第11話:温みの渦中
常識を考えて――鶉野摘祢に家族がいるのは当たり前だったし、彼女がスーパーマーケットに出向くのも、普通なら珍しくも無い事であった。
しかしながら……京香は眼前に広がる光景――精肉コーナーで挽肉を選ぶ鶉野――に、強い非現実感を覚えていた。
京香にとって鶉野摘祢とは、極彩色の不気味な「卵」から不気味な音を立てて孵化し、長年に渡って暗く湿った洞窟の奥深く、人目を忍んで育って来た怪物であった。
見つめ合う者の思考をもぎ取り、精神に著しい悪性の何かをもたらすであろう双眼。
結果として知ってしまった「
他人を見下しているのか、利用しようとしているのか看破出来ない頭脳。
闇の上から墨を垂らしたような、執拗な漆黒さを魅せる髪。
諸々の彼女を構成する要素全てが、京香にとってはこの世ならざる別世界から渡来した「怪異」に思えた。
過剰なまでに鶉野を「怪物」と定義する事で生まれた常識が……今、京香の中で大きな転換期を迎えようとしていた。
「羽関さん、もずくは食べられるかしら」
「えっ? あぁ、はい……食べられます」
「そう。だったら人数分買わなくちゃね」
怪物――鶉野は買い物籠にもずくのパックを五つ入れると、京香が付いて来ているかを確認もせず、スタスタとインスタント麺のコーナーへ向かった。
「あの……」
「何」
真剣な眼差しを陳列棚に向ける鶉野へ(本日限り、という文章が彼女を惹き付けているらしかった)、京香は怖ず怖ずと問うてみた。
「鶉野さんも……インスタントラーメンとか、食べるんですか?」
鶉野はゆっくりと顔を上げ、「時々」と答えた。
「袋タイプのラーメンがあるでしょう。こういうの。……遅く帰った時とか、夕食の準備を急ぐ時に重宝するのよ」
勿論――インスタント麺の袋を三つ(醤油、味噌、塩)、割れないように籠へ入れつつ鶉野が続けた。
「それだけ出す、というのは芸が無いし栄養も足りない。野菜炒めを載せたりして、タンメンのようにするけれど」
またしても鶉野は素早く歩き出し、次なる目的地へ向かう。京香も急いて後を追って行くが、鶉野が時折立ち止まって安売りのポップを確認する為、何度も後ろから追突しそうになった。
籠がそれなりの重量になった頃、鶉野は菓子コーナーに出向いて――靖江天狗堂で食べた動物のビスケットを三箱追加した。
「羽関さん」
「は、はい?」
鶉野は周囲の棚を見回し、「欲しいものはある?」と訊いてきた。
「いえ、何も……無いですけど……」
「遠慮しなくて良いのよ。お客さんなのだし、好きなお菓子を買いなさい」
何でもいいから買え、と命令するような声色に……京香は断る事の労力と気兼ねする面倒さを天秤に掛け、結局一〇〇円程度のポテトチップスを手に取った。
「本当にそれが欲しいの」
事実、京香が欲しいのは一箱三〇〇円の、しかも量より質を重視する本格派チョコレートであった。但し、この商品は購買部でも取り扱っていた為、後日花石で買おうと彼女は考えた……という訳であった。
「はい、弟君達と食べようかなって…………はい」
ジッと見つめて来る鶉野。やがて同じものをもう一つ、籠に入れた。
「五人いるから、これぐらいは必要ね」
あぁ、鶉野さんも食べるんだ――京香は歴史的発見をした考古学者のような気持ちになった。
鶉野家はスーパーマーケットから程近い場所にあり、花ヶ岡高校には自転車で通えるぐらいの立地であった。屋根のみのカーポートには小さな自転車が三台、乱雑に置かれていた。鶉野曰く、両親はまだ帰って来ていないらしい。
「困った子達ね。遊んだらしまいなさいと言っているのに」
フゥ、と小さく溜息を吐きながら自転車を並べる鶉野。腕白な我が子に手こずる母親の如き背に、京香は不自然な生活感を見出した。
「お待たせ。さぁどうぞ、散らかっている事には目を瞑って頂戴」
