第6話:クズと聖女
ある三年生の女子生徒が部室棟へやって来た。一階の出入り口から進み入った辺りで、彼女を認めた他の生徒達は目を逸らし、怯えるように各部室へ入った――否、逃げ込んだ。
その女子は、よくよく研がれた逸物の刀の如く……鋭い双眼を持っていた。目を向けられるだけで切り傷を負いそうな双眼を前にして、そそくさと姿を消す生徒達を責める事は誰も出来ない。林道で熊に出会った時を思えばよろしい。
その女子は、不思議な程に「恐れ」を持たなかった。
人の多い部室棟の廊下をこうも我が物顔で歩けば、今後の生活に棘が立つかもしれない……。そのような気遣い、心配、恐れを彼女は持ち合わせていない。
怯えて逃げる? だからどうした? 私はそんな奴らに興味など無い。
声にせず、しかし全身から放たれる気は雄弁にそう物語り、逃げ惑う「有象無象」を一層追い立てた。
彼女は何者も恐れない。「誰かに気圧される自分」を見る事だけが恐ろしかった。
「私はね、浜須さん。もう少し君が賢い人間だと思いたかったな」
「……」
人気の無い三階の廊下。浜須は壁に背を向け――というよりは出来る限りの後退りをした為――不気味な表情で見つめて来る奉仕部の女と対峙していた。その女は胸ぐらを掴んだり、語調を荒くしたりはせず、唯、諭すように語り掛けた。
「いや、賢くはなくとも、察しの良い常識人であると願ったよ。あの時、君達は私から『今日は予定が合わなくてね、この次は歓迎するよ』と……果たして言われただろうか?」
浜須は何も答えない。下手な口出しはそのまま窮地への特急券となる気がした。彼女の作戦をすぐに察したのか、女は長い前髪を掻き上げ、笑顔と怒り顔の中間にあるような……奇妙な相貌を見せた。
「君が口を開かないのであれば、一層私が抱く印象は悪くなっていく。それだと浜須さん、君はとても困るのではないかな? どうだい、君達広報部の特技、『公平な取材』とやらを見せてくれ」
少しだけ、女の顔が近付いた。綺麗に整ったその顔から……浜須は目を背けたかった。美醜に係る理由ではなく――。
「…………し、しませんっ」
「おや、理由を訊ねても良いかな?」
「……貴女は、きっと広報部を憎んでいるでしょうから。どんなに真面目に頼んでも、どんなに脅しても……貴女は、私の知りたい事を絶対に教えてくれないでしょう」
自身に向けられた――浜須の後ろに控える、広報部全体を睨め付けるような――怨念じみた何かから、無意識に逃げようとしたからだ。女は「正確には」と、満面の笑みで答えた。
「罪を犯した、或いはその疑いを掛けられた生徒を面白可笑しく書き立て、花ヶ岡新報に載せ、無闇矢鱈に差別を助長する、広報部の姿勢そのものが大嫌いなんだよ」
凶徒の事を言っているんだ――浜須は思い、彼女の中で奉仕部と凶徒の密接な関係性が確定した。
「確かに罪を犯すのは良くない、疑いを掛けられたという事は、怪しい行動を取っていたのかもしれない。けれども、一度の過ちで巨大な十字架を背負わせ、反省や更生の機会を与えもせず、卒業まで石を投げ続けるのは――誉れ高き花ヶ岡高生のやる事だろうか?」
昔話を読み聞かせるような声色は、浜須の耳に据え付けられた持論というフィルターを通り越し、直接脳に「此方が正しい」と植え付けてくるようだった。
「仮に、君の友人が罪を犯したとする。大切な友人だ、家族と同列に語っても良い。そんな友人が、罪を一つ、出来心で犯したとして……。即座に手の平を返し、自責の念に駆られる友人へ、石を投げるかい? それとも、『一緒にやり直そう』と手を差し伸べるかい?」
ピシリ、と……浜須の心を支える、常識という柱にヒビが入った。
新しい観念。新しい思考パターン。新しいタイプの人間――。
予期せぬ新しさは驚く程の速さで浜須の心へ浸透し、次第次第に「私の考えは間違っていたのだろうか?」と自問自答を繰り返すようになった。
「……すぐに答えられないのだったら、浜須さん。君はもっと罪深い事を――」
刹那。突風のような気配を浜須は察知した。気配の発信源に背を向けていた女も気付いたらしく、振り返ると……。
俄に、女は眉をひそめた。
「おい、優しい聖女さんよ。テメェのいる場所はここじゃねぇだろ?」
鋭利な双眼を浜須ではなく奉仕部の女に向け(浜須は眼中に無い、といった感じであった)、乱暴な口調の女子生徒は天井を指差した。
「
一瞬で女の表情が変わった。明確な敵意を含んだそれに……浜須は目を見開いた。
「っ! 訂正してくれ! あの子達はクズなんかじゃない! 一度の過ちを赦せない、いつまでも引き合いに出して過去を嗤う方が、よっぽどクズじゃないか!」
面白い事を言うじゃねぇか――女子生徒は笑い出し、ツカツカと女の方へ歩み寄って行く。女は明らかに怯み、意地を働かせて何とか留まっているようだった。
「だったら教えてくれ。一度も忌手なんざ考えた事の無ぇ奴と、一度でも忌手を使った奴――どちらも一緒だ。テメェはそう言いたいんだな?」
「一緒だなんて言っていない、唯私はあの子達が――」
「誤魔化してんじゃねぇぞコラァ!」
ビクリと女、浜須の身体が震えた。部室棟全体が震えるような怒声を間近で浴び……女の目が泳いだ。
「一緒じゃねぇってほざくんなら、テメェが口にしたくない何かを言ってから抜かせよ! 言いにくいんだったら私が言ってやらぁ。決定的な差はな、そんな事を一瞬でも考えた『悪心』の有無だ! 普通は持っていねぇモンを持ち、それだけじゃねぇ、隠しゃいいものを露出し、他の打ち手に迷惑を掛けてんだぞ!」
ふと、浜須は女の横顔を見やった。
「……っ」
彼女は俯き、悔しそうに歯を食い縛っていた。
「テメェは差別差別と喚くがな、人間と獣を一緒にする程
女の両手はギリギリと握り締められ、唇は真一文字に結ばれている。
言い返したい、けれど……言葉が出ない。
そう女の背が語るようだった。一方、罵声を浴びせる女子生徒は蔑むように彼女を見つめ、「好い加減理解しろ」と吐き捨てた。
「金花会が出禁にする理由、花石を支給しない理由、賀留多に関する催事、《札問い》に至るまで一切の参加を禁ずる理由を! それを理解出来ねぇんだったら、テメェのしようとしている事は唯の――」
花ヶ岡の破壊だ。
言い終え、女子生徒は二人の傍を通り過ぎようとした瞬間、「一年坊」と呼び掛けた。浜須は自分が呼ばれていると考え、彼女の方を振り向いた。
「惑わされんな、戯れ言に。とっとと帰れ、でないと――毒されるぞ、その女に」
若干声調を柔らかくした三年生は、少し離れた部室へ入って行った。
「……」
言われるがままに帰る訳にもいかず、その場で狼狽えていた浜須に……女が「浜須さん」と静かな声で言った。
「は、はい……」
「見苦しいところを見せてしまったね。今日はもう遅い、構わず帰るといい」
私に構わず帰りなさい――彼女の言葉通りに、しかし浜須は出来なかった。先程までどす黒い謎に包まれ、恐ろしさに満ち満ちた奉仕部の女が、今では悔しそうに俯き、幼子のように弱々しく映った。
これ以上の問題は起こさないから、私達を、凶徒達をソッとしておいてくれ――あの三年生は、それを伝えたかったのかもしれませんわ。
脳裏にミフ江の言葉が過った。再び女を見やり……浜須は、奉仕部の彼女が四階で行っていた救済を思った。
この人は――罪を犯した方が悪いと分かりながら、凶徒を匿っていた。
賀留多文化から排除された凶徒の為に、違法を承知で打ち場を用意した。
恐らくは、永久に改善出来ない現状を……どうしようも無い現実を前に、この人は……この人は――。
この先輩は、それでも「あの子達をクズと言うな」と反論した。
何て悲しく、何て切なくて……。
そして、何て優しい人なんだろう。
「……こ、これ――使って下さい!」
浜須はポケットに手を突っ込み素早くハンカチを取り出すと、答えも反応も待たずに女の手へ握らせた。
「……浜須さん? 別に私は――」
「すいません、失礼します!」
深々と一礼し、徒競走のように浜須は駆け出した。
リボンが激しく揺れた。ズレるカチューシャの位置も気にせず、浜須は心中に芽吹いた罪悪感に顔を歪ませた。
もう、四階に関する事を調べるのは止めよう……。
「…………あれ?」
視界が揺らいだ。浜須は泣いていた。不意に瞳の潤んだ理由を知った時、彼女は真の「優しさ」の持つ、温みを思い返していた。
翌日。登校して来た浜須は下駄箱を開き、貸したはずのハンカチと一葉の手紙を認めた。ハンカチからは自宅のものではない柔軟剤の香りが漂った。そのまま彼女はトイレに向かい、個室で手紙を開いた。そこには――。
昨日はありがとう。
君にハンカチのお礼がしたいから、良ければ今日の放課後、一七時に駅前の《リコルディ》というカフェで会えるかな。
来てくれる事を願っている。
追伸
君に悪口を言った件でも、合わせて謝りたいんだ。
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