第76話 現実

 

「言った筈だよ、氷雨ちゃん。硝子のハートは、壊れやすいのに無理をする人の象徴だって……」


 赤い水晶玉に映る氷雨を見ながら、アミーは呟く。


 その水晶に触れさえすればアミーは氷雨の鍵から現れることが出来るのに。それを許されない兵士は、被り物の下で唇を噛み締めた。


 映っているのは、涙腺の決壊した小さな少女。


 落ちたドラゴンの残骸は溶け出しており、砕けた硝子の針鼠はむなしく地面に散っていた。


 茶色い針鼠が叫んでいる。痛みの象徴である彼は泣き叫び、アミーは兎の目に両手を当てた。


「駄目だよ氷雨ちゃん。お願いだから……無理しないで……」


 アミーの声は届かない。


 氷雨は涙を零しながら奥歯を噛み、砕け溶けた自分の心獣達を見て傷つき続けるのだ。


 * * *


 りずの絶叫が谷底に響いている。


 その場にいる全ての鼓膜を破らんとする咆哮ほうこうは哀愁を纏い、光は自分の言葉が間違っていたと悟るのだ。


 氷雨の瞳から涙が零れ続ける。


 今日までを共にしてきた仲間達はその姿を見て、理解した。


 氷雨が折れてしまったと。


 人一倍心配性で、優しさの塊のような少女はディアス軍に不向きであった。自分の為に誰かを殺すなど、かの少女には困難だったのだ。


 それでも、責任と覚悟を持って生贄を集める氷雨は常に笑顔だった。自分で気づけないほど傷ついていようとも、少女は音を上げなかった。


 同じディアス軍の戦士の為に、仲間の為に、自分の為にと彼女は歩き続けたのだ。


 その心がどれだけ痛がろうとも、どれだけ崩れてしまいそうになりながらも。


 その心にヒビが入った原因は――フォーン・シュス・フィーアの大火災。


 傷ついて亀裂が入り、それでも進んだ少女は限界だった。


 非道になりきれず、それでも自分達の正しさを持って勝利を欲していた。


 その心が、痛みに耐えきれずに砕けたのがこの瞬間だ。


 むせび泣くりずの体がヤマアラシのように巨大化していく。背中の針はより鋭く、声はより大きく、気迫はより歪に。


 氷雨は歯を食いしばって足を前に出す。誰もそれを止めはしない。


 紫翠は手裏剣を指の間に挟み、殺意すら纏ってみせる。


 梵は固く拳を握り、無駄な力は全て捨てた構えを取る。


 祈は目の色を変えたルタと同化し、パートナーの感情と同調する。


 帳の服の裾がなびく。風は、彼の周りにだけ吹いていた。


 氷雨は関節が白くなっていた両手を解き、腹の底から叫んでいた。


「フットマンズ・アックスッ!!」


 武器の名と共に、怒号を上げていたりずが鋭く変形する。


 長さ二・五m。斧を中心として形成された刃はハルバードのようであり、しかしいつも少女が使う刃よりも大きく鋭利だ。


 それは甲冑すらも打ち砕く巨大な斧。


 自分の体躯では使えないと氷雨が判断していた破壊の武器。


 らずだった硝子片は淡く輝き、氷雨は地面を抉る勢いで飛び出した。


 小柄な体躯に見合わない巨大な武器を持っているにも関わらず、彼女の動きは俊敏だ。


 光は苦い顔をして瞬時に真上に跳ねる。飛ぶのではなく跳ねる。


 氷雨は光がいた場所を真一文字に切り裂き、直ぐに上空を見た。


 光に宙を移動する技術はない。あるのはただ「反発する」と言う力だけ。


 少女は光を確かに見て、小さな彼女に土人形の殴打が入らんとする。


 それを見ることなく氷雨は地面を蹴り、土人形の腕と頭は銀の手裏剣によって砕かれた。


「あら、」


 目を瞬かせた茉白は後頭部に入った衝撃により、顔から地面に叩きつけられる。


 容赦なく少女の頭を蹴り倒したのは、青筋を立てている紫翠だ。


「あんたの相手は、私だって言ったでしょ」


 凍てつく声に茉白は物怖じせずに立ち上がる。紫翠は、距離を取ろうとする茉白の鳩尾になりふり構わぬ拳を打ち込んだ。


「ルアス軍は良いわよね。救えば勝てるんだから」


 茉白はせこみながら土の人形を身代わりに後退する。


 紫翠に向かって飛んだイーグ。


