第57話 要望

 

 目の前に広がるのは真っ白な綿畑。まるで雲の上にいるような錯覚を与えるそこに降り立った時、私の背中を冷や汗が伝った。


 このハベトロットの綿畑には三つのシュスがある筈だ。


 畑から綿を摘み取り糸にするハベトロット・シュス・アインス。


 出来た糸を染色するハベトロット・シュス・ツヴァイ。


 染まった糸を使って洋服を作り、他の住人さんのシュスへ譲渡するハベトロット・シュス・ドライ。


 三角形の頂点の位置にシュスは作られ、綺麗な流れを形成している。


 しかし何故だろう。


 今の私には二つのシュスしか確認出来ない。


 いや、正確に言えばシュスだったのだろうと判断出来るものは三つある。


 ただその内の一つをシュスと言っていいのかが分からないだけで。


 ――ハベトロット・シュス・ツヴァイ


 象牙ぞうげ色の鉱石で作られた他二つのシュスとは違い、その一つだけが墨色に変色している。


 シュスだけではなくその周りの綿畑も炭化たんかしており、灰が宙を舞った。


 空から見た時も異様を感じたその場所は、近づけばより一層歪な空気を放っている。


 焼けて溶けた鉱石の建物に、家だったであろう場所に溜まっている炭の山。微かに残った色からそれは染められた糸の山だと分かり、私は生唾を飲み込んだ。


「何……これ」


 闇雲君は焦げたシュスに足を着く。「うわ、」と驚いた彼は裸足の裏を急いで見て、すすがついてしまった様子が確認出来た。


 私も自分の足を片方上げて、着いた足跡に目を細める。


「……何があったんだ?」


 りず君が周囲を見渡して、らず君は私の頬に擦り寄ってくる。震える二人を撫でて落ち着かせていれば、ひぃちゃんが尾で地面を撫でていた。


「火の形跡がありますね」


「雷が落ちたんだと思います」


 少し上からルタさんの声がして、私は闇雲君の方を見る。


 空を旋回しながら戻って来たルタさんが闇雲君の頭に留まり、黒いふくろうさんは私の方に顔を向けてくれた。


「雷ですか」


「はい。雷、と言っていいのかは判断しかねますが、恐らくそれに似た威力ある何かが染物に使う水を瞬間的に沸騰させ、爆発を起こしたんだと」


 ルタさんはそう言うと、シュスの中央のお城を見上げていた。


 螺旋状の模様が見えるお城はいくつものテラスがあったようで、梟さんはそこを翼で指し示してくれる。


「あのお城が一番大きな発火点です。視れば、あそこの融解が最も激しかったので」


「そこは染色場の中心だったんだってさー」


 結目さんの声が真上から聞こえて、私は驚いてしまう。


 見上げれば浮遊する結目さんがおられて、彼は茶色いローブの住人さんを捕まえていた。


 私の口は声を発せないまま開閉して、りず君が肩で「アイツ……」と呟いているのが聞こえる。


 結目さんはお婆さんに見える住人さんを私の前に下ろした。全く感情が乗っていない言葉を吐きながら。


「ツヴァイに住んでたハベトロットだってさ」


「ぁ……は、はじめまして、凩氷雨と申します」


 住人さんに対して反射的に頭を下げてしまう。


 ハベトロットさんは分厚い唇と豆のある手を持った、老女のような方だ。大きな鉤鼻かぎばなが独特で、皺に埋もれたような目は私を見上げている。


 彼女はこちらに両手を伸ばして、私は咄嗟とっさに左手を出した。


 握手だろうか。それとも生贄にしないでくれと言う懇願だろうか。


 分からないまま出した手を握り締められた時、相手の震えに気づいてしまった。


「話は聞いたよ……悪人を、連れて行ってくれるんだってねぇ……」


 か弱くしわがれた声に問われて、私は首を縦に振って見せる。


 ハベトロットさんは口を一度結ぶと、頭を深く下げてきた。


「どうか、どうかシュリーカーを連れて行っておくれ……お願いだよ」


 切に願う声。


 私は目を見開いて、ハベトロットさんは膝から崩れ落ちてしまった。それでも手を握られる力は強くなっていく。だから私は一緒に膝を曲げるのだ。


 ハベトロットさんは片手を離すと私の服の裾を引いてきた。その手は振り解くことなど到底不可能な力を持っている。


 私は地面に膝をつき、すが懇望こんぼうするハベトロットさんの背中に右手を添えた。


 震える背中を撫で摩りハベトロットさんの声を聞く。


 憎いと言う感情を乗せ、その感情を必死に押さえつけようとした声を。


「あれは悪魔だ……私達の前に突然現れ、わめき散らし、地を揺らすほど足踏みをして……何の言葉も通じやしない。厄災をどうか呼ばないでくれと、願い伝えたと言うのに……ッ」


