第53話 回復

 

 一番大きなグローツラングさんから奪った特性の宝石。楠さんはそれを自分に埋め込むと、宝石となった目で私達を映してくれた。


 その目は何処までも透き通る美しさを持っていて、りず君とひぃちゃんが肩で揺れるのが分かる。


 美し過ぎるものは時に恐怖を与えるのだと、アルフヘイムに来て一番に学んだことだった。


 楠さんの目が微かに光る。


 瞬間。


 ひぃちゃんの翼やりず君の半身にあった宝石が輝き――砕けていく。高い音を響かせて割れたその下には、二人の体が元通りの姿で存在していた。


 茶色い針鼠君に、緋色のドラゴンさん。


 二人は目を丸くして歓喜の叫びが溢れ出た。


「うおおおお戻ったあぁ!!」


「飛べます!! 私の……ッ翼だ!!」


 りず君は様々な変形を繰り返して喜びを示し、ひぃちゃんは肩から飛び立ち旋回する。


 私の刃と翼が戻ってくれた。


 二人の顔に笑みが戻った。


 目の前の光景が嬉しくて、私の口角は自然と緩んでしまう。


 そうしていれば突然、目の宝石が砕けて視界が開けるという驚きに襲われた。


「わぁッ!!」


 感嘆の声が漏れてしまい、腕や足、額の宝石も砕けて私の体が戻っていく。


 両足で跳ねることが出来るし、ハルバードになってくれたりず君を両手で回すことだって簡単だ。


 元に戻った。


 その事実が私の心を踊らせて、ひぃちゃんが私の背中を掴んで持ち上げてくれた。


 風が頬を撫でる。緋色の翼が私に自由を与えてくれる。


 私は奥歯を噛み締めて、宝石の目を持つ仲間の前に降り立った。


「楠さん!」


「凩さん、りず、ひぃ」


 喜びに駆け出しそうな足を否めて頭を下げる。「ありがとうございます!!」はうるさい位大きな声で出て、楠さんは肩をすくめていた。


「別に」


 素っ気ない返事は彼女らしいと言えば彼女らしい。


 笑ってしまった私は、この喜びを表す言葉を探していた。


 それを遮る声がする。怒りと驚きに染められた、大地を揺るがす雄叫びだ。


「何をしたんだぁ!!」


 背中に鳥肌が立ち、私は瞬時に振り返る。見上げた先には涙を零して暴れるグローツラングがいて、私はりず君を構えるのだ。


 持ち手を握り締めて刃を立てる。


 力を奪われたグローツラングさんは泣き叫び、体の動きが安定しない。


 私は自分の体勢を整えると同時に、グローツラングさんの頭上を見た。


 揺れる茶髪と大量のピアス。


 上がった口角は不穏な空気を纏っていて、腕に抱かれたカーバンクルさんは震えている。


 浮遊する結目さんは笑顔を貼り付け、空いた片手を振り下ろした。


 その動作と連動するようにグローツラングさん達の頭が凹み、顎から地面に叩きつけられる。


 乱反射した光りの弾丸は私の太腿やりず君の刃を宝石に変えてしまったが、今はもう恐ろしさはない。


 グローツラングさん達はうめいており、地面に足を着いた結目さんはカーバンクルさんを捨てるように離していた。


「あぁ……あ、あぁ!! ディア、ダース、ダドン!!」


「そんな、そんな、先に死んじゃ嫌だぁ」


「嫌だよぉ」


 闇雲君の腕からもカーバンクルさんが飛び降りた。兎のような住人さんはグローツラングさん達に近づいて泣き始める。


 動けるカーバンクルさん達は背中のシュスから飛び出して、グローツラングさん達の顔に鼻を寄せた。


「殺してねぇよ、伸びてるだけ」


 笑う結目さんが呆れたような声で教えている。


 カーバンクルさん達の耳が真上に立つと、彼らはグローツラングさん達の呼吸を確認して「本当だぁ!!」と泣いて喜んでいた。


「ダドン、大丈夫?」


「ディア、早く起きて」


「ダース、ね、ね、私達自由になったんだよ!」


 甲高いカーバンクルさん達の声に、グローツラングさん達は弱くも首を縦に動かしている。


 一番大きな体の方がディアさん。二番目がダドンさん。一番小柄な方がダースさんだと今になって知りました。


 楠さんが特性の宝石を取ったのはディアさんだ。彼の宝石の目は幸せそうで、力が奪われたという事すら今はどうでも良さそうだ。


