その九 ぶらり旅:拳闘場にて、マヤ、腕を治療する
タクシー、自転車、その他を乗り継ぎながらジャン達が、百三十キロ先の海辺の町、カブールに到着したのは、襲撃から約七時間後。日付は変わり、五月十二日の午前二時半になっていた。
波の音を聞きながら、路地裏に入ると、マヤがううっと呻いて目を覚ました。
「……着いた?」
「ああ」
ジャンはマヤを降ろすと、壁にもたれさせた。路地裏独特の臭気に交じって、黴の匂いがマヤの鼻に届いた。
「……ジャンさんって、なんか黴臭いなあ……」
「体中に黴――いや正確に言えば違う生き物なんだが、粘菌がしこんであるんだよ。列車の糸もそうだ。火をつけたのもそうだぞ。魔力をベースにすると、粘菌の黴臭さが強くなっちまうんだな」
「黴が……火をつけるの?」
「だから、粘菌――まあ、いいか。魔術で、火薬を基礎に育てたやつだからな。動き回る導火線さ」
「息が生臭いのは……」
「そっちは生まれつきさ。まあ、普段は大変素晴らしい香水をつけているんだが、仕事中は――」
「へえ……なんてやつ?」
「『パリの美男子』だ。『一吹きで淑女の心を陥落』って謳い文句だ」
マヤが口の端を上げ、それから小さく悲鳴を上げた。ジャンはまたハンカチを出すと、マヤの汗をそっと拭った。
「痛むか? さあ、どうすればいい? 何か……儀式が必要か?」
「儀式? ああ、魔術ってやつじゃないんじゃないかな? これを外して――」
マヤは大丈夫な方の手で眼鏡を外した。暗がりでうっすらと赤く目が輝いていた。
「ほう。気のせいじゃなかったか。その目は?」
「……とにかく、みんなが盛り上がってる所に連れてってくれ」
ジャンは応急処置を施したマヤの腕を取った。当て木と包帯の隙間から青黒く変色した皮膚がのぞいていた。
「重症だ。治らなかったら、お前を病院に連れて行き、腕を切断するぞ」
「ひっどいなあ……。
でも、多分、大丈夫。あたしが死なない限り、傷は治るはずだから。切れちゃったら、どうなるかは、わからないけどさ……」
マヤは呻くと、またも気絶した。襟からするすると出てきたガンマが、ジャンに囁いた。
「あの目にココロアタリがある、と思わないカイ?」
ジャンはそれには答えず、マヤに眼鏡をかけさせ背中に背負った。
路地を進み、突き当りを曲がると、明かりが漏れている木戸が一つあった。扉の上にはノミで打ちつけたようなギリシア数字のⅣが刻んである。
ジャンが扉を叩くと、覗き窓が開き、髭面の男の顔が現れた。
「なんですかい旦那? 手品師なら、いりやせん。ドーヴィルの劇場にどうぞ」
「ヴェルサイユのアランから聞いたんだけどね、四番は今日やってるかい?」
男の顔が覗き窓から引っ込むと、すぐに扉が開いた。
くぐもった騒音と、香辛料と酒と肉の匂いが中から漂ってきた。マヤは体を震わすと目を覚ます。ぐう、と大きく腹が鳴った。その音に髭面の男は愉快そうに笑う。
「嬢ちゃん、何か食うかい? おや、怪我をしなさってる?」
ジャンが苦々しい顔をした。
「いや、こいつは腕っぷしが自慢で、ここで一戦! とか息巻いてたんだが、喧嘩で腕を折っちまった。ボクシングをやってるのが自慢らしいんだが、まったく女って奴は……」
「おや、まあ」
マヤが呻いて話を合わせる。
「うるせえ……女だからって……差別すんな。あたしは……負けてないぞ」
男は笑い、マヤの腕を見て口笛を吹いた。
「こりゃヒデェや! 病院に行った方が良いんじゃないですかい?」
「いや、これの我がままでな。医者が止めるのも聞かず、入院する前にここに来たいって駄々をコネてな。あ、医者の許可証を見るか?」
男は肩を竦めた。
「いや、結構でさ。とにかく何か食べ物もってきやしょう。お嬢には柔らかいものでも。薬や包帯はいりやすかい?」
「包帯と食事を頼むよ。できれば個室が欲しいんだが」
「かしこまりやした。じゃあ、その先の階段を降りて、会場の前で待っていてくださいや」
男はいそいそと通路の横の扉を開け、その奥に消えた。
「いい奴だな……」
マヤはボンヤリと呟いた。ジャンはちらりとマヤを見ると、扉を潜った。
「こういう所を運営してる奴は、世話好きなんだ。だからといって、善人じゃないぞ。悪人でもないけどな」
「そんなもんかぁ……」
「そんなもんさ」
ジャンは廊下を進む。
次第に騒音が大きくなり、今やそれは大勢の興奮した声だとわかった。
階段を下りると、薄暗い扉が幾つもついた廊下が現れた。右に湾曲して続いているそれは、扉が、やはり右だけに幾つもついており、その一つの窓から覗くと、闘技場のように中は
階段状の客席があり、中心に方形の、土が敷いてある闘技場がある。
そこで、半裸の男二人が殴り合っていた。拳が当たり、血しぶきが上がるたびに、満席の客達が歓声を上げていた。
ジャンは窓から顔を離した。
「さあ、どうするんだ?」
ジャンの問いに、マヤは眼鏡を外した。
「……ああ、もうちょっと壁の方に寄ってくれ……」
「中に入るか?」
「駄目!」
ジャンがギョッとして振り返ると、マヤの目が爛々と輝いていた。ついでゴキリッと骨が折れたような音がする。
ジャンはマヤをゆっくりと背中から降ろし、壁にもたれさせた。
ゴキゴキと音が続き、包帯にまかれた腕が細かく震え始めた。
「……ほう」
「ジャンさん、悪いけど中を覗いてくれないかな。客がヤバかったら教えて」
ジャンは立ち上がると、窓から中を覗く。
ボクシングは相変わらず続いていた。
だが、二人は肩で息をしていた。客達の歓声もやんでいた。欠伸をする者や、目を瞬かせている者もいる。目を戻すとマヤは既に眼鏡をかけていた。
「なるほど……」
ジャンは状況を理解し、マヤの包帯と添え木を取り払う。張りのある血色のいい皮膚が現れた。指でぐっと押してマヤの顔を伺うも、痛みは無いようだった。
「お前……他に何ができる? 教授を庇った時のあれか?」
マヤは、うんと小さく頷いた。
「気味が悪ぃだろ? あたしは、こう……強い感情を吸えるんだ。で、それを自由に使えるってわけさ」
「正確に言うと、感情を媒介にして、エネルギーが吸える、だな。生まれつきか?」
「物心ついた時にはできたよ。で、練習して色々できるようになった。怪我を治したり、強い力を出したり、速く走ったり。ボクシングやってる時も相手を疲れさせたり、重いパンチを打ったり……」
「……まさか試合に出たのか?」
マヤは肩を竦めた。
「一度だけ。結果は想像して。母さんにそれで怒られたよ。あとは力を溜めとくこともできる。汽車の時のやつは、昼に市場を通った時の貯金を全部使ったんだ」
「……化け物だな」
ジャンがズバッと言うと、マヤはびっくりしたようにジャンを見て、それから悲しそうに笑った。
「はは、そうだな。隠して生きてきたし……人間じゃないよなあ」
「村を出るべきじゃなかった、と思わんか?」
「……村には、もういられなかったから……」
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