 その怪鳥を羽根で落としたのは祈であり、彼の赤髪は揺れていた。


 隠れ気味の両目には涙の膜があり、少年は大きな斧を振るう少女を一瞥いちべつする。


 直ぐに旋回したイーグは祈の後ろへ回り込んだ。


 祈はその動きを追うことをせず、零した羽根を四方八方に打ち出した。


 イーグは火を吐き自分に向かった羽根を燃やすが、暁はそうはいかない。少年は刃の雨を避けながら走り、肩や脹脛ふくらはぎから血が舞った。


「いッ」


「暁ッ」


 イーグはパートナーの前に飛び出して業火を吐く。


 祈は翼を畳んで火をかわし、迷うことなく暁を目指した。祈の肩に火の粉が飛んだが今の彼には関係ない。


 イーグはパートナーと祈の間に入り続け、体を巨大化させた。


 暁に向かって斜め上から突進していた祈は、イーグの口から零れた火の粉を見る。


 瞬間、業火が鷲の口から吐き出された。


 暁は反射的に顔を腕で覆い、イーグが口を閉じれば直ぐに祈を確認した。


 熱が晴れる。


 そこにいたのは片翼を焦がしたルタであり、祈の姿はない。


「あいつ、同化をッ」


 理解した暁は後ろに気配を感じ、脊髄反射で振り向いた。


 見えたのは黒い羽根の刃。それを握り締めている赤髪の戦士は、泣きだしそうな顔で腕を振り下ろした。


 暁は切羽詰まった声を零しながら、祈の手首を掴んでみせる。


 祈は自分を押しのけようとした暁の手と指を組む形で競り合い、二人は歯を食いしばった。


 空ではルタとイーグが黒い羽根と紅蓮の炎で攻防を繰り広げている。


 祈は暁を鬼気迫る表情で見つめ、悲痛に濡れた声を叫ぶのだ。


「俺達が間違ってるなんて、知ってるんだ……ッ! それでも、生きたいと思うから進むんだよ!!」


 暁は目を見開き、一筋の涙を零した祈と、その向こうで激しく交戦を繰り広げている梵と博人を見つめた。


「は!! 落ちたもんだな細流!! 何も執着しなかったお前が初めて望むのが、殺して生きることだなんてな!!」


 博人の言葉を聞いて、一瞬だけ梵の眉が動く。


 白い戦士の鉄拳を殴り払った黒の戦士は、鮮やかに相手の顎に前蹴りを決めた。


 博人の意識が一瞬揺らぎ、その間すら梵は許さない。


 全体重をかけた外回し蹴りを博人の側頭部に決めた梵。その衝撃に耐えきれなかった青年は、勢いよく地面に叩きつけられる。


 梵は蹴りを入れた足を地面に着き、その勢いのまま反対の足を上げる。踵を博人に叩き落とそうとする黒い瞳には、確かな戦意が宿っていた。


「明日を、望んで、何が、悪い」


 博人は無理矢理体を回し、地面を抉る踵落としを躱している。その避けた反動で立ち上がった博人は、梵に素早く二段蹴りを仕掛けた。


 梵の黒い毛先に博人の爪先が掠める。それを悔しがった青年に向かって梵は手刀を御見舞し、大きな手は博人の首筋に炸裂した。


 しかし同時に、博人も梵の脇腹にボディーブローを決めている。二人は同時にせた声を出し、先に意識を戻したのは梵であった。


 彼は自分の脇腹に埋まる手を外に払い、博人の頭を掴む。そのまま容赦なく力を込めた梵は、膝蹴りを博人の顔に叩きこんだ。


 硬いものが痛む音がする。


「が、ぁッ!!」


 博人は顔を押さえて必要以上に後退し、指の間からは赤く重たい液体が流れていた。


 梵の膝にも同じ色が付いており、博人は怒りに満ちた声を零している。


「顔面、膝蹴りだと、テメェ……ッ!!」


「ここでは、退場が、ない、から、な」


 梵は拳をしっかりと握り、構えを正す。博人は眉根を痙攣けいれんさせながら、血を溜めた自分の手を払った。


 地面を蹴った二人の拳がぶつかり合い、低い音が響く。


 それに重なるように、風と水が混ざる音が木霊こだました。


 大琥の水の弾丸を風で防ぐ帳。


 彼が作る風の渦の中心には水が集まり、それを少年は大砲の如く打ち返した。


 大琥は手を前に出して自分に向かう水の勢いを急停止させる。それを押し込もうと力を入れる帳の腕は震え、顔に笑みはなかった。