「――死ぬなよ」


 結目さんが笑顔で吐き捨てる。


 ダースさんは億劫そうに首をもたげて、カーバンクルさん達はその首の陰に隠れていた。


 結目さんの顔が、まるでスイッチでも切り替えたように真顔になる。


 その声には――確かな怒気が乗っていた。


「自分で死を選ぶような真似は二度とすんな。死んだ先で一緒になれるなんてのは都合のいい幻想だ。死んだ先には何も無い。残るものだって何も無い」


 よどみなく言い切った結目さんから、宝石の部分が消えていく。


 私の足やりず君も元に戻り、闇雲君と細流さんは完全に元の姿に戻れていた。


 私は楠さんを探し、地面の宝石に自分を映す彼女を見つけた。


 毛先や頬の宝石が砕けて楠さんは背筋を伸ばす。それから自分の鳩尾に手を当てて、花の形をした宝石を取り出していた。


 振り返った彼女の目はもう宝石ではなくなった。綺麗な茶色い瞳がそこにはあって、彼女はディアさんの首後ろから花の宝石を埋め込んでいく。


 その様子を見たカーバンクルさん達は、怯えながらも聞いていた。


「な、何したの!」


「戻しただけよ。これで彼はまた能力を使えるわ」


 顔を見合わせるカーバンクルさん達。ディアさんは近くの地面を宝石に変えて、その目からは涙の宝石が零れていた。


「あぁ、良かった……これでまた守れるぞ」


「守るとか、殺そうとしてた癖によく言うよ。頭ん中ぶっ壊れてんだろ」


 結目さんの絶対零度と例えても過言ではない声が響く。


 それに臆さずディアさんは答えていた。何も間違っていないという態度で。自分が正しいと主張する空気をもって。


「殺す? いいや、俺達は共にあろうとしただけだ」


 鳥肌が立つ。


 透き通る宝石の目は濁っておらず、ただただ純粋な気持ちをほのめかしたから。


 結目さんは黙ると、何も言わずに目を細めていた。


「勝手にやってな」


 その目はさげすむ色をして、投げた言葉はグローツラングさん達に届かない。


 ダースさん達は結目さんの言葉を聞いて顔を上げると、全身が宝石になってしまっているカーバンクルさん達を元に戻し始めていた。


 甲高い声が増えていく。歓喜する空気に包まれる。


 けれどもそれは確実に、グローツラングさんとカーバンクルさんだけのものだ。


 私には到底理解できないいびつさがそこにある。


「ね、ここ……早く離れませんか?」


 私の服の裾を引く闇雲君。


 私は頷き、誰も欠けなかったことに喜ぶグローツラングさんとカーバンクルさんから目を逸らした。


 フードから覗く闇雲君の頬は色が悪く、ここに居たくないと微かに震える手が主張する。


 私は彼の手を握って、その震えが止まることを望んでしまった。闇雲君は私の手を握り返してくれて、もし弟がいたらこんな感じだろうかと錯覚する。


 フードの奥の目と視線が合ったから微笑むと、彼はフードの裾を引いていた。


 笑わない方が良かったのだろうか。いや、まず手を握るのは嫌だったか。


 離そうかと手を緩めてみたが、闇雲君が離してくれる気配がなかったので握り直しておいた。


 その時肩に重さが増える。見ると、疲れ切っているらず君が帰ってきてくれた。


「おかえり、らず君」


「お疲れ様」


「頑張ったな~」


 私の顔が破顔して、りず君とひぃちゃんも笑っている。嬉しそうならず君は何度も頷いて頬にすり寄ってくれた。可愛い。


「行きましょうか」


「あぁ」


「手握ってたら雛鳥飛べないでしょ」


「あ、ごめんなさい闇雲君」


「ぃ、いやッ……大丈夫です」


 楠さんが私の二の腕を引いて目配せをしてくれる。私は笑いながら頷き、結目さんの指摘には冷や汗が出た。


 闇雲君は両腕を翼に出来る同化能力があるのに、私と手を握っていたら時間の無駄で邪魔だった。


 急いで手を離して謝ったが闇雲君は気にしていないように見える。それでも内心では困らせていたかもしれない。ごめんなさい、手を離さないでいてくれたのも気を利かせてだったのかな。


 私は肩を若干落とし、ひぃちゃんに翼を広げてもらう。楠さんを横抱きにすれば左手首に痛みが走ったが無視をした。


 捻挫ねんざかな。大丈夫。


 闇雲君はルタさんと同化して、細流さんが鳥の足に捕まっている。


 結目さんは一足先に浮いて振り向くことはしなかった。


 グローツラングさん達を確認する。彼らはカーバンクルさん達だけを見て、既に私達は眼中に無いご様子だ。


 私の足が宙に浮く。お姉さんは私を運んで樹海の上へと出してくれた。


 下を見ても、グローツラングさんもカーバンクルさんも見えはしない。


 薄暗い森の奥で、彼らは大切な友達と一緒にいるのだろう。この先ずっと。いつまでも。


 相手がすることに間違いなど無いと信じて。相手に嫌われることを最も苦痛だとして。望めば死さえ受け入れる心を持って。


「狂ってる」


 結目さんの呟きが聞こえる。


 見れば、森を見下ろすチグハグさんがいた。


 彼は手を強く握り締めて私の髪が不規則に揺れる。


 私達は樹海を離れ、エミュの湖へと戻って行った。


「無事戻って良かったねー」


 間延びした声の結目さんはもう怒っていないようだ。私達も彼の後に続いて地に降り「そうですね」と微笑んでしまう。


 私は楠さんを下ろして頭を下げた。


「楠さん、本当にありがとうございました」


「ありがとなー紫翠」


「ありがとうございます、紫翠さん」


 りず君とひぃちゃん、らず君も揃って頭を下げてくれて、一緒に顔を上げる。


 そこでは無表情の楠さんが息を吐いていた。


 え、あ、お礼は嫌いでしたか。何かしゃくに触ってしまいましたか。


 努めて笑っていると、楠さんは目を伏せながら言ってくれた。


「お礼を言われることは何もしてないわ。私が特性の宝石を取れたのは細流のお陰なわけだし。私一人では、頭に血が上って何も出来なかったから」


 楠さんは呟くと、真っすぐ私を見てくれた。


「ありがとう」


 目を丸くしてしまう。


 まさかお礼を言ってもらえるだなんて思っていなかったから。


 お礼を言うのはこちらの筈なのに。目の前の彼女は、優しく微笑んでくれるから。


 その表情に何も言えなくて、私はまた頭を下げた。楠さんが口を開きかけた姿が見えたが追求は出来ない。


 今回の騒動、最初の原因は私なのだ。


 私が早く気づかなくて、身をていしてしまったせいで宝石にされてしまった。私が庇わなくても楠さんは避けれていたかもしれないのに、避けられないかもしれないと言う「もしも」を私は恐れてしまった。


 楠さんが同じチームにいたから。私の為に力を使ってくれると決めてくれたから。だから私も、ひぃちゃんもりず君も無事なわけだ。


 彼女がいなければ、彼女の力が無ければ、彼女の決断が無ければ、私は今ごろ五体満足にここに立てていない。


 そう思うのに、助けてくれた彼女がお礼を言ってくれるから。


 今までよりも距離が近くなった気がして、迷いながらも口にした「友達」という単語は間違ったものではなかったと思わせてくれる。


「細流もありがとう」


「こちら、こそ、ありがとう。役に、立てたなら、良かった」


 楠さんの頭を無表情のまま撫でる細流さん。


 楠さんは彼を「脳筋」と呼ばなくて、細流さんの雰囲気はいつも以上に穏やかなものに思えた。


「僕達にお礼はないのですか、楠さん」


「はいはい、ルタと不安定、ついでにエゴもありがとね」


「……ぃや、俺は」


「お礼とか鳥肌モノだから止めてよ」


「言った損ね、間違いだったわ」


 額を押さえながら楠さんはため息をつく。結目さんは「やだやだ」と言い、闇雲君はルタさんを抱き締めて下を向いていた。


 何処どこと無く元気がない闇雲君が心配になってしまう。


 しかし私が声をかける前に、結目さんが彼の頭を叩いてしまっていた。あぁ……。


「いってぇな!!」


「ウジウジすんなよ雛鳥君。全員体が戻って一件落着。はいこの案件終了ー、グローツラングもカーバンクルも生贄には出来ないし」


「アイツら、絶対誰も悪だなんて言わねぇもんな」


 りず君がため息をつき、闇雲君は言葉を濁していた。ルタさんが闇雲君の腕を優しくつつき、パートナーである少年はふくろうさんを抱き締める力を強めている。


 ――私達にとって戦士を食べてしまうグローツラングさんは脅威ある悪ではある。しかし彼らは自分達の中の誰かを悪だとは言わないだろう。あの態度を見ていたら分かる。


 あれは踏み入ってはいけない場所だった。何も知らない第三者が口を出していい関係ではなかった。


 彼らはきっともう、戻れない。


 一瞬目を伏せて、直ぐに瞼を上げる。


 結目さんの声がした。


「あ、ねぇねぇ雛鳥君。その面白い頭なんなの? 俺よく見れてなかったから見せてー」


「はぁ!? ふざけんなヤンキー!! お前タガトフルムで俺と会ってんだから知ってただろ!!」


「えー忘れたー」


「は、な、せッおい!!」


「ぁの、結目さん……」


 闇雲君のフードを思いっきり引っ張って笑う結目さん。


 赤と黒の髪を見たいのだろうが、本人が嫌がっていることなのでそっとしておいてあげませんか。喧嘩になってしまいますから。


 いやでもこれは友好を築く手段になるかもしれないし、男の子のじゃれ合い的なものかもしれないし、いやでも闇雲君は完全に嫌がってて……。


 私は手をさ迷わせてしまい、楠さんに「ほっときなさい」と言われた。


「大丈夫ですかね?」


「大丈夫でしょ」


「大丈夫、だろう」


 細流さんに頭を撫でられて肩を脱力させてしまう。頬は恥ずかしさから緩んでしまい、色の変わり始めた空を視界に入れた。


「映画」


 楠さんの声がする。


 私は彼女を見て、湖を見つめる楠さんは無表情だった。


「行けるわね」


 小野宮さんと湯水さんを思い出す。


 アルフヘイムに戻れば映画の約束をした日。


 彼女はきっと、学校でその話を耳にしていたんだと分かったから。


 私は笑って、首を傾けてしまうのだ。


「楠さんのお陰です」


 楠さんもお誘いしたくなる。けれども小野宮さんにも湯水さんにも相談してなくて、楠さんも映画は興味ないかもしれなくて。


 私は誘うことを諦めて、楠さんに別のことを尋ねてしまうのだ。


「大丈夫、ですか?」


 色々な意味を込めて。


 図書館にいた男の人。泣きそうになって、潰れかけていた楠さん。


 楠さんは私を見ると、優しく目を細めてくれた。


「大丈夫よ」


 あぁ、その言葉を信じよう。


 私は笑って頷いた。


「あぁ! 帽子忘れた!!」


「買い直せよ」


 ……闇雲君の帽子、樹海の中だなぁ。


 私は苦笑してしまい、頭を抱える闇雲君の背中を撫でていた。


 * * *


「……おぉ、」


 ゴールデンウィーク最終日。アルフヘイムから無事に強制送還された私は、映画館があるショッピングモールにやって来た。モールは多くのお客さんでごった返しており、踏み入った瞬間帰りたくなる。


 それではいけないと集合場所である映画館前に向かうと、まだ小野宮さん達の姿は見えなかった。


 集合時間二十分前はやっぱり早かったのだろう。遅れてはいけないと言う強迫観念に背中を押されて準備したらこのザマだ。


 私は小さな肩掛け鞄の紐を両手で握り、映画館前で人波を見つめる。


 腕を組んで笑い合う恐らくカップル。子どもと手を繋いで話している恐らく家族。


 誰かを探しているのか、携帯片手に顔を右へ左へ動かす女の人。待ち合わせに遅れそうなのか、腕時計を見てから小走りになった男の人。


 私はテーピングをした左手首を握り、平和な光景に奥歯を噛んだ。


 誰も彼もが命あることを疑わない。生きることが当たり前であると思っているこの空気。


 あぁ、なんで私は楽しめないのだろう。


 ここに立って、私は友達だと思っている子達を待つ時間。


 それを楽しめない自分が怖くて嫌になる。


 一瞬一瞬の間でアルフヘイムのことを思い出してしまって、心がささくれ立ってしまう。


 どうして私は選ばれた。


 ――理由なんてないよ? 中立者のアイツがこっちを覗いてる時、面白そうだって思う子を選んだから


 アミーさんの声がよみがえり、私は目を固く閉じる。


 タガトフルムでアルフヘイムのことを思い出すな。


 苦しくなるから。嫌になるから。


 私は目を開けて、静かに息を吐いていた。


「凩さん」


 反射的に顔を上げる。


 見上げた先には雲居君がいて、彼は笑いながら手を振ってくれた。


 私も笑い返して手を揺らす。雲居君は「早いね」と言いながら私の隣に並び、その行動には首を傾げてしまうのだ。


 早いね、とは……どういうことだ。


「……雲居君も映画ですか?」


「え?」


「ん?」


 目を瞬かせる雲居君。彼は視線を泳がせて背中を少し丸めると、「あー」と手の甲を口元に当てていた。


 どうしたのでしょう。同じ日に映画を見るなんて奇遇ですね、で終わる筈の会話なのに。


「……聞いてない?」


「……何をでしょう」


 雲居君が恥ずかしそうに苦笑するから、私も苦笑してしまう。


 私は何を聞きそびれたのか。寝不足の頭では思い出せないな。


 小野宮さんと湯水さん、それぞれとのメールのやり取りを見返すが分からない。


 首を傾げ続けていると、雲居君は笑いながら教えてくれた。


「今日、俺と舟見と蔦岡も一緒に映画見ようって、小野宮と湯水からは許可もらってたんだけど……」


 え、人増えてたのか。


 私は驚いて、早口に謝罪してしまう。


「ぇ、ぁ、そうだったんですね、ごめんなさい」


「いやいや、連絡してなかったこっちが悪いよ。ごめんね」


「ぃや、そんなことは……」


 駄目だこれは、謝り合戦になる。


 察した私は口を閉じて、微笑むことにした。そうすれば雲居君も笑ってくれて会話が無くなる。


 謝りの攻防が始まらなかったことに安心して、私はまた人波を見つめることにした。雲居君は携帯を見ているから会話は考えなくても大丈夫だろう。


 視線の先で、灰色の上着が目に付いた。


 視線を動かしたがそれは錯覚だったのか、直ぐに見えなくなってしまったけれど。


 一抹いちまつの不安を覚えながら腕時計を見る。集合時間五分前。湯水さんや小野宮さんの姿はまだ見えない。


「ぁー、凩さん……私服、いいね」


「え、あ、そうでしょうか」


 不意に雲居君が声をかけてくれて微笑んでしまう。自分の服装を見返すが、黒い長袖ブラウスにスキニージーンズ、白いロングカーディガンにパンプスと、変にならないように気を使った結果がこれだ。


 黒を基調にしてしまうのは無意識だった為、急いでカーディガン羽織ったっけ。お世辞でも褒められたのは嬉しいな。


「ありがとうございます」


 会釈すれば雲居君は笑ってくれる。


 小野宮さん達が来たのは、集合時間から丁度十分が過ぎた時でした。


「遅れた! そして連絡してなくてごめん氷雨ちゃん!」


「いえいえ。こんにちは小野宮さん、湯水さん」


「こんにちは氷雨ちゃん、遅れてごめんね」


「大丈夫ですよ」


 小野宮さんと湯水さんが申し訳なさそうにしてくれる向こうで、舟見君と蔦岡君が雲居君に殴られていた。元気だ。


 平和な世界は私の感覚を鈍くする。顔はずっと笑って、ホラー映画を怖くないと思い始めた自分の神経が心配になった。


 暗い映画館の中の各所から悲鳴が聞こえたが、私は無言で二時間過ごしてしまった。楽しかったです。最近のCGって素敵だ。


「凩さん、怖くなかった?」


 映画が終わって雲居君に確認されたので、笑顔で「はい」と返事をしておいた。


 あれより怖いものに出会ったことがありますので。


 私は一瞬だけ右手が宝石になっているような幻覚に襲われて、その恐ろしさを振り払っておいた。


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