玄関ドアが完全に開き切るや否や――突風のように走る三人の弟達が、居間の方からキャアキャアと声を上げてやって来た。
「お帰り、お姉ちゃん!」
一番小さい弟が鶉野に抱き着き、ブレザーに顔を埋めた。残る二人は驚いたように京香を見つめ……。
「ねぇお姉ちゃん、このお姉ちゃん誰?」
「誰? この人誰?」
靴も履かず、京香の傍へやって来て不思議そうに見上げる弟達。鶉野は小さな弟を抱き上げ、「ご挨拶しなさい」と命じた。
「羽関京香さんというの。この前お話したでしょう、ぺんぎんのお姉ちゃんよ」
「こ、こんばんはー……エヘヘ」
数秒後、弟達は京香の手を引いて「ゲームしよう!」と居間へ連行していった。戸惑う京香を見やりながら、鶉野はレジ袋を持って台所へ向かった。
「羽関さん、悪いけれど、ゲームに付き合ってあげて頂戴」
分かりました、と返事をする前に京香用のコントローラーが用意され、傍にピッタリと弟達が寄り添った。一番下の弟に限っては京香の膝の上に座り、「お姉ちゃんと違う匂いするー」と笑った。
「ぺんぎんのお姉ちゃん、何する? 僕ね、車のゲーム強いからね、一緒に車のゲームしよう」
次男らしい弟が誇らしげに京香を誘った。
「車? そんなゲームがあるの?」
「うん、とても僕強いんだ。だからね――」
その時、台所の方から鶉野の叱言が飛んだ。
「こら、三人共。お姉ちゃんにお名前を言いなさい。失礼よ」
ごめんなさーい、と三人は形式上の謝罪をした後、長男から自己紹介をし始めた。
「僕、鶉野勝樹、九歳」
「僕は章樹、七歳でね、一年生なの」
「達樹! 年長さんなんだ。いつもね、お婆ちゃんが迎えに来てね、でもお婆ちゃんはお爺ちゃんのお世話で忙しいから夕方にね――」
「そこまで説明しなくて良いわよ達樹。ごめんなさいね羽関さん、この家、滅多に来客が無いから喜んでいるのよ」
京香が気の利いた返事をしようと口を開いた瞬間、弟達は何倍もの声量で「どのゲームで遊ぶか」という終わりの見えない会議を始めた。
勝樹は年長らしく、京香が好きなゲームで遊ぼうと提案するが、横から章樹が「如何にレースゲームが面白いか」を熱弁し、膝の上に居座る達樹が「ぺんぎんのお姉ちゃん、何歳?」と問うた。
「私? 私は一六歳だよ。達樹君は、えーっと、六歳かな?」
「そうだよ! えー、凄いねお姉ちゃん! 何で何歳か分かるの? 魔法使いなの?」
さて、どのように答えようかと悩んでいたところに、勝樹が「達樹は幼稚園の年長だろ、年長は六歳なんだぞ」と自身の経験からか答えた。
「何で? 何で分かるの?」
「だって年長は六歳なんだよ、先生に訊いてみろよ」
的を射ていない返答に、しかし納得したのか達樹は「早くゲームしよう」とぐずり始めた。台所からまな板を洗う音が聞こえた。
「あーっと、お姉ちゃん、皆で遊べるゲームがしたいかなぁ」
だったらこれだね――三人は声を揃えて一つのゲームを勧めて来た。彼らの意見の一致が珍しいのか、鶉野が「偉いわ、皆」と褒めた。
やがて、京香を含めた四人はゲームを始めた(双六のように進み、途中でミニゲームを挟むというパーティ系だった)。久方ぶりのゲームという事もあり、京香はすぐに最下位へと転落、三人は競って京香を勝たせようと、ミニゲームが始まる度に熱心な指導をした。
「こう? あっ……また落ちちゃったね」
「違うよ! このボールをね、落ちないようにしなくちゃいけないから、こうやって右に動かした後は左で――」
「ぺんぎんのお姉ちゃん、もっと右、右!」
「アハハハハ! ぺんぎんのお姉ちゃん、身体をすっごい動かしている!」
京香のボールが崖から落ちると、同時に三人が腹も千切れんばかりに笑い転げた。玉葱を微塵切りに刻んでいる鶉野は、チラリと四人の方を見やり――。
微かに、目を細めたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます