「ハンバーグプレートとドリンクバー二つずつ」と帳が伝えた。梵はメニューを立て、窓の外に目を向けている。


 二人は店員の復唱を聞き終わって頷き、いなくなれば無言になった。アルフヘイムでならば話す帳も、タガトフルムでは話題が無いらしい。


 いや、話題が無い訳ではないが出していいものかと考えるのだ。


 帳は口が軽い者が嫌いである。直ぐに人のことまで喋り振り撒く人を見てきた彼は、勝手に哀れみを向けられるのが何よりも許せないのだ。


 だから彼は他者のことを軽んじて語ることはしない。印象ならば別だが、それは感じたままを語れば人が寄り付かないだろうと帳が考えた結果だ。元来がんらいの彼はそこまで口数が多くない。


 しかし流石に顔見知りと無言を貫くのは居心地が悪いので、帳は重たい口を開いていた。


「……ここら辺の大学だったんだ」


「あぁ、すぐ、そこ、だな」


「雛鳥と言い、一つの県に固まりすぎだろ」


「いや、俺の、家は、隣の、県だ。境にある。から、住所も、こっちじゃ、ないな」


「え、なんでそんな所住んでんの」


「家賃が、安い」


「……はー」


「実家、から、は、学費だけ、工面して、貰ってるから、後は、俺で、何とかする。その為に、安い場所が、良かった」


 帳はそれを聞き、自分と似た現状であると言う感想を抱いていた。彼も叔父から高校の学費等を貰っている。それでも、梵からは家族の補助を貰いたくないと言う空気が漏れているように見えた。


