第71話 変転
鋏の動く音がする。
夕焼けに染められる、鉱石で出来た部屋の中で。
「氷雨ちゃんのショートかぁ、いいねいいね! イメチェンってやつだ!!」
鋏を動かしてくれているのはアミーさん。
タガトフルムへ帰還する時間。黒い手に掴まれた時。
私はタガトフルムではなく、アミーさんの家に落とされたのだ。
整頓された部屋の中にシートを敷いて、椅子に座った私は髪を整えてもらう。アミーさんは鼻歌交じりに私の髪に触れて、手袋を取った手は男の人特有の節があるものだった。
その片手が鋏を持ち、もう片手は私の髪を
この家に飛ばされたことに驚いた私に「時間はかけないからさ」と、語尾に音符でもつきそうな声をくれたアミーさん。
鉱石の部屋はタガトフルムの雑誌やテレビでよく見るような小綺麗感が出ており、
私は箪笥の上に置かれた、兎と
「帳君も戻って来たし、良かったね!」
「……そうですね」
私は少しだけ目を伏せる。
私の質問によって――帳君はきっと、外に出したくないものの蓋を開けてしまった。心をそのまま言葉にしたような彼の声は、その一音一音が重たかった。
自分の考えと心が合致していない状態。それを私は知っている気がして、息苦しさに呼吸が危うくなる感覚を思い出した。
私は帳君ではない。それでも寄り添うことだけは出来る気がして、彼に伝えていたかった。
どうか生きていてと。どうか、死を選ばないでと。
私は貴方が死んでは嫌なのだと。
帳君は泣いていた。今までに無いほど彼の感情を見せてくれた。
それが、私は不謹慎ながらも嬉しかった。遠かった彼に近づけた気がしたから。
これは私の自己満足だ。
ガルムさんが現れた時、正直言えば不安だった。帳君は進んでくれないと思ったから。しかし予想は外れて、彼は立ち上がって共に外へ向かってくれた。
私の言葉で彼を救えた訳では無い。
ただ何かの後押しが出来たならば、万々歳。
肩にかけられていた布を下ろされ、アミーさんは「いいよ!」と教えてくれた。私は頷いて、アミーさんの指が音を立てる。
すると私の前に青い炎が出来て円を作り、その内側に鏡のように反射する素材が構築された。
そんな魔法にも驚かない私がいる。その成長は吉と出るのか凶と出るのかは、知らないままに。
私は鏡に映る自分を見て、手を襟足に持っていった。
短くなった黒髪。お母さんとお父さんは驚くかな、小野宮さんも湯水さんも。翠ちゃんは何も言わずに頭を撫でてくれたな。
もう一度鏡を見る。
そこにいる私はどこか違う人のようだ。
立ち上がって下を見ると、切られた黒髪の束がある。
私は自分の一部だったそれらから目を逸らし、アミーさんに向き直った。彼は布を畳み、合間にまた指を鳴らしている。
その合図と同時に足元が淡く光り、敷かれていた布から
布は一瞬で青い炎に包まれて、私の名残を消してしまう。
「心残りは消しちゃうのが一番! ショートヘアも可愛いよ、氷雨ちゃん」
「ぁ、ありがとうございます。髪も切っていただけて助かりました」
私の
アミーさんは鋏を宙に投げて、それは一瞬で消えてしまった。
アミーさんは手袋をつけながら、晴れ晴れとした声をくれた。
「いいのいいの! 片方だけ短いとタガトフルムで困っちゃうよね〜、あ、お母さんとかへの説明大丈夫?」
「はい、昨日は朝しか会ってないので、夕方ぐらいに切りに行ったことにしときます」
短くなった髪を両手で触る。
お母さんやお父さんとあまり会ってなくてよかった。大丈夫、嘘はつける。嫌いだけれども、嘘が得意になってしまったから。
「なら良かった!」
アミーさんは頭を撫でてくれる。
それが嬉しくて、私のささくれ立ちそうだった心を予防してくれた。目を細めていれば、ひぃちゃんは背中に、りず君とらず君は肩へと戻ってきてくれる。
「似合います、氷雨さん」
「いい感じだな、氷雨!」
「ありがとう」
ひぃちゃんとりず君が褒めてくれて、らず君は頬に擦り寄ってくれる。その厚意を受け取った私は確かに安堵するのだ。
憂うことなど何も無い。髪なんて勝手に伸びてくるんだから。
言い聞かせた私は、燃える山の麓を思い出した。
「で、氷雨ちゃん」
アミーさんの高い声がする。その高さの中には真剣みが混ざっていたから、私は取り零しはしなかった。
私はアミーさんを見て、記憶の業火と血には蓋をする。アルフヘイムの夕日が、アミーさんの兎の陰影を濃くしていた。
「生贄は見つけたかな?」
確認された私は少しだけ黙り――口角を上げておいた。
それだけで彼は分かってくれたようだ。
私の体が屋根を突き抜けてきた黒い手に捕まえられる。
大丈夫、さぁ進め。まずは検定、その後は――悪を目指して。
私は黒い手によって空へ吸い込まれ、自室のベッドに放り出された。
* * *
――氷雨ちゃんの髪がぁッ、可愛いことに!!