「ルアス軍にあれだけ言われて、お前は何とも思わねぇのかよ!!」


「ッ、正しいのは彼らだからね!!」


 帳の風と、大琥の水が打ち消し合う。


 茶髪の少年は手を握り締めると、感情を乗せた言葉を吐いていた。


「だから俺達に考えを改めろって? 笑えない冗談だね。俺達は与えられたルールに従ってるだけだ!!」


「そのルールがおかしいんだよ!! なんで従うんだ! 殺して生きたってそこには何もないだろ!!」


 帳の空気の圧が大琥の体を地面に叩きつけ、同じタイミングで大琥の水弾が帳の顔と腕に打ち込まれる。


 それでも帳は倒れることなく、切れた口内の血を吐き出すのだ。


「だからって、死んだらそこで終わりだろ」


 帳を中心に風の渦が出来る。


 数日ぶりの彼の力はブランクを感じさせないほど苛烈で、強烈だ。


 大琥は自分に水を当てて空気の圧から抜け出し、素早く起き上がる。


 眼鏡に触れた少年は片腕に水を纏い、帳に向かって構えてみせた。


 帳は強い光を宿した目で、揺るぎない考えを口にする。


「他の道を探して、それで死んだらそれこそ無駄だ。俺は堅実にルールを守って生きてやるよ」


「この、ッ」


「おかしいのは、平和主義のお前らの頭だろ!!」


「理想を抱きもしないで、自分を正当化するんじゃない!!」


 大琥の腕に溜められた水弾が勢いよく帳に撃ち出される。それを帳は風の盾で受け、谷底を豪風が駆け抜けた。


 その風は跳んでいた光のバランスを崩し、氷雨に機会を与える。


 壁を蹴って光より上に飛び出した氷雨は、巨大過ぎる武器を振り被っていた。


「ッ、凩さん!」


 光は手首につけていたブレスレットをかざす。それは瞬く間に緑の鉱石が埋められた盾へ変化し、フットマンズ・アックスの直撃を受け止めた。


 上空から地面に叩き落とされる光。しかし、反発する彼にとって殴打はほぼ無意味だ。


 少年は地面に背中を打ち付け、衝撃を溜め、勢いよく弾かれる。彼の盾は剣へと変形した。


 その透き通るような刃と落下していた氷雨の刃が交差し、光は勢いよく腕を振り抜く。


 軽い氷雨は反発した光の威力に吹き飛ばされ、谷の壁へと激突した。


 肺いっぱいの空気を吐き出した少女は、崩れた石や鉱石を払いながら地面に足を着いている。


「凩さん」


 氷雨は涙を拭いながら、自分を呼んだ少年を見る。


 少女の表情に光は奥歯を噛み、剣をブレスレットへ戻した。氷雨は頬を痙攣させる。


 光は真っ直ぐと氷雨を見つめた。


「俺は君と戦いたいわけじゃない」


 敬語がいつの間にか消えていた光。


 氷雨はそのことを頭の片隅で理解しながら、今の状況で「戦いたいわけじゃない」と言う少年を笑うのだ。疲れきってしまったように。全てを諦めたような目で。


「ならば、どうするのですか」


「話をしましょう。俺達と凩さん達で」


 光は、タガトフルムで帳に拒まれた光景を思い出す。


 少女は涙跡がある顔を傾けた。どこかで聞いた言葉だと思いながら。


「それをして何になると言うのですか」


「両軍が生きていける道を探すんです」


 光は、輝きを失わない瞳で伝えている。それは麟之介と似ているようで、しかし違った意見だと氷雨は気づいていた。


 麟之介の話は、競走をボイコットしようというもの。


 光の話は、共に生きる道を探そうというもの。


 似て非なる両者の考えに氷雨は苦しくなり、力なく笑うのだ。


「……少なくとも、今の状況では無理ですね」


「凩さん……」


 氷雨は顔を上げる。光は悲痛の色に顔を染め、少女から視線を外しはしなかった。


「私達は悪を捕まえてきました」


 少女は武器を握り直す。


 光は目を丸くして、祭壇跡に倒れているバントと名工を振り返るのだ。


「奴隷を連れていた王。望まぬ愛で恐怖を与えた元戦士。異種を差別する職人。民すら道具扱いする女王……悪を捕まえさえすれば、悲しみが減ると思ったから……私達の苦しいが、少なくなると思ったからッ」