 ハベトロットさんの手に力が入る。悔しさを必死に押さえ込もうとするその姿は、あまりにもか弱かった。


 私は視線を上げて結目さんを見る。周囲を観察し終わったであろう翠ちゃんと細流さん、闇雲君も近づいて来てくれた。


 灰の地面に円形のシミが出来る。それはハベトロットさんの目から零れた水滴によるもので、私は目を伏せるのだ。


 彼女の手が痛い程に私の手と服を握り締める。


 私は痛む手を気にすることなく、ハベトロットさんの背中を撫で続けた。


「……何があったんだよ」


 りず君が肩口で聞いてくれる。らず君はハベトロットさんの肩に飛び移って淡く光り、住人さんの呼吸が柔らかくなった。


 彼女は顔を上げると、静かな口調で教えてくれる。


「雷を呼んだんだよ、シュリーカーが……何十年と生きてきて、あんな黒雲は始めてだった。見たことも無いほど分厚く、どこからともなく空を隠したそれから――雷の雨が降ったんだ」


 雷の雨という表現。


 私は周囲に一瞬だけ視線を走らせて、その比喩が誇張こちょうされたものではないと理解する。


 本当に降ったのだ。雷の雨が、ここに。


 ハベトロットさんは言ってくれた。


 雷に打たれて家が砕け、染色用に準備していた水を爆発させたと。


 それが火種となってシュス中が燃えたのだと。


 幸いにも、シュリーカーさんが現れたと分かった瞬間に大多数の人は避難を始めていた為、死者は出なかったそうだが。


 それでも許せることではないとハベトロットさんは続けている。


「家を壊し、大切な糸を燃やしたアイツらが私達は許せない。なんでここだったんだい。なんで私達のシュスだったんだいッ、私達はただ、糸を紡いでいただけなのに……」


 ハベトロットさんの今にも爆発してしまいそうな怒りが見える。


 それを彼女は必死に閉じ込めて、押さえつけて、私達戦士に願っていた。


 悪を連れて行ってくれと。


 ここを壊した奴を殺してくれと。


 私に彼女の痛みは分からない。どれだけその感情をぶつけられても私は彼女ではないから。完璧に理解するなんてことは不可能だ。


 それでも、言葉を受け止めることは出来る。


 感情を受信することは出来る。


 シュスの外側に他のハベトロットさん達も集まり始め、彼女達は口々に言った。


 シュリーカーを捕まえてくれと。


 全ての人が言っている。


 悪を連れて行く私達に、巨悪を捕まえてくれと。


 彼らに生きる価値はないと。


 その威圧は呼吸を苦しくして、らず君が私の肩に戻ってきてくれた。


 私は一度深く息を吸い、ハベトロットさんに伝えておく。


「……シュリーカーさんを捕まえるとしても、連れて行くのは一人までです」


「あぁ、いいさ、それでいい。それで、いいんだよ……」


 ハベトロットさんの声が上擦って、泣き叫ぶ一歩手前のような空気が溢れてくる。私の手は一定の早さで彼女の背を撫でて、風に乗って灰が舞うのを視界に入れた。


 結目さんは口角を上げてそこにいる。


 彼はハベトロットさんを見下ろして、平坦な声で聞くのだ。いつもと変わらぬチグハグ性を持って。


「シュリーカーが現れたのは今日のこと?」


「あぁ、夜明け前に現れたんだよ。何処からとも無く、突然と」


 そう答えたのを最後に、ハベトロットさんは何も喋らなくなってしまう。近づいた他のハベトロットさんに肩を抱かれて去る姿は、余りにも弱々しい。


 私は立ち上がって、膝についていた灰を気にすることなく翠ちゃんを見た。


 彼女は腕を組み、悪態をつくような口調を零している。


「アルフヘイムの夜明け前に現れた、ね……ヴァラクの奴、何が最後の厄災は一週間前よ」


「兵士の方々でも、シュリーカーについて把握するのは難易度が高いと言うことですね」


 ルタさんは首を傾げ、翠ちゃんは息をつく。


 彼女の態度から察するに、ヴァラクさんを責めているわけではなさそうだ。兵士さんでも最新の動向を探ることが難しいシュリーカーさんを危惧しているのだろう。


