第5話:貴女のお陰です
「いよぉー、ヒナちゃーん! もう帰るん?」
景気の良い購買部長の声が廊下の向こうに聞こえた時、飛凪は胸に抱えた三冊の本を無意識に――彼女から隠すように――抱き締めた。
「お疲れ様です、部長。……はい、今日は用事がありまして。申し訳ありません」
部長は早足で接近し、「何言うてんの」と内心怯える飛凪の頭を撫でた。
駄目! 見ないで! お願いです!
願いつつ、何とか部長の目に「例の物品」を曝さないよう振る舞うも……。
「今日はヒナちゃん、当番の日ちゃうやん。自由にしたってや――うん? 何やそれ、本?」
「…………はい。家族に頼まれまして。家族も週刊賀留多馬鹿を読みたいと言っていたので」
「おぉ! えぇなぁ、家族で読書会とかお洒落さんやん。ってか何でそんなコソコソしとんねや、もっと胸張って歩ったらええやろ」
背筋を伝う冷や汗に眉をひそめながら、しかし咄嗟の嘘にしては上出来だと自分を褒めたくなった。良質の嘘を作り上げるには多少の真実を混ぜ込む事――飛凪は否応無しに嘘吐きの技術を磨いたのである。
「折角ヒナちゃんはクールビューティーなのに勿体無いで、もっとシュッとして、そうそう背筋伸ばすんや、そいじゃまた明日な! 気ぃ付けて帰るんやで!」
立て板に水とはこの事だ――背筋を無理矢理に伸ばされた飛凪は思い、だが「これで問題は解決したんだ」と溜息を吐いた。一番「極秘配達」の件を気付かれたくない人物と会話をし、ありがたい事に雑誌についてまで堂々と説明が出来たのだ。まさに望外の喜びであった。
多少は気が楽になった為、飛凪は不自然に雑誌を抱き留めず、右手に携え歩を進めた。間も無く行き馴れた部室棟へ入り、一応は目立たぬよう廊下の隅を歩いて行き――注文者の待つ四階へと到着した。
「……」
階段を昇り終え、薄暗い廊下に出た瞬間、「そういえば《白札》は要らないのだろうか」と飛凪の動きが止まった。今までなら百葉箱に入った白札を回収し、勘合符のように提示する事で初めて商品を受け渡せたが……。
「……っ」
今回の場合――スマートフォンに直接依頼が来た場合はどうするのか?
閉じられた第四準備室の扉の前に立ち尽くした彼女は、気は進まないがメッセージを送ってみようかとも考えた。
「飛凪さん?」
ピクリ、と飛凪の身体が震えた。扉の奥から幾度か聴いた声が響いた。飛凪の予想通り、開かれた扉の向こうから「簪の三年生」が現れ、ニコニコと笑んで手招きした。
「あぁ、やっぱり飛凪さんですね。どうぞ、入って?」
「あの……でも……」
「あら、どうしましたか?」
何故か白札の有無を伝えるのが躊躇われた。犯していないはずの失態を責められるような気がしたからだ。しかし三年生は飛凪の困惑を感じ取ったらしく、「あぁ」と手を打った。
「もしかして、白札? あれはもう、要りませんよ」
力の抜けるような柔和な笑みを湛える三年生は、戸惑う飛凪の手を取り、教室へ引き入れた。
「私達、もう知らない仲ではありませんから」
この人から逃れられない――首元に大蛇が巻き付いたような感覚を覚えながらも、しかし一方で……安堵感、幸福感が胸中に生まれているのを飛凪は感じた。生まれ持ったキツい表情は、幼い頃の彼女に「きっと、私は友達が作りにくいタイプなんだ」と自覚させた。
友達は欲しい。欲しいけれども……出来ないからといって悲しむ必要は無い。何故なら私はそういうタイプだから。
悲愴的な自己理解を十分にしているからこそ、購買部長や――簪の三年生のような人間には、どうしても強く惹かれるのだった。
「あれっ、飛凪さん、手が少し荒れていません?」
細く、柔らかい手が飛凪の手を擦った。
「このクリーム、最近使っているんですけど……」
三年生はポケットに忍ばせていたチューブから適量を取り出し、そのまま飛凪の手の甲に載せ……娘を思う母親のように、丁寧に擦り込んだ。
「あっ、ありがとう……御座います……」
「ウフフ、お礼なんていいんですよ。そうだ、匂い嗅いでみて?」
言われるがままに嗅ぐと、果物のような爽やかな香りが鼻を通り抜けて行った。
「……良い匂いです」
「でしょう? それはね、ヴァーベナってハーブの匂いなんです。家に、もう一本あるから……使い掛けで申し訳無いんですけど、差し上げます」
「いっ、いえっ……! それは流石に――」
慌てる飛凪の表情を見つめていた三年生は、やがて抑え切れないようにクスクスと笑い始めた。
「あの……何か……」
「ごめんなさい、ごめんなさいね……つい笑ってしまって。飛凪さん、あどけない表情するんだなぁって」
頬が素早く熱を持った。すぐにいつもの表情へ戻った飛凪は、気恥ずかしさから俯いてしまったが……。
「飛凪さんって、とっても可愛らしい方なんですね」
もっと、早くにお知り合いになりたかったです――簪を微かに揺らして笑い、三年生はチューブを飛凪のポケットに滑り込ませた。
まさか飛凪さんが……?