「……家族、嫌いっぽいけど」


 帳はそれとなく呟き、梵は視線を明後日の方に向ける。聞いた少年は「あぁ、ごめん、いいよ答えなくて」と手を振った。


「失礼しまーす」


 気怠げな声がして、見ると店員がプレートを二人の前に置いている。帳は「どーもー」と笑いながら気怠さを真似ているようだ。梵は会釈して、二人はドリンクバーへ向かう。


 帳はコーラを入れており、隣を見ると梵は水を入れていた。それに帳は頬を若干痙攣けいれんさせている。


「水ならさっき机にあったじゃん?」


「……あぁ、そう、だな」


「……コーラとか飲まないわけ?」


「……飲んだ、こと、ない、な」


 帳は「はぁ?」と眉間に皺を寄せる。それからドリンクバーにある飲み物を順に指していくが、全て梵は「飲んだことがない」と答えていた。


 そこまで聞けば、流石に帳も懸念けねんと疑問を抱いてしまう。それから自分が注いだコーラのコップを梵に向けた。梵は揺れた液体を見下ろしている。


「飲む?」


 純粋な確認。


 帳は、特に深い意味を持って聞いた訳では無い。


 しかし梵は固まってしまった。


 思考も動作も停止状態。


 それを帳は読み取って、目を伏せた。


「冗談だよ。ほら、席に戻ろ」


「……あぁ」


 無表情に歩く梵。体躯は平均的な男性よりもしっかりと作り込まれているのに、その中身は何も決められない子どものようだ。


 帳は手を合わせてから食事を始め、梵も同じようにフォークとナイフを持った。


 二人の間にはまた沈黙が流れる。雨は強くなり、白い線が窓に打ち付けていた。


 帳は肉汁の詰まったハンバーグを口に入れ、咀嚼そしゃくしながら窓の外を見る。


 交差点の向こう。


 そこには赤く毛先を染めた少年がいて、帳は息を吐くのだ。


「なんでこんなにタイミングが……」


 梵も気づいたように外を見る。


 闇雲祈を発見した彼は、青に変わった横断歩道を駆ける少年に手を振った。


 道路を駆けた祈は気づいて目を丸くする。両手で頭を覆っていた彼は急いでファミレスに飛び込んだ。


「え、なんで呼んだの」


「いた、から、な」


「あーっそ」


 帳は頬杖を着きながらナイフを食器の上に置く。食事中断の姿勢だ。


 水気を払って席に近づいた祈は、身長的に目立つ梵をすぐに見つけた。


「細流さん……と、ヤンキー」


「祈」


「誰がヤンキーだよ鳥目君」


「誰が鳥目だ。細流さん、座っていいですか」


「あぁ」


 梵は鞄を移動させて、祈は彼の横に座る。梵は荷物の中からタオルを出して中学生の頭に被せていた。慌ててお礼を言った祈はぎこちなく髪を拭いている。


 帳は、興味が無さそうな目で聞いていた。


「雛鳥君って道こっちなんだー?」


「ぃや、違うよ。今日本屋に寄りたかったからこっちに来たんだよ」


「日を間違えたね」


「だって今日降水確率二十%だったじゃん。降らないと思ったし、降っても小雨ならって思うだろ普通」


「準備に欠けるね。その余裕がアルフヘイムで出なきゃ良いけど」


「うるっさいなぁ」


 いつものように言い合いが始まる二人を気にせず呼び鈴を押す梵。やって来た店員は吠えている祈と会話を流している帳を見比べて、メニューを開いた梵で視線を止めた。


「祈、何が、食べ、たい」


「ぇ……ぇぇ……ぁ、それ……」


 突然話を振られた祈は驚き、開かれていたページの片面にあったパフェで目を止める。多くも少なくも無さそうな量の甘味を祈は自然と欲しかけ、だがそれを口にする勇気は無かった。


 口ごもった祈を見た梵は「これを」と中くらいのサイズのパフェを指し、店員は注文を受けている。


 それに驚いた祈は挙動不審に視線を右往左往させ、店員は去っていった。梵はメニューを閉じて元あった場所に仕舞っている。


「ぇ、なんで俺、それ見たって」


「視線が、これで、止まったから、な」


 梵は頷き「違った、か?」と首を傾けている。祈は首を横に振り、帳は食事を再開させた。


「ドリンクバーは良かったの?」


「ぁ、次来たら言う……って一緒に食べていいのかよ」


「今更」


「食べ、よう」


 帳は鼻で笑い、梵は頷いている。祈は少しだけ口をもごつかせると、腕時計で時間を確認して携帯を開いていた。


「親にだけ連絡したい」


「どーぞー中坊〜」


「連絡、は、大事だ」


 肩にタオルを下ろした祈は何度も首を縦に振り、自分の髪を引いていた。


 梵は祈を見下ろしている。メッセージを母に送り終わった少年はその視線に気づき、無表情のチームメイトを見上げた。


「細流さん?」


「……いや……」


「……何か、俺の顔についてます? あ、その、タオルは洗って返します」


「気に、しなくて、いいぞ」


「いや、そこは礼儀です」


「……祈は、いい子、だな」


 少しだけ湿った祈の髪を撫でる梵。彼の目は少し揺れ、それの気づいた祈が口を開く前に梵は目を伏せた。


「……細流さんって、きょうだいがいますか?」


 祈は気になったことを聞いてみる。梵は目を開けると、自分の食べかけの皿を見た。


「弟も、妹も、いる。あの子達、は、双子、なんだ。姉の、萌葱もえぎに、弟の、添義そえぎ……祈の、一つ、年下、だな」


 優しい声だった。


 いつも感情を見せない梵が――表情は変わらないものの――気持ちを見せた気がした。


 祈は頭の中で言葉を選び、これ以上聞くべきではないと思ってしまう。


 梵はナイフとフォークを持ち直し、隣に座っている少年の声を聞いていた。


「大事、なんですね」


 梵は目を微かに見開く。それからゆっくりと平時と変わらぬ無表情へと戻り、静かに答えていた。


「あまり、話せた、ことは、ないん、だがな」


 呟いた声を祈が拾った時、彼の前にパフェが置かれる。肩を跳ねさせて驚いた少年は店員に何度も頭を下げ、帳はコーラを飲みながら携帯の検索画面を見ていた。


 〈細流梵〉


 空手道大会、小学校低学年の部、中学年の部、高学年の部、中学生の部、高校生の部で全国大会まで進出。計十二回、表彰台の一番高い所に上った男。


 空手だけではなく合気道、柔道、剣道、日本拳法、少林寺拳法、それぞれの大会でも優勝経験ありの正に「怪物」


 高校卒業と同時に格闘技界から消えた「伝説」


 帳は目の前に座る梵を見てから手元に視線を戻し、深く息をつきたくなっていた。


 簡単に人のことを口にはしないが、調べはする帳。


 彼は祈と梵を見比べながらハンバーグを口に入れた。


 雨はまだ、止みそうにない。

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