 目が合った翠ちゃんの瞳に怒りや焦りはない。静かな水面のように落ち着いているその目は、やっぱりどうして強いのだ。


「シュリーカーを探しましょうか。今日ここに居たってことは、まだそう遠くまでは移動出来てないと思うのだけど」


「そう、だな」


 翠ちゃんの提案に頷く細流さん。私も彼女の意見に異論はない。首を縦に振ると、結目さんが笑っていた。


「五人揃って同じ方向に探しに行くのは、馬鹿の極みだよね?」


「そうでしょうね」


「お、そう、なの、か」


 細流さんがのんびりと首を傾げて、私達は一様に彼を見てしまう。


 顔は自然と苦笑いしてしまい、結目さんは笑顔でため息をついていた。


 恐らく結目さんは手分けして探そうと言いたかったのだろうが、その出鼻を細流さんがくじくと言うね。


 結目さんは、半ば細流さんを無視するように続けた。


「それぞれ別方向に行って探そうよ。見つけたら兵士使って教え合うってことで」


「そんなことが出来んのか?」


 りず君が聞いてくれて、私は自分の鍵を服の上から撫でてみる。結目さんは微笑み、首を傾げながらオリアスさんを呼んだ。


「オリアス、兵士同士で会話くらい出来るよね? 出来ないなんて言わせないけど」


「あぁ、可能だよ」


 オリアスさんは微笑み、結目さんは「あっそ」と満足そうに頷く。そのまま通信を切ろうとした彼を、オリアスさんは呼び止めていた。


「しかしね、俺達から戦士と通信を始めることは出来ない決まりになっているんだ。だから定期的に、君達の方から俺達を呼び出すようにしてくれるかな」


「何それ、めんど」


「すまないね」


 オリアスさんは微笑み、静かな声で続けた。


「破ることは、出来ないのさ」


 結目さんは少し黙ってから軽く手を振り、オリアスさんとの通信を切らないでいる。オリアスさんも映像を切ることはなく、結目さんは一瞬だけ無表情になっていた。


 私の中に疑問が湧く。


 ――兵士さんの方から通信を始めることは出来ない。


 考える前に結目さんが会話を再開させたので、私は思考を元に戻すのだけれども。


 チグハグさんは微笑みながら提案した。


「じゃあ全員、兵士と通信しながら探そうか。見つけたら教えてね。それまで合流は無しにしよう」


「え、合流、無し?」


 闇雲君が心配そうに言葉を繰り返し、結目さんは呆れた口調で笑った。


「その方が良くない? 何も手掛かり掴んでないのに合流とか時間の無駄じゃん」


 結目さんの言葉に闇雲君は言いよどむ。


 フードを引く彼は酷く自信がなさそうで、私は結目さんと闇雲君を交互に見てしまった。


 結目さんの提案は、正しい。


 四人目の悪を捕まえたい私達は負ければ死んでしまうのだ。生贄を全員救われ、祭壇を全て壊されてしまったその日には。


 だから優先するのは何よりも生贄であるべきだ。


 その生贄に条件をつけている私達は、他の人達よりも生贄を捕まえるペースは遅いかもしれない。


 先程だって結目さんはハベトロットさんを捕まえていたのだから、彼女を生贄にすれば私達の目標人数は後二人になっていた筈。


 しかしそれを変えることはせず、何度も自分に言い聞かせる。


 生きることは前提条件なのだ。


 それよりも先、生き残った後の人生を後悔していたくない。


 だから私達は手を繋いで一緒に歩くのではなく、お互いに有益であることがきっと正しい。


 優しさだけでは何も生まれない。そこに出来るのは抜け出せなくなる怠惰だけだ。


 頭の中にグローツラングさんとカーバンクルさんが浮かんで消える。


 彼らのようには決してなりたくないと思う自分がいると気づいている。


 それでも、闇雲君の不安は最もだ。


 もし一人でいる時に敵わない住人さんに出会ってしまったら。知らない所で五人の中の誰かが傷ついてしまっていたら。


 自分達の生贄が解放されていたら。祭壇が壊されていたら。


 シュリーカーさんが見つからなかったら。ルアス軍の方に遭遇したら。邪魔をされたら。何か命の危機におちいってしまったら。


 色々な不安は尽きてくれない。


 私の中にも不安は生まれてきた。けれどもそれには蓋をした。


 解決出来ない不安を抱えて飛ぶのはとても重たいと知っていて、それは見ないふりをするしか出来ないと学んできたから。


 ぐちゃぐちゃ考えて悩んでいるのは時間が惜しい。その時間があるなら進むべき。


 けれども正しさだけが全てではない。


 そこまで一人考えて、私は内心で嘲笑ちょうしょうした。


 ――戦士らしくなったもんだ


 そんな自分の成長を喜ぶべきなのか、どうなのか。


「……分かってる」


 闇雲君は顔を下に向けた。


 彼が心配であることは私の中で変わらない。


 一人で一つの祭壇を守り続ける忍耐力がある闇雲君だが、彼に一人で飛ぶ決断が出来たのか、私はまだ分かっていないから。


 再び闇雲君と結目さんを交互に見てしまい、それでも私の口は何も言えなかった。何か打開策がある訳でもなく、どうしたいのかも分かっていないせいだ。


 すると、翠ちゃんが言ってくれた。


「氷雨、不安定と一緒に今まで厄災が起こったシュスに行って、シュリーカーの情報を集めてくれない? シュリーカーを探すのはこっち三人でするわ」


 彼女の茶色い目と視線を合わせる。


 翠ちゃんはきちんと考え、闇雲君と私を一緒に行動をさせようとしている。


 私は考えて微笑み、頷くのだ。


「はい。闇雲君、ご一緒しても良いですか?」


 フードの奥の目を探す。


 その目は何か考えて、口は空気を求めるように開閉していた。


 そのまま彼は口を真一文字に結び、ルタさんが代わりに返事をくれた。


「是非お願いします、凩さん。祈は一人では何も出来ない奴なので」


「ルタ!」


「いや、そんなことないと思いますので……」


 目の前で口論を始めてしまうルタさんと闇雲君。仲良しだと思いながら微笑んでいると、風に髪を引かれて振り向いた。


 見れば結目さんが、とても良い笑顔でおられるのですよね。冷や汗出るがな。


「凩ちゃんはその雛鳥と行動する訳だ」


「……多分、そうした方が良いのかなって」


 髪が強く引かれて頭皮が痛む。


 どうしたのですか結目さん。確かに私は貴方に使われる奴であると思うのですが、今回は別行動の方が良いと貴方自身が提案してくれたのではないですか。


 一人で行動した方が良いとも言ってくれたけれど、それにはやはり心配が付き纏う。


「ふーん」


 何ですかその生返事。とても不安。


 分からないまま離された髪を一瞥いちべつする。


 結目さんは何も言わずに笑い続け、彼の足が地面から浮いた。


「ちゃんと報告はしてね」


「はい」


 言い残して、結目さんは飛び立ってしまう。


 私はその背中を見送って、翠ちゃんと細流さんを見た。


 細流さんは翠ちゃんの肩に触れて倍増化の力を使っている。


 それが早々に終わったと思ったら、二人はヴァラクさんとエリゴスさんを呼んで片手を挙げていた。


「それじゃ、シュリーカーを見つけられたら会いましょ」


「何か、あったら、連絡を、して、くれ」


 端的に言い残し、結目さんとは別方向へ走り出した翠ちゃんと細流さん。


 結目さんは私から向かって右側、翠ちゃんは左側、細流さんは真正面に直進してしまい、残された私達の前には灰煙はいけむりが舞っていた。


 翠ちゃん達に手を振って、最後は煙を払い除けておく。


 りず君が少しだけ咳き込んで、らず君はくしゃみをしてしまっていた。


 らず君の頭を撫でて闇雲君を見る。彼はフードの端を引いて下を向いていた。


「……闇雲君」


 肩を揺らした闇雲君が顔を上げてくれる。


 私は微笑んで、首を微かに傾けた。


「もう少しだけ、ハベトロットさん達に話を聞きに行きませんか?」


 問えば、彼は固まってから首を縦に振ってくれる。だから私は頷いて歩き出すのだ。


 服越しに、首から下げた鍵を微かに撫でて。


 オリアスさんの言葉を頭の中で反芻はんすうしながら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る