四階から降りて来た飛凪を影から見つめるのは、名うての代打ち《ステゴロ柊子》から「調査依頼」を受けた浜須だった。昼休みの一件がどうにも心に引っ掛かった浜須は、再度、喫茶店にでも誘おうと後を追っていたのだが――。
部室棟、四階へ向かう彼女を目撃した時、浜須は声を掛けるのを止めた。
部室棟四階――生徒会から見放された《奉仕部》が、そして……。
取材を拒否した、あの三年生がいる場所……。
ソロソロと物陰から出て来た浜須。既に飛凪の姿は何処にも無く、すぐに窓際へ駆け寄り見下ろすと、彼女らしき人物が校舎に向かって歩いていた。本日の調査は続行不可能と踏んだ彼女は、四階に続く階段の方を見やった。
私と史氷先輩は、あそこから上に行く事は叶わなかった。
どうして飛凪さんだけは出入りが可能なの?
考えろ私、考え――あっ……。
「オキラク便……?」
しかし浜須はすぐにかぶりを振った。購買部のオキラク便配達員は、例え荷物がジュース一本であっても大風呂敷を背負うはずだった。この風呂敷をどんな時でも背負って歩く事で、更なる広告効果を期待する――《花ヶ岡新報》でこのようなインタビュー記事を読んだはずだった。
部内規則に細かい購買部長に逆らいたかった?
それとも単に仕事終わりだから風呂敷を外した?
或いは…………。
「……っ」
三冊の《週刊賀留多馬鹿》を買って帰った飛凪の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。途端に、浜須は脳天を雷で打たれたような閃きを得た。
購買部である飛凪さんは、風呂敷を背負わず、禁足地――凶徒がひしめく魔境――である部室棟の四階へ出向いた。
当日の昼、三冊の《週刊賀留多馬鹿》を広報部に買いに来た。購買部を通さず、現金で。
三冊も買う程熱狂的ファンかと思えば、飛凪さんの名前は定期購読者名簿に載っていない。そもそも愛読者なら発売日当日に買うはずだし、昼休みに買わずとも放課後、購買部の活動中に買う方が確実で早い。
総合して考えると…………やっぱり、飛凪さんは凶徒と――!
「また君かい」
「ひっ……!?」
背後からの呼び掛けに、浜須は心臓が飛び出す思いをした。
「そこで何をしているのかな? 広報部室は校舎にあるだろう」
甘い、特徴的な香りが後ろから漂った。長期に渡って捨て置かれたロボットのように……ぎこちなく、震える身体を必死に抑え振り返ると――。
「今日はどういう用件で部室棟に? 他の部活を取材? それとも、君達の持っているという公平な手段によって、誰かを追っているのかな?」
肩から黒いトートバックを提げ、微笑むとも怒るともつかない相貌の三年生……。
「困った子だね。押し黙るのは癖だろうか」
奉仕部の女が立っていた。「あれからどうだい」と女が目を細めた。
「あの二年生に教えて貰ったかい。禁足地の意味を……まぁ、その様子だと――」
微笑、それに似た表情を浮かべた女は続けた。
「まだ、知らないようだな」
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