第54話 熱望
ゴールデンウィークが明けた五月上旬。紫翠は自分をベッドに下ろした黒い手を視線で追い、息をついていた。
波紋を床に広げて黒い手と穴は消え失せる。部屋には時計の秒針の音だけが響き、紫翠は少し早くなった夜明けを感じた。
今日のアルフヘイムでの行動は、エミュの湖からイッペラポスの林に移動することで終了した。
行き先を決めることに時間がかかった為、目的地に着く前に時間がきたのだ。
紫翠は眠気による頭痛に目を
枕元にあったそれはランプが点滅し、メッセージが来ていると知らせている。目を開けた紫翠は理解して、頭痛が原因ではない息を吐いてしまった。
一度目を固く閉じてから瞼を開ける。携帯の画面も同時に開き、メッセージの差出人を見た。
〈
紫翠の気が重くなる。
彼女は一度ベッドに
眠気を孕んだ目は電子文字を読み、手は髪をかき上げている。
「……やり直したい」
紫翠の口から言葉が零れ、彼女は携帯を放り出した。
「……誰がやり直すもんですか」
悪態を含んだ声は布団に吸い込まれ、彼女は足をばたつかせた。「あー」と意味無き声を発した紫翠は、気を取り直してベッドを下りる。
熱いシャワーを頭から被った紫翠。
彼女は数日ぶりに制服を着込むと、シリアルに牛乳をかけてテレビをつけた。
一週間の天気に事故のニュース、芸能人の結婚、浮気、スポーツ界の記録更新に、今日の星座占い。
蠍座の紫翠は一位のようだが、占いを信じない彼女にとってはどうでもいいことだ。
寝不足の胃にシリアルを詰め込んだ紫翠は身支度を整え、再び携帯を見た。増えているメッセージには悪寒と嫌悪を募らせてしまう。
――堅雪忍は、紫翠の中学時代の先輩だ。
一つ上の学年だった彼を紫翠は知らなかったが、忍の方は知っていた。
学校一美人で成績も優秀だった紫翠は高嶺の花と謳われ、目立ったことをしなくても見つけてしまう存在だったから。
紫翠にとってはどうでもいいことだったが。
体操服や教科書を隠されることは多々あったが、全て無視して過ごした中学時代。
三年生になった紫翠は、高校の制服姿を元顧問に見せに来ていた忍と会った。
彼女の方は高校生がいるという程度の認識だったが、忍にとっては違った。
高嶺の花が目の前にいて自分と目が合っている。そのチャンスを取り逃がすほど彼は馬鹿ではなかった。
それから忍は頻繁に中学前で紫翠を待つようになり、連絡先を交換し、最終的には付き合うという形に収まった。
紫翠の中に恋愛感情は無かったが、自分に笑い、自分の話を聞いて、自分を甘えさせてくれる忍を嫌だとは思わなかった。
学校や家よりも彼の隣が心地いいと感じてしまったのだ。
紫翠は一つ下の妹が嫌いで、自分より妹を気に掛ける両親も嫌いだった。
紫翠が成績優秀で問題も起こさない優等生であったが為に、両親は彼女に手をかけなくなったのだ。
――流石、紫翠
その一言で終わらせ、自分を褒めもしなければ叱りもしない両親。だから紫翠は二人を困らせてみたかった。
それは、自分を見て欲しいと言う欲の裏返しだったのだと気づきもしないで。
紫翠は忍に
彼が呼び出せば夜中だろうと彼の元に行ったし、連絡は最優先した。
彼の好む服を着て、彼の好きな髪型をして、彼の愛を示す行為も全て受け入れた。
忍以外を優先しようとすれば殴られたが、それすらも紫翠は普通だと思って享受した。
気づかないうちに忍に依存していた紫翠は、彼の一番でありたかった。誰かの特別でありたかった。
しかしそれは間違いだった。
紫翠は自分で気づき、自分で依存を抜け出した。
顔以外の部分に出来た痣が異常を示しており、背中や腰に付けられていた小さな円形の火傷痕は彼女の消えない罰になった。
――忍は紫翠が好きだった。中学の頃に一目惚れして、それ以来ずっと彼女に好意を寄せていた。
それでも話しかける機会がなく、勇気もなく、小さなきっかけを必死に
彼女が自分以外と話すことも優先することも許せなくなった忍は、彼女を繋ぎ止める方法を飴と鞭にしてしまった。
それを愛だと勘違いしていた紫翠は、目が覚めた時に自分の愚かさを恥じたのだ。
