遥か彼方の君へ

 私の横を勢い良く走り去った生徒が、一体誰だったのかを思い出したのは、生徒会監査部長と擦れ違った時だった。部長は何処か悔しそうな、しかし「サッパリした」といったような……不思議な表情だった。


「廊下を走るは淑女に非ず」――書道部が書いた張り紙を無視する生徒は、確か隣のクラスの酒田……何とか、だったはず。下の名前で他人を呼ばない癖が、こうして私の記憶力を悪くするのだろう。


 だけど仕方無い。何だか、下の名前で呼ぶのが気恥ずかしいからだ。小学生の頃に、仲良くなったと思い込んでいた友達の名前を呼んだ事がある。するとその子は「近くない?」と笑った。


 それから私は、極力他人を名字で呼び、下の名前は――「全て与えても良い」と思える程の人だけ、呼ぶ事にしたのだ。


 全てって、変な意味とかじゃない。自分の持っている知識とか、誰かに向けた友情とか、愛情とか。難しい事は分からないけど、何か「形の無い」ものって事。




 今……私のクラスには「名前を呼びたい」って思える人がいない。正確には、いなくなった、のだけれど。


 一部の人達を除いて――クラスメイトは優しい人ばかりだ。少し前に問題を起こした私の事を、「気にする事無いよ」とか「アイツらに唆されたんだよね」とか……口々に慰めてくれた。


 嬉しかった。だけど、私はどんなに慰められても、「問題を起こしたグループの一人」だ。自分と、グループの人達は確かに繋がっていた時期がある。


 今でも、その人達とは会話が無い。恨まれている、というよりも「腫れ物扱い」って感じだ。


 下手に触れば、また巻き込まれる……言葉じゃない、目線がそう言っているようだった。


 結果として、私が何もかも壊してしまったけど……楽しい事も沢山あった。だから、「良い子の振りをしている」とから、例え恨まれていたとしても、残りの高校生活を無事故無違反、平穏に過ごしていくと決めた。


 私なりの、私の為だけの、私ぐらいしかやらない「罪滅ぼし」だ。




 ……最近、私はある下級生いちねんせいの事を考えてばかりだ。


 下級生は男子だった。彼は私の為に……報酬も無いのに《札問い》の代打ちを引き受けてくれた。卒業するまで《札問い》なんて、自分に関係無い事だと思っていたのに。人生って分からない。


 打ち明ける事の出来なかった悩みを、彼は真摯に聴き受けてくれた。


 私はというと――《札問い》に勝利した彼の努力を、踏みにじっただけだ。




 あぁ、私って馬鹿なんだな。生徒会のドアを叩いた時、ふと思った。




 謝ろうと思っていた。でも、弱い私にはそれが出来ない。手紙を書いて下駄箱に入れて、「反応が無い」事を喜ぶしか出来なかった。直接対面すれば、何かしらの反応を受け取る事が出来る。それが何より怖かった。


 きっと彼は怒っているだろう。それで良いんだ。


 無神経なくらいが私にはお似合いだ。


 本当は辛くて、怖くて、誰かに手を握って欲しくて……。




 恥ずかしげも無く、誰かに抱き着きたい。「私はこれで良いですか」と。




 それではいけない! 私だって反省はする。


 細い枝のような心に、色んなものを塗り固めて装飾し、果たして「私」という作品を作る事に決めた。


 そういえば、図書館で暇を潰している時、何気無く読んだ美術の本に「蒔絵」の紹介があったっけ。


 ついつい……私は笑ってしまった。


 こんな私の「名前」が入っている技法があったからだ。読み方は違うけど、漢字は一緒だ、遠慮もしないで……「私にピッタリだ」って思った。


 あの一年生は、私に欠落した何かを全部持っていると思う。とても真っ直ぐで、芯が強くて、格好良くて。


 何だか、可愛くって。異性を可愛いと思ったのは初めてだ。




 今頃、彼はどうしているかな。




 そう思った瞬間から……胸の奥に懐炉を仕込んだような……とっても温かい気持ちになった。


 私は図書館を出て、らしくない足取りで帰宅した。身体の奥から力が湧いて来た、とでも言えばいいだろうか。




 美術の本で「私」を見付けて、今日でもう何日が経っただろう。一時のだったはずの「今頃、彼は――」という思考。


 日に何度か、私は「今頃、彼は――」と考えるようになった。ご飯を食べる時も、優しいクラスメイトと賀留多を打つ時も、お風呂に入っている時も。


 図々しい私は、最近ではもっと身勝手な欲求を抱くようになった。


 今頃、あの人はどうしているだろうか――。


 こんな風に、私の事を考えてくれればなと……夢を見るようになった。


 楽しい夢だった。夢は夢として、として、ソッと心の片隅に置いておくのが一番だ。


 さぁ……そろそろ家に帰ろう。夢は遙か遠くにあるもの。「お礼」だって、何も出来ていないのに。


 遠く、遠く――遙か彼方で輝くから夢なんだ。私のそれは棘だらけ、触ればあっと言う間に怪我をするだろう。見るだけで充分だ、絶対に。


 大きな校門を出て、ゆっくりと空を見上げた。雲が太陽の緋色に縁取られている、此方へ落ちて来るようだった。


 歩いている内に、私は……ふっと思った。


 仮に――夢を叶えるとしたら、何処まで私は「加工」されれば良いだろう? 私という素地に、何処までお化粧をすれば良いのかな? って。


 うん……やっぱり――。


 金地、ぐらいだろうか?

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