 氷雨は息を吸い、口を結んで光を見つめる。


 答えが分からなくなってしまった少女は、胸の内の棘を吐き出す為に叫ぶのだ。


「それすら正しくないならば、それも認められないならばッ、もう何も期待しない!! 私は私が、守りたいものを守るんだ!」


 少女は地面を蹴り、勢いよくフットマンズ・アックスを振り上げる。


 その俊敏な攻撃に光は反応出来ず、涙を浮かべた少女を見るのだ。


 氷雨は涙を零しながら、思いを力強く吐き出した。


「仲間と私の為ならばッ、私は貴方の、悪になるッ!!」


 その覚悟が、帳達に届く。


「光ッ!!」


 暁達が名を叫び、呼ばれた光は盾を確かに構えていた。


 その、瞬きの間に――


「もういいよ――凩」


 氷雨と光の間に現れた白い服を着た少年。


 金の髪を一つに結い、切れ長の瞳で少女を見下ろす彼。


 節のある手は、武器を握り締めた氷雨の手を優しく止める為に掴むのだ。


 氷雨の腕の勢いが止まる。


 光は目をこれでもかと開き、自分に背中を向けて立つ長身の少年を見上げていた。


「――とき、ぬま、さん……?」


 氷雨の震える声が、信じられないと言う思いを込めて零される。


 ルアス軍の少年――時沼ときぬま相良さがらは、壊れ物を扱うように氷雨の頬に手を添えた。


「……俺は、やっとお前を守れるかな」


 そう相良が言った瞬間、氷雨の視界がぶれて周囲の景色が変わる。


 周りにあるのは発光しているように輝く木々に、青々とした芝生。


 氷雨はそれに動揺し、りずはヤマアラシのような姿に戻っていた。


 りずの上には、液体と化したひぃと、砕け散ったらずが降ってくる。


 りずは針の一部をボウルのようにすることで二匹を受け止め、氷雨は唖然としてしまうのだ。


 先程の暗い谷底ではない景色。一瞬での移動。


 氷雨は理解が出来ないまま、震えていた指を握りこんた。


「時沼、さん……? これは……」


 確かめるように、氷雨は相良を呼ぶ。


 少年は短くなった少女の髪に指を差し込み、労わるように撫でるのだ。


「俺の体感系能力は転移なんだ。俺自身や俺が触っていたもの、そいつが所持するものは一緒に俺が行ったことある場所に移動出来る」


 氷雨は相良の言葉を脳内で反芻はんすうし、飲み込んでおく。


 再起不能に近い状態まで砕けてしまった少女の思考は、果てしなく散漫なのだ。


 相良はそれを感じて氷雨の涙の跡を拭っていた。


「……ここに凩を連れてきたのは……会わせたい人が、いたからなんだ」


 相良は体をずらし、その先に立っていた人影を氷雨は見る。


 黒く少し長めの髪と均衡の取れた顔立ち。背の高さは梵と同程度であり、まるで完成された人形のような青年は腕を組んでそこにいる。


 その両隣にいるのは、不純無き白色の狼に座っている女性と、心配そうな顔で氷雨を見ている少年――闇雲やみくも鳴介めいすけだ。


 氷雨と鳴介は初対面であり、共通の知り合いを持っているなど少女は気づかない。気づく理由がないからだ。


 女性は黒い前下がりの髪に黒縁の眼鏡をかけており、その口元は楽しそうに緩められている。


 彼女は隣に立つ美丈夫の腕を叩き、氷雨は驚愕の色で顔を歪め、目を見張っていた。


「……な、んで……貴方が……ここに…?」


 氷雨は震える声で問いかけ、青年は目を細める。


 彼の口は開くことなく、りずは痛がり、氷雨は手を握り締めていた。


「答えてよ……ッ!!」


 完成された美しさをもつ青年――こがらし時雨しぐれは、凩氷雨の実兄だ。


 同じ両親の元で育ち、梵と同い年の時雨は今は県外の大学にいる筈。


 その彼がピアスとチョーカーを身につけ、白を基調とした服を纏い、アルフヘイムで氷雨の前にいる。


 氷雨は唇を震わせて、麗しの兄を見つめるのだ。


 そんな視線を諸共せず、時雨は整いすぎた表情で妹を見下ろしている。


 氷雨の呼吸は乱れていき、少女は今にも潰れそうだ。


 相良は二人の様子を見ながら消え、時雨の横にいる女性は笑った。


「おいおい時雨さん。妹ちゃんの言葉を無視は酷いんじゃないかな?」


「お前は黙ってろ」


 茶化すような物言いに対し、時雨は鋭く言葉を返す。狼を連れた彼女は肩を竦めると「じゃ、お邪魔虫はたいさーん」と狼と鳴介と共に林の奥へと消えてしまった。


 時雨はその行動を見もせずに、氷雨に視線を送っている。


 少女の顔は青ざめており、後ろには相良が連れてきた祈と紫翠、梵、帳が現れていた。


 氷雨はそれすら気に出来ない。四人は少女がいることに安堵し、同時に、あまりにも美しい男に息を呑んだ。


 時雨は眉間に皺を寄せたまま息を吐き、氷雨に対して言っている。


 冷たく、何も期待しないと言わんばかりの声色で。


「話があったが、止めた。帰れ氷雨」


「ッなにそれ!」


 氷雨は歩きだそうとしたが、その足は覚束無おぼつかない。


 時雨はそんな妹を見ても顔色を変えず、帳は誰よりも早く氷雨の肩を支えた。


 氷雨は必死に足に力を入れ、崩れそうになるのを堪えている。


 時雨の目は細められ、彼の言葉には刺があった。


「今のお前に何を話しても意味ねぇだろ。自分で立てもしない弱虫は、そこら辺に隠れて震えてろ」


「ッ、兄さんに、何が分かるのさ!」


 氷雨は怒鳴り、時雨は聞かずにきびすを返す。


「行くぞ、時沼」


 呼ばれた相良は氷雨を一瞥し、少女の前で立ち止まった。


「……また話そう、凩」


 そう呟いた少年の声を聞き、氷雨はまた泣いてしまう。


 うつむいた少女から落ちる涙に相良は唇を固く結び、時雨の元へ続いた。


 氷雨は顔を上げる。


 そこには二人の姿も、狼も鳴介もおらず、氷雨はとうとう膝を地面に着いてしまった。


 帳は彼女と一緒に膝を着き、少女を見下ろす。


 大きくなってしまったりずの目からも涙が零れ、その顔の前にはルタが立っていた。


「痛ぇ……痛ぇよぉ……ルタぁ……」


「うん、うん、そうだな、痛いよなりず……ひぃも、らずも」


 ルタは頷き、傷ついた両翼でりずの頬を挟む。そうすればヤマアラシは声を上げて泣き、氷雨は帳の服の裾を握るのだ。


 帳は考える。痛々しいほど震える少女の手を見て。


 紫翠達も二人に近づいて膝を曲げる。


 帳は、氷雨の頭を自分の胸に埋めさせていた。


 その行動に氷雨は目を丸くし、祈や紫翠も固まってしまう。


 帳は氷雨の背中と後頭部に手を回し、少女の頭に頬を寄せた。


 氷雨の目から涙が止まらなくなってしまう。


 帳の背中にすがりついた氷雨は、唇を噛み締めて、苦しそうに泣いていた。


「ごめんなさい、弱くて、こんなに、脆くて、ッごめんなさい、ごめん、ごめんなさぃ……ッ」


「謝らなくていいよ……君は何も悪くないから」


 帳はしっかりと少女に声を届け、氷雨は只々涙を零す。


 祈は苦しげに顔を歪め、梵は紫翠と共に赤髪の少年の背を摩った。


 帳は目を伏せながら、少女の名前を呼んでいる。


「――氷雨ちゃんは、悪くない」


 名前を呼ぶという行為が氷雨の涙腺をより緩くし、少女の口から小さな嗚咽おえつが漏れてしまう。


 帳達には時雨達に関する質問が残っていたが、今はどうでもいいかと思っていた。


 帳の指に氷雨の黒髪がかれている。


 少年は静かに、無表情に、それでも優しく伝えていた。


「氷雨ちゃんの黒髪、好きなんだけどな……」


 氷雨の肩が揺れる。片手で背中を一定のリズムで叩く帳は、黒髪をもう片方の手に絡ませていた。


「また、伸ばそう」


 生きて、と帳は続けない。


 それはつまり、氷雨が「兄さん」と呼んだ彼を殺した未来を望んでしまうことから。


 信じて覚悟していた道が、見えなくなっていく。


 紫翠は梵に無気力に寄り添い、祈はりずの頭に額を寄せた。


 空の色が変わっていく。


 その日、彼らの祭壇は消失し、谷底には意識が戻らない生贄だけが残されたのだった。

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