高校生になって朝帰りをしようと、両親は言葉を選ぶばかりで二の足を踏んだ。心配していると空気で伝えるのに、年齢的なことを考えて揺れたのだ。娘の傷を気づかせてもらえないまま。
だから紫翠は、二人がどうでもよくなった。
生徒間に流れる噂も、それを聞いて職員室に呼び出す教師もどうでもよかった。
紫翠は決めていた。忍に別れを告げ、連絡を取らなくなった時から。
一人で立って一人で進み、誰にも流されず、踏み込ませない自分を作ることを。
元来真面目で負けず嫌いな性格の紫翠にとってそれは簡単な事のように思えた。
思ったことを言葉にして、黒を灰色と濁すことはせず、自分のことだけを考え、
しかし、
誰もが彼女の言葉を鋭いと言い、彼女が完璧であるかのように言葉を流していった。
それで良かった。友達も何も、紫翠はいらないと思ったから。
一人で進む自分に憧れてくれていたのが、唯一自主的に認識していた凩氷雨だとも思わずに。
後ろの席になった小さな少女は、いつも笑顔の模範生。
頼まれ事は断らず、優しい笑顔でそこにいる。言葉は丁寧で物腰は柔らかく、先の先まで心配してしまう心配性。
しかし、樹海にいた時の氷雨にその影は無かった。
口が悪く笑顔でもなく、力強く打ち付けられた額は紫翠に大きな衝撃を与えた。
今思えば、あのような氷雨を見たのは初めてだった。
そして紫翠は、同級生について何も知らないと気づくのだ。
――紫翠は現代文の教科書を見つめ、進む時計の針を無視している。
教師の言葉は子守唄のように彼女の瞼を重くするが、それでも紫翠が眠ることはない。
眠れば一瞬で夜が来てしまうから。それを紫翠は恐れている。
そんな彼女を置いて長針は回り続ける。空の色が変わっていく。
やって来るのは無慈悲な夜だ。
紫翠はそれを受け入れて、ため息を堪えていた。
検定補習の席は変わることなく氷雨の隣である。チームメイトは隣のクラスの
人がいい彼女のことだ。色々なことを心配しながら問題を解いて教えているのだろうと紫翠は察し、要を横目に確認した。
要は紫翠と一年の頃に同じクラスであった。名字が「く」である為に席が近く、休み時間にはよく彼とその友人の会話を彼女は耳にした。
要が入学式の時に見た女子生徒を気にかけていること。クラスが違う為話せないのだということ。
氷雨は真剣にパソコンを見て要に解説をしている。それを教えられている本人が真剣に聞いているかは怪しいが。
紫翠は一生懸命過ぎる氷雨に呆れそうになり、自分のパソコンを見直した。
「――だと思うんですけど、大丈夫ですか? 雲居君」
「うん、大丈夫だよ、ありがと」
その返事に氷雨は安心して微笑み、要も笑い返す。
一般的な高校生活をしていれば、氷雨の中で要は少し印象が強い相手になっていただろう。
しかし現在の氷雨の中で大部分を占めているのは、アルフヘイムと家族のことだけだ。残念ながら要が入り込む余地はない。
紫翠は要を哀れに思いつつ、解き終わった練習問題を保存した。
その時、紫翠のポケットで携帯が振動する。
彼女は嫌な予感を抱きつつ携帯を取り出すと、朝も見た名前がそこにはあった。
紫翠は机に携帯を伏せて置き、肘をついた両手で顔を覆う。
氷雨はそんな紫翠を見て首を傾げていた。
見られていることに気づいていない本人は画面を開き、目を丸くしてしまう。
〈話がしたい。校門前で待ってる〉
嫌な汗が紫翠の頬を伝い、指が微かに震える。
思い出すのは別れを切り出した時に殴られた痛みと、日常的に与えられていた愛情の閉塞感だ。
紫翠は両手で携帯を握り締める。
ゴールデンウィークに図書館で会った時もそうだった。
突然〈家に行く〉と連絡が来て、慌てて家を飛び出した時の焦り。
何も考えずにバスに乗って図書館に向かい、本棚の影に隠れて何時間も過ごす覚悟をした緊張感。
見つけられた時、紫翠は自分の馬鹿さ加減を
自分を見つけた時の忍の嬉しそうな顔に悪意は無く、今でも紫翠を好きなのだと安易に伝えて。
――嬉しいな。昔もこの図書館で勉強したよね
そう言われて初めて、紫翠は気がついた。
その図書館が紫翠の受験勉強の時によく訪れていた場所だったと。
無意識に逃げ込んだ先が、二人の思い出がある場所だったと。
その刷り込みが恐ろしく、言われるまで気づかなかった自分に紫翠は絶望した。
まだ彼女の中で忍が消えていない証拠。彼の元から本当の意味では離れられていないと言う事実。
紫翠は何も成長していない自分に気がついた。
そこに忍は入り込もうとする。「また一緒になろう」「もう二度と束縛なんてしない」と優しく囁く彼が紫翠は嫌いで、その言葉に溺れていた頃の自分を思い出した。
――好きだよ、紫翠
――止めて、聞きたくないッ
逃げようとした腕を掴まれた恐怖。
もう逃がさないと言う忍の瞳。
紫翠の奥歯が震えて鳴った時、声がしたのだ。
――ぁの、
自信の無さそうな声が。
自分と忍の間に入った手は震えて、それでも強く、紫翠は羨ましくて仕方が無かった。
――呼吸を整えた紫翠は帰り支度をする。
成績が良く、検定に自信がある者は途中退出可の補講だ。紫翠は鞄を肩にかけて椅子を仕舞い、パソコンがシャットダウンされるのを確認した。
彼女はそのまま教室を出る。校門には会いたくない相手がいると知っていて。
逃げてはいけない。逃げても何も変わらない。
紫翠は校門に向かい、そこには近くの工業高校の制服を着た忍がいた。
黒い髪に着崩された制服。携帯を触っていた彼は紫翠に気がつくと、優しく笑いながら塀から離れた。
「紫翠」
穏やかな声がする。橙色の空は二人の影を長く伸ばす。
紫翠は鞄の紐を握り締めた。
「場所変えようか、近くに公園あるからさ」
そう言って歩き出した忍。紫翠は学校前ということを確認して、渋々彼の後に続いた。
見下ろした足は重たげて、彼女は公園のベンチに座った忍の前に立つ。
「座りなよ」
「……結構よ、何の用かだけ言って」
紫翠は震えそうな声を悟られないよう努めた。正面から忍を見つめて。
忍は自分の隣を叩く手を止めて、困ったように笑っている。
「メール、見てくれてるよね」
「……えぇ」
「どうして返事、くれないの?」
紫翠の肩が震える。
忍は優しく口角を上げているのに、目だけが笑っていない。
紫翠の腕に錯覚の痛みが走る。
忍から逃げられない自分を見る。
広げられた彼の腕に入るしかなかった自分が許せない。
けれども過去は変えられない。
しかし、今と未来は変えられる。
紫翠は震える手を握り締めて忍を見つめた。
「返したくないの。貴方ともう、関わりたくないから」
「何でさ。俺はこんなに紫翠が好きなのに」
「私は、貴方が好きじゃないのよ」
忍の眉間に皺が寄る。
紫翠はうるさく鳴る心臓を無視し、言葉を声にしようと努力した。
彼の言葉に甘える自分は捨てた。
今は、彼女自身の言葉を吐けるから。
「あの頃のことは謝るわ。私は貴方の好意に甘えるだけで、貴方を好きではなかった。惰性と依存で貴方を利用したの……本当に、ごめんなさい」
「それでもいいよ。俺は紫翠が好きで、けど好きになってもらう努力をしなかった。俺の方が悪かったんだよ。ごめんね紫翠、痛かったよね」
優しい声がする。
紫翠はその声を聞く度に許しそうになる。
彼が自分に振るった拳の痛みを。傷つけた後、必ず自分を抱き締めて謝る彼のことを。
紫翠は、伸びた忍の手から距離をとった。
「謝られても、優しくされても、私は貴方の元には戻らない。だからもう諦めて。私は何をされても貴方を好きにはなれないし、お互い一緒に居ても傷つけ合うだけよ……忍」
紫翠は忍の目を見る。
暴力を振るう彼に甘えた自分を無かったことにすることはせず。彼にだけ
「――嫌だ」
その声が、忍には届かない。
彼は紫翠の手首を掴むと歩き出し、少女の足は
「離してッ」
「これ以上俺を怒らせるなよ、紫翠」
振り向きざまに紫翠を見下ろす忍の目は、酷く冷たい色を孕んでいる。
紫翠は一瞬抵抗を止めかけたが、それでは変われないと奥歯を噛んだ。
彼の手を振りほどいて少女は距離をとる。
忍は目を丸くし、次の瞬間には怒りを瞳に浮かべた。
「俺から離れるなんて、許さねぇよ」
「嫌よ、私はもう戻りたくないの。傷つきたくないし、傷つけたくもないッ、お願い忍」
「紫翠」
低い声が紫翠の体を硬直させる。
彼女は上を向き、冷たい表情をした忍に震えた。
(震えては駄目、逃げては駄目、恐れては駄目)
紫翠は唇を噛んで睨み返す。忍の眉間にはより深く皺が寄り、彼の手が紫翠に伸びた。
「――好きだよ」
忍は言う。
紫翠はそれを拒絶したくて、反射的に目を固く閉じた。
その時、地面を蹴る音がする。
「――好きなら、傷つけないで」
震える手が間に入る。
紫翠は目を見開き、自分と忍の間にいる小柄な少女を見た。
――凩氷雨は、肩で呼吸をしながらそこに立つ。
「……君、図書館にもいたよね」
忍は氷雨に目を細める。
「どうでもいいや、退いて」
氷雨は首を横に振り、紫翠の腕を掴んで下がらせた。
「楠さん、私はここにいて良いですか。今、何か間違えてますか」
自信が無さそうな声がする。
紫翠は自分だけでいいと言いかけて、口を
細い同級生の肩を掴んだ紫翠は、確かに安堵を覚えているのだから。
「間違えてない――ありがとう、ごめんなさい」
「良かった」
安心するように氷雨が笑う。紫翠は震えていた自分の手を
苛立った忍の声がする。
「退けよ」
「彼女を傷つけないって、約束してくれるなら」
氷雨は揺るぎなく言い返し、忍は舌打ちする。
そこで返事を貰えなかったことで、氷雨はここに自分がいることに少なからず自信を持った。
鞄の中ではりず達が息を潜めて少女達の無事を願っている。
忍は今にも怒鳴りそうな声を氷雨に刺した。
「お前に関係ないだろ!」
「ッ、確かに関係ないかもしれないけど……怖がってる友達を、見過ごせるわけないじゃないですか!」
氷雨は後ろに紫翠を押す。
「紫翠を返せ!」
「ッ、私は貴方の物じゃないッ」
訴えた紫翠は、拳を振り上げた忍と氷雨の間に体を入れた。
少女達は揃って目を閉じる。
二人は来るであろう痛みを覚悟した。
「止めろよ、情けねぇ」
けれど痛みが訪れることは無い。
氷雨はその声を聞いて、自分を抱き締めている紫翠の腕の中から声の主を見た。
夕焼けを反射する金髪と吊り気味の目。
赤いTシャツを学生服の下に着た彼の手は忍の拳を掴み、もう片方の手には紙パックのジュースが二つ持たれていた。
「時沼……さん」
「凩、怪我ねぇな?」
「ぇ、ぁ、はい」
紫翠は、目の前の見知らぬ男子高校生と氷雨の間にある関係を察する。
反射的に庇っていた氷雨を紫翠が離すと、忍も腕を後ろに引いて顔を青くした。
「お前……二年の時沼か」
「そうだけど。そう言うあんたは三年の先輩か、どーも」
「ッ、退けよ、後から後から関係ねぇ奴が、俺と紫翠の間に入ろうとすんな!」
「いや、関係無くはない」
相良は無表情に答え、強い目をしている少女二人を確認した。
彼の目が氷雨を見る。それから伏せられ、忍へと視線を向けた。
「先輩、こっちの黒髪の子、俺の友達なんすよ」
「は? だから何だよ」
「いや、だからさ」
忍は顔を歪めて、相良はため息をついた。
相良の大きな拳は握り締められる。
彼の足は前に踏み出し、忍との距離を一気に詰めた。
忍の目が丸くなる。
「友達、殴られかけたお返しっす」
相良の拳が忍の鳩尾に炸裂し、殴られた方は
紫翠と氷雨は肩を引き
忍は膝をついて腹部を押さえ、相良は軽く言っている。
「殴られるの痛いっすよね。だから、誰かを殴ろうとするのは止めた方がいいですよ。良いことないんで」
「ッ、うるせぇな!」
忍が立ち上がって殴り返そうとするが、それを相良は簡単に避けてしまう。
金髪の少年は呆れたような目で忍を見下ろし、再び拳を握った。
「止めてッ」
紫翠はそう言って忍を庇う。
相良は殴りかけていた手を止めて、自分の鞄を引く手に気がついた。
振り向くと、氷雨が首を横に振っている。
相良はその顔を見て直ぐに拳を解いた。
「……紫翠」
忍が紫翠を呼ぶ。
紫翠は振り返り少年を見つめた。
彼女はゆっくり首を横に振る。
少年は奥歯を強く噛み、好きで止まない彼女に手を伸ばしかけた。それに手を添えた紫翠は静かに腕を下ろさせる。
抵抗はない。
忍は肩を震わせると、鞄を掴んで走り去ってしまった。
紫翠はその背中を見送り、ゆっくりと目を伏せる。
氷雨と相良は顔を見合わせて、紫翠に声をかけるかどうか右往左往していた。
背後で静かに慌てる二人を察した紫翠は、鞄を肩に掛け直して二人に向き直った。
慌ただしく両手をさ迷わせていた氷雨と相良が固まる。
氷雨は自信がなさそうに口角を緩め、首を少しだけ傾けた。
「……大丈夫、ですか?」
紫翠はその声を聞いて肩から力を抜くのだ。
「大丈夫よ」
もう忍から連絡は来ないと、紫翠はどこかで察している。
紫翠を振り返ることなく走り去った彼は、自分の手を下ろされた時に分かったのだと思ったから。
泣きそうだった彼の顔を、紫翠は一生忘れないだろう。
(いっそが私アルフヘイムで死んで、彼の記憶からも消えてしまえば……)
そんな考えが紫翠に浮かんだが、目の前の氷雨を見て直ぐに無くなった。
生きるとチームメイトに宣言したのは紫翠だ。勝つと伝えたのも紫翠だ。
彼女はやはり強くなりきれていなかった自分を見つめ直して、氷雨に言った。
「また助けられたわ……ごめんなさい」
氷雨はその言葉を聞いて目を丸くする。それから制服の袖を握り締め、手を離し、困ったように笑うのだ。
「誰かを助けるのに、理由なんていりませんよ」
それは、紫翠の言葉。
氷雨を救った大事な言葉。
紫翠は目を瞬かせると、肩を
「そうね」
緊張が抜けた声。氷雨はそれに安堵して、相良は二人を見比べた。
「ぁ、その、時沼さん、ありがとうございました」
「いや、間に合って良かった」
目元を和らげた相良はオレンジジュースを氷雨に渡す。
手に置かれたそれを見た氷雨は、可笑しそうに微笑んだ。
「学校近くのコンビニにあったんだ、果肉入りだってよ」
「ありがとうございます。これ飲んでみたかったんです」
相良は氷雨の言葉に安心する。それからもう一つのジュースを見て紫翠に渡した。
渡された彼女は一度瞬きをして「いいの?」と確認する。
「あぁ、やるよ」
「そう……ありがとう、さっきも助かったわ」
「気にすんな、通りかかっただけだし」
「凩さんに用があったんでしょ?」
紫翠は氷雨を一瞥し、相良は視線を明後日の方へ向ける。
「また今度でいい」
相良は呟くと、氷雨の横を通って公園を後にしてしまうのだ。
「またな、凩」
「はい、また。次はジュース、私が買いますね。時沼さん」
相良は一瞬振り返り、微かに口角を上げて行ってしまった。
氷雨と紫翠は彼を見送り何の気なしにベンチに並んで座る。パックにストローを挿した二人は同時に飲み始めて、夕焼けを見つめていた。
「……聞きたい? アイツとの話」
紫翠はストローから口を離す。
氷雨は喉を動かしてジュースを飲み込むと、少し黙って苦笑するのだ。
「いいえ」
紫翠はそれを聞いて、安心する。
「聞こうが聞かまいが……楠さんが楠さんであることに、変わりはないと思うので」
氷雨は指先で紙パックの側面を撫でて笑っていた。
「もし聞いて欲しいと思って、その相手が私でも良かったら……是非、その時に」
紫翠は目を伏せてベンチに背中を預ける。それから勢いよくジュースを飲み切って、笑ってしまった。
「ありがとう、氷雨」
氷雨は目を丸くする。
黒髪の少女は口を開閉させると、考えに考え抜いたと言わんばかりの、真剣な表情で言っていた。
「どう致しまして……紫翠、ちゃん」
紫翠と氷雨の視線が交わる。
それから二人は肩を竦めると、小さな声を出してお互いを笑ってしまった。
紫翠の中で忍が消えた訳ではない。それでも万が一また彼から連絡が来た時、紫翠はもう震えも嫌悪もしないのだ。
簡単に強くはなれない。強さを身に纏うには、彼女はまだ未熟である。
それでも、だからと言って強くなれない訳ではない。変われない訳ではない。
夕暮れの公園にて。戦士の肩書きを持つ少女達は、近くなったお互いの距離を「友人」だと言っていいのだと感じていた。
「紫翠って言いづらいでしょ、適当に呼んでいいわ」
そう言った紫翠に、困ったように笑って腕を組んでしまった氷雨。
暫し考えた小柄な少女は、思いついたと言わんばかりに目を輝かせ、けれどもその奥に不安の火を残して言った。
「では――
その提案を受けた紫翠は吹き出して笑い、顔を赤くした氷雨に承諾の返事をするのだった。
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