検定は高校の情報教室で行われた。そこに入った瞬間、先に来ていた小野宮さんには叫ばれ、湯水さんには心配された。
慌てた二人に「どんな心境の変化!?」と聞かれはしたが、これは不可抗力でございますとも言えず「もうすぐ梅雨で、蒸し暑くなるので」と答えておいた。
翠ちゃんには「似合うわね」とお世辞にも褒めていただけて嬉しかったです。
他クラスとは時間がズレていた為、私が帰る時に入れ替わりでやって来た雲居君にも絶叫された。
――か、髪!?
――気分で、ちょっと
視線を集めてしまうので叫ばないでいただきたかったが、言えはしなかった。
ショートは初めてなのだが特に変だとは言われなかったし、良いだろう。いや、面と向かって「それは変」なんて言わないか。
思いながら午後には帰宅した。
今日は朝食準備に間に合わなかったと言う事実。悔しさを飲み込んだ私が一階に向かえば、朝一番にお母さんは食器を落とし、お父さんは珈琲で
珍しく二人とも休みの今日、帰ったら今度は褒められるし。
――ショートヘアも可愛いね、氷雨
お母さんは褒めてくれて、お父さんには頭を撫でられた。その珍しい仕草にはにかんでしまい、私はお礼を伝えたのだ。
深夜零時、暗い穴に落下しながら一日を思い出す。
私は頭からアルフヘイムへと吐き出され、ガルムの洞窟付近に飛び出した翠ちゃん、細流さん、帳君を見つけておく。
近づく事に息は苦しくなり、冷や汗は流れ、内臓が震える感覚に
あぁ、気持ち悪い。それでも昨日よりは楽だ。理由は謎だけれども、楽ならもう何でもいいか。
いや、気持ち悪いことに変わりはない。きっとこの居心地の悪さにも私は慣れてしまったんだな。
一人結論を出して、私は帳君達から山の麓へと視線をずらす。
そこにあるのはオヴィンニクさん達の亡骸や、燃えて灰となった木々。どす黒い赤は灰に染められた地面に散らばっており、ひぃちゃんは何も言わずに羽ばたいてくれた。
皆さんの元に祈君と一緒に着地する。祈君は既に顔色が悪く、翠ちゃんと細流さんもうっすらと冷や汗を流していた。
帳君は涼し気な顔で洞窟を見つめており、どこまでも静かなその目に不安を抱く。
――俺はここから離れる気が起きない
昨日の言葉が反響して、胃が痛くなる。
また彼が洞窟に行きたがっていたら。鉱石に呼ばれていたら。死にたくなって、しまっていたら。ガルムさんの背に乗れたのは一瞬の迷いのせいだったら。
嫌な予感と言う波は、流れ出すと止まらないものだ。だから私は反射的に帳君の袖を掴んでしまう。
自信が無くて、不安過ぎて、弱く弱く指先で引いてしまう。
帳君は私に視線を向けてくれた。
「まだ……」
呟いて、その先が喉から出てこない。
口を何度か開閉させて
「洞窟には、入りたいと思うよ」
体の内側から冷えて、瞬間熱が上がる。
彼がまだ洞窟に入りたいと思うと言うことはつまり、まだ彼が死にたいと思っていると言うこと。その事実を私は聞いたのだ。
死にたいという気持ちを無くすのには時間がかかる。それは、私のようなちっぽけな人間では到底成し得ることが出来ない偉業で、帳君と私の関係は余りにも他人過ぎる。
指先が一瞬震えて「そうですか……」と零してしまう。私はここに居たくないと思うのに、彼はこの先に進みたいと思えるだなんて。なんてチグハグなんだ。
「でも、昨日ほどではないよ」
不意に言葉が付け足され、私は顔を上げる。
帳君は無表情で、その目に揺らぎは見られなかった。
「だからそんな顔しないで」
両頬を柔く
離された頬を両手で挟み、息をつく。帳君は自分の両手を見てから下山を始めてしまった。相変わらず自由な人だな。
思いながら私も歩こうとして、しかし体は後ろに引かれた。
驚いて振り返ると、祈君が私の腕を掴んでいると言う光景。
「氷雨さん」
ルタさんが呼んでくれて、だから私は自然と笑うのだ。
「はい、ルタさん、祈君」
祈君の手に微かに力が入る。赤と黒の髪を持つ彼に視線を向けて、私は首を傾けてしまった。
「……悪を、捕まえに行く?」
聞かれて、私は彼を見つめる。
視線を足元に向けている祈君は不思議な雰囲気だ。
自信が無さそうと言う訳では無い。しかし迷いも隠しきれてはいない。
そして、今本当に質問しようとしたことは別にあるような気にもさせられる。だが賢い彼が考えて黙った言葉ならば、それを
私は頷いて、微笑み続けていた。
「行きましょう。昨日祈君達が導いてくれた方は、私も悪だと思うから」
「裏付けに行きましょうか」
翠ちゃんの声がして、今日も背筋が伸びている彼女を私は見る。翠ちゃんと目が合えば私は自然と頷けるのだ。
山の裾に広がるのは私が見ないふりをした惨劇の結果。
死体は光りの粒となり、最も近い洞窟へ風に乗りながら入っていく。
その光景は幻想的であると同時に、私に恐怖を与えていた。
私はいつか、今と同じ光景を――似通った光景を見た筈だ。
――風の中に金の光りの粒が混じり、それが洞窟へと入っていく様を視界に入れた。
初めてここに近づいた時を思い出す。
命の鉱石。
そう、ずっとあの歪な宝石には、光りの粒が吸い込まれていたではないか。昨日私は、帳君の向こうにそれを見ていたではないか。
あれはガルムさん達が守り続けている鉱石。山の麓の死体の中にガルムさんの姿はない。
山を見れば洞窟から出てきているガルムさん達がいて、彼らは私達の方を見つめていた。
その赤く光る四つの瞳は拒絶を許さない強さを宿している。
私は思って、翠ちゃんは腕を叩いてくれた。
「あれは放っておくわよ。今見るべきは別にある」
その言葉に私は頷き、祈君はゆっくり手を離してくれる。
もう一度見た少年は帽子のつばを下げて、私は何も言葉を見つけることが出来なかった。
それから私達は地面を蹴って空へと上がる。
ルタさんと同化した祈君は翠ちゃんを連れ、細流さんは恐ろしい速度で地面を走行。私は帳君に追いついて手を繋ぎ、彼と共に空にいた。
「凩ちゃん、昨日の雛鳥達の考察、どう思う?」
オヴィンニクさんのシュスに向かう途中で帳君に確認され、私は口を閉じて思考した。
奪うことを至福とするオヴィンニクさん。彼らは仲間をガルムさん達に贄にされ、それを奪われたのだと言う主張をしていた。
奪う自分達から奪うなど許せない。傷つけられたプライドを癒す為、ガルムさん達に報復しようとして敗北した。
だが、本当に贄を呼んでいたのは命の鉱石本体で、それをオヴィンニクさんは「ガルムさん達が呼んでいる」「そう言う術なのだと」言っていた。
そこで、私の中に不一致が生まれる。
ラドラさんは、本当に知らなかったのだろうか。勘違いをしていただけなのだろうか。
あの荒廃したシュスと相反するように、丁寧に整えられた応接室。
ラドラさんは女王である筈なのに、私達に対して
私は、祈君がストラスさんに確認してくれた情報を思い出す。
――オヴィンニクは、ガルムの感情を元に作られた六番目の種族なんだ
少し黙った私は、まとめた自分の考えを帳君に伝えておいた。彼は「ふーん」とだけ相槌を打ち、その先は何も言わない。
私も聞くことはせず、無事にオヴィンニク・シュス・ドライの入口へと降り立ち、皆さんと顔を見合わせていた。
ここまで離れれば息苦しさはない。深く深く呼吸した私は帳君と手を離した。
「行く、か」
細流さんが声をかけてくれて、私は頷く。
悪を求め、その確証を得る為に。
思って足を踏み出したのに。
瞬間、私の腹部に黒い物が回り――足が前へ進むことは無かった。
体が後ろに強く引かれる。
体の至る所が一気に冷えて、私の口からは反射的な呻きが漏れてしまった。
「ぅぁッ」
「氷雨!!」
皆さんが急いで振り向いている姿が見える。それが一気に遠くなって、私と翠ちゃん達の間に炎の壁が出来ていた。
あぁ、炎は嫌いだ。
思った私は、ナイフとなったりず君を握っていた。
「共に来て頂きますわよ! 戦士のお方!!」
私を霧のような尻尾で捕まえ、地面を力強く蹴っているオヴィンニクさん――ラドラさんは微かに振り向き、
私は、構えたりず君を下ろしておく。
そちらがその気なら、私にも考えはあるさ。
そこで今を心配をしていない自分に気